京都コンピュータ学院(KCG)の創立者のひとりである長谷川繁雄 初代学院長が永眠して30年の月日が流れた。その間,KCGグループはどんどん発展を続け,卒業生は情報教育機関としては4万人以上を誇り,他の追随を許さない。さらに京都情報大学院大学の開学,京都自動車専門学校のグループ合併,吸収も合わせ,今では日本はもちろんアジア,世界をも代表するコンピュータ教育機関としてその名を馳せている。2013年には創立50周年を迎え,同年6月1日に国立京都国際会館で開催した記念式典では,国内外の教育機関など産官学の来賓のほか,校友ら2000人以上で盛大に祝ったのは記憶に新しい。長谷川靖子現学院長とともに発展・栄光の礎を築いた長谷川繁雄 初代学院長について,本誌・アキュームでは「初代学院長の思い出」と題し連載,学内外の方々に寄稿していただいてきた。永眠後30年を経た今,振り返ってみたい。(アキューム編集部,肩書は執筆当時)
本誌・アキュームは創立25周年を機に,1989年に創刊した。「初代学院長の思い出」はこの第1号から始まり,初回はKCG京都駅前校校長などを務めた牧野澄夫さん(13号も),川崎昇さん(三井物産株式会社勤務),前田親彦さん(医師),番齋さん(京都ソフトウェア研究会1期生,株式会社環境施設計画代表取締役)をはじめ学内外の多くの方々が寄稿した。
牧野さんは「独立独行のひと」のサブタイトルで冒頭,長谷川繁雄初代学院長について「self-madeの人であった。文字通りmade-by-oneself自らを教育し,自らを創り上げた人であった」と記している。「先生は,人の話を聞いてそれを受け入れるかどうかの判断を行うのは,あくまでも自分自身であるという主義を,生涯を通して貫かれた」と尊敬している。
また,初代学院長から聞いた話としていくつかを挙げている。▽古代ギリシャの先哲の言葉 ▽古代中国の荘子の言葉 ▽仏教経典―などで,「(話を聞いて)いつも共通して受ける印象は,そうした言葉が,先生の頭の中で精選され濾過されて,先生の血肉となっていることであった。丁度,美術のコレクターの中に,世評を一切無視して,あくまでも自分の眼だけを信じて独自の美的世界を創り上げた人があるように。あるいはまた,仏教に於て,身命を賭して経典を読み取ることが称揚されるが,丁度そのようにして,先生は本を読まれたのではないかと思われる」と書いている。さらに,学院紹介DVDなどで使われる初代学院長の言葉「事情があって,大学へ行かない子,いやそれ以上に,自覚的に大学へ進まない子を教育するんだ。その子たちを,大学へ進んだものと肩を並べて,それどころか,それ以上の人間にして世の中へ送り出すんだ。京都コンピュータ学院は,そういう子たちが,各自お金を持ち寄って,ここまで創ってきたのだ。これからも,一人一人の学生が,自ら自分の学校を創ってゆかなければならない。私は,その手助けをしているに過ぎないんだ」は,牧野さんのこの寄稿からの引用だ。
川崎さんが寄稿したタイトルは「自己の理想を追われた先生」。KCG開学前,まだ京都大学文学部哲学科に籍を置いていた初代学院長が和歌山で開いた塾「和文研」における最初の生徒のうちのひとりで,大学の副読本を教材にしたユニークな英語の授業の様子を語っている。川崎さんは国際基督教大学,三井物産と進み,当時学んだ英語力を生かした。同じく塾の生徒で経済的な事情を抱えていた前田さんは,初代学院長が「授業料のことは心配せず勉強に来なさい」とおっしゃってくれたことに大変感激したといい,塾がとても明るい雰囲気で自由活発な空気が満ちていたことを懐かしく振り返る。番さんは「あの下駄の音がよみがえってくる」として,初代学院長のお人柄に触れている。
「同じ飯盒の飯や鍋の味噌汁を分け合い,フロ屋では,人生について,まさに〝裸の議論〞を交わし,東山界隈の路上では文学や夢を語り,時には喧嘩もやる,今から思えば懐かしく貴重な一時期を持った」という京都大学時代の同級生,松村隆雄さん(読売新聞大阪本社 新聞製作工程委員長)は「若き日の長谷川繁雄初代学院長」のタイトルでアキューム2号に寄稿。「お互いにゲル欠で,文学青年という点では似ていたが,大まかな私などと違い,非常に精細な神経と鋭敏な感情の持主であった反面,誠実で純粋,強固な意志と行動力も併せ秘めた詩人だった」「当時の左傾的な時代の雰囲気の中でも,詩を作り,哲学書をひもとき,大学の新徳館のピアノをひくという芸術,哲学の徒の立場を一貫して守り,浮ついた政治色には染まらなかった」と評している。また,現学院長をフィアンセとして初めて紹介されたとき「お互いの詩を通じて,すっかり意気投合された様子で,そのお熱いカップルぶりは羨ましい限りだった。この詩と宇宙の合体から何が生まれて来るのだろうと思ったものだった」とユーモアを交えながら振り返る。
