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Accumu Vol.4

初代学院長の思い出 京大音研

京大音研

「何と申しあげていいか,ほんとにもう30年以上になるんですね。歌っていてタイムトンネルに入っていったような感じでした」

1992年2月5日,本学院京都駅前校舎6階にある音楽ホールの杮落しで,シューベルトの歌曲「美しき水車屋の娘」全曲を熱唱された原田茂生先生は,そう語られた。

世界的なバリトン歌手,そして東京芸術大学教授,同大学音楽学部部長の要職にあられる原田先生は,1955年に京都大学工学部を卒業された。

京大在学中には,京都大学音楽研究会(音研)に属され,その当時の思い出を次のように語ってくださった。「音研時代には,やれフルトヴェングラーだ,やれトスカニーニだと喧嘩腰で議論したおかげて,音楽の聴き方も普通に音楽学校に入るより,いろいろな意味で広い聴き方を習えたような気がします」

この,談論風発に満ち溢れ,音楽を通じ友情を深め合っていた当時の音研に,哲学を愛し,フランス象徴主義の詩に通じたひとりの青年詩人がいた。

三十数年たった今日,その頃の友人達はその青年の面影をさまざまに語る。

「今でも鮮明に憶えているのは,彼がバッハのインベンションを暗譜で弾いたときの様子です。バッハは難しいんですよ,暗譜するのは。それで,すごいやつだなと思いました」

また,「彼は詩人であり,ショパンの雨だれが得意でした。彼の演奏は,まさにピアノの詩人コルトーばりでした」

あるいは,「ある時,いらなくなった本を貰ってくれといって岩波文庫の古いものなどを部室に持ってくるんです。部室にいた者は半分押しつけられるように彼から本を貰いました。私が貰ったのはカントの『美と崇高な感情に関する考察』という本でした。その後引っ越しを何回もして古い本を処分したりしたのですが,何故かその本は今も大事に本棚に飾ってあります」

その青年が後の,京都コンピュータ学院創立者,故長谷川繁雄初代学院長てある。

初代学院長は,学生の知性・感性の均整のとれた人格育成のために,学院内に自前の音楽ホールを創るという夢をもっておられた。

そして「ホールができたら一番最初に原田に歌いにきてもらうのだ」というのを口癖にされていた。

ホール竣工を記念して,当時の音研メンバーに「原田茂生リサイタル」と「音研同窓会」の開催を本学院,長谷川靖子学院長が呼びかけた。2月5日,この日,三十数年ぶりに各界の指導者として活躍されている往年の京大音研,多士斉斉が京都に集まった。

「お手紙を拝見すると,長谷川繁雄君が6年前に亡くなられたということが書いてあり非常に驚きました。それとともに30年前がわっと蘇ってきたんです。それで,いても立ってもいられず旧友に電話し,誘い合って来させていただきました」

原田茂生先生

――今,故長谷川繁雄初代学院長の念願が叶い,竣工したばかりの音楽ホールに旧友が集い,舞台では原田先生がシューベルトを歌う。

「今日の曲の大部分は,音研時代に新徳館であるとか時計台下の講堂などで工学部学生であった原田君が歌い,私がピアノを弾かせてもらった思い出の曲でした」とあるOBの方は仰られた。そして「不思議なもので,彼が歌い始めると,ここでちょっと遅く出るとか,早く出るといった個性がそのままで,自分がまたあの頃に戻ってピアノを弾いているという錯覚をふっと起こさせました」と続けられた。

また,お歌いになられた原田先生も「もともと曲自体が,物語はあるけれど,時間の流れを超越したようなところがありますので,歌いながら皆さんの顔がちらちら見えたりすると,三十数年前の情景が曲とともに蘇るように思え感無量でした」と感想を述べられた。

この日の,「美しき水車屋の娘」は故長谷川繁雄初代学院長に捧げられた。曲が進むにつれ,ホールを埋めた聴衆は歌の世界に引き込まれていった。そして終曲。

   おやすみ 目を閉じなさい!

   疲れた旅人よ・・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・

   すべてが目覚めるまで,おやすみ!

   喜びも悲しも忘れて眠りなさい!

   満月が昇り,霧が晴れる

   上に広がる空の何と遠いことか!

空の遠さ。過ぎ去った歳月の遠さ。そして胸を焦がすように鮮明な青春の面影,亡き人の面影。原田先生の熱唱は,聴く者の心にさまざまな想念を去来させ,遂にはそれを純一な感動て染めあげてしまった。その日ホールに集まった人々にとって,それは音楽を心で聴き,魂が限りなく高揚するというたぐいまれな瞬間であったのではなかろうか。

(文 アキューム編集部)