KCG設立のころの話も紹介している。「氏は希望に燃えていた。コンピュータ学校の計画があることは風の便りに聞いてはいたが,まだ当時ではよその世界のことだと思っていた私は驚きと共に,いよいよ〝宇宙と詩の伴走〞の夢が現実にスタートするのかと,その先見性に目を見張ったものだった」と。亡くなる1年前に何年ぶりかで会ったときの話で締めくくられている。「親しみ深く,率直で誠実な人柄は昔と変わらなかった。その上に,以前から併せ持たれていた固い意志と実行力,それに凡庸な常識に左右されない直観力が,厳しい事業経験の中で鍛えられながら,先見的な着想を次々に呼び起こし,夫人の専門的な識見と示唆に支えられて,今日の信念ある教育事業家を誕生させたのであろうと,ひとり想いを回らした次第だった」
アキューム3号は広報活動でお付き合いのあった弘中實さん(株式会社リクルート西日本教育機関広報部部長)。弘中さんがKCG担当になってあいさつに来られた際の話として「『君も学院の一員,精一杯お互い協力し合おう』という先生の情熱,心配りがひしひしと伝わり,感激させられました。先生のお話の中でも,とりわけ,学院の将来を語られる時の嬉しそうなお顔が印象的でした」とつづっている。また「何度かお会いするうち『先生は,この世のすべてを知りつくし,私の何もかもを見透かしておられるのではないか』と思うようになりました。商売色の強いものや,短絡的な提案をした時は『もっと学院のことを勉強しなさい』『会社の商品づくりに自信を持ちなさい』と言われているようで,大変反省させられました。あの鋭さと柔和さの相反する輝きをもたれた眼は,私にとって学生時代のお寺めぐりに垣間見たお坊様の眼と同じでした」とも表現。原稿ミスをした際の応対など「真の優しさ」を持たれている方だったとしている
同じ3号には,初代学院長が新任教諭として着任した奈良県吉野郡の山あいにある川上村立第三中学校時代の同僚教諭,山本美智子さんが寄稿。「初代学院長も私も20歳代と若く,体育大会のリレーなどでは張り切って全力疾走したこともなつかしい思い出としてあります。また,そうした活発な反面,放課後になると初代学院長は必ず音楽室でピアノの練習をされるという芸術家的な面もお持ちでした。曲目はソナタだったと記憶しております。何事にも熱心でロマンチストだった初代学院長が女生徒にとって憧れの的であったことは言うまでもありません」と紹介。亡くなる1年前の同窓会の様子を振り返り,「初代学院長の教育の根源は自らの人間性と全人格をかけた生徒への「愛」の一字にあったと確信します」と結んでいる。
同じく初代学院長が川上第三中学校の担任で,その後,建築関連メーカーに勤務して仕事の付き合いもあった西村正宜さん(ダイワロイヤル株式会社)はアキューム18号にインタビュー記事を掲載。西村さんは初代学院長の最初の国語の授業で,びっくりしたことを昨日のことのように覚えているとして次のように語った。「まずいきなり『教科書を閉じておきなさい』って言われるんですよ。不思議に感じながら言われたとおりにすると,先生はおもむろに黒板に白,赤,黄色のチョークを使い分けながら絵を描き始めたんです。国語の授業のはずだよなと呆気にとられ,級友同士,顔を見合わせながら首をかしげるばかりでした。先生は絵を描き終えると,生徒の方に向きなおって何やら話し始めました。よく見るとそれは,教科書の内容を題材にした絵だったのです。絵をもとに,その話は何を言わんとしているのか,登場人物の心の動きなどをこと細かく説明なさるのです」。初めて経験する授業ではあったが,楽しく,書かれていた文章の内容がよく理解できたという。また初代学院長が,頻繁に開校された「青空学校」でカメラに収めていたこと,放課後は毎日のように音楽室でピアノを弾いていたこと,卒業を控えたころ「勉強を続けなさい」と強調されたこと,そして多くの教え子が仕事をしながら夜間の学校に通えるよう兵庫県明石市の商店主に掛け合ってくれたことなどを振り返っている。
住宅関連メーカーの支店長時代,KCG高野校の建設計画が持ち上がった際に再会。5カ月で完成させることを譲らず,当時の技術では時間的に厳しく,さらに建築ブームもあって他の仕事を多く抱え,思い悩んでいだ西村さんに対し初代学院長は「1日は何時間あるか知っているか。8時間しかないと思っているんじゃないだろうな。やる気になれば,何でもできるんだ」「君は責任者だろ。即断即決できなくてどうするんだ」と叱咤激励したという。訃報が届いたときを振り返り,このように語っている。「あまりにお若い。そんなことがあってもいいのか。しばらくは何も考えられませんでした。その後,中学校時代に山や川へ行ってカメラをのぞく先生の姿,百万遍の校舎で缶詰め状態にされながら説得された時の先生の真剣なまなざし,校舎ができて学生さんを迎え入れた時の先生の満面の笑顔…。さまざまな情景が頭を駆け巡りました」
KCGが1979年,超大型コンピュータ「UNIVAC1106TSS」を導入した際,ユニバック側の窓口だった針貝哲英さん(15号)は,当時初代学院長と現学院長に接した際の話として「当時,私立大学でTSSを導入していたのは慶応と東海だけ。しかもお二人は24時間,学生に開放するとおっしゃる。私もこの素晴らしい夢と志を同じくして,何とかプロジェクトを成功させなくては,と強く思いました」と振り返っている。アポイントを取っていたにもかかわらず,初代学院長が職員と話をしていて夜が明けるまで待たされたことや,一緒に米国のユニバック社を見学したことなどの思い出をつづっている。
ほかの号には,教職員が寄稿している。いずれも初代学院長から学んだことを振り返り,心にとどめ,実践しようという思いをつづっている。
執筆,校正作業で初代学院長から多くを学んだという末広ゆかりさん(6号)は,「自分に厳しく,人には厳しさの中にも温かみのある人情の厚い方だった。ただ,人と接するのが少し不器用で,随分誤解を受けたこともあっただろう。『志半ばにして亡くなる』という言葉はよく聞くが,学院長の場合は理想がどんどんと高くなり,志が達成することは永久になかったのではないかと思う。常に理想を高く掲げ,それに向かってばく進するエネルギーを持ち合わせた方だった」とし「『反骨の精神』はもちろんのこと,学院長がよくおっしゃった『やればできるという精神』を後進にも伝えていきたい」と結んでいる。榎本茂子さん(7–8号)は,初代学院長の言葉で心に残っているものとして「権利の上に眠るものは保護されず」「無知であってはならない」「天は自ら助くるものを助く」などを挙げ,それぞれの思い出を語っている。「先生から伝えられた言葉が様々な形で本学院の精神として受け継がれ,現在までの発展の基礎となっています」との言葉で締めくくった。
作花一志さん(9号)は,初代学院長を幕末の長州の思想家・教育者である吉田松陰の「時代の先を見通し,広い心で若者を受け容れ,その情熱で人を駆り立て,そして志半ばで倒れるという姿」に照らし合わせ「私は初代学院長の遺された長大な課題の中の「ユートピア」という言葉を今もときどき思い出す。ユートピアとはできてしまえばユートピアではなくなるものであり,所詮現実には存在しない文字通り理想郷だ。古来ユートピアを作ろうとして徒労に終わった例,夢だけで終わった例は少なくない。にも拘わらず敢えてユートピアを作ろうということは,ユートピアを追求する努力の重要さを指摘されたのではないだろうか。ちょうど松陰が来るべき新しいわが国の姿を夢見て追い求めたように…」と締めくくっている。初代学院長から「新しい学校創り」への思いを熱っぽく語られたのが心に残っているという中川由美さん(10号,20号)は,仕事は与えられるものではなく自らが考え,工夫してこなしていくものであるという教えを聞き,意欲とやりがいを感じるようになったと記している。自分自身の物の見方や価値観の形成で一番大きな影響を受けたのが初代学院長だとし,長谷川靖子 現学院長とともに,女性が仕事を続けていくことを強く支援してくれたことに感謝している。
物心ついたころから相撲を取った仲だったという植原啓之さん(故人)は11号で,戦前,戦後における初代学院長とのお付き合いを披露。KCGの教職員として働き始めてからの初代学院長について「(ご夫妻で)理想の学校づくりのため,昼夜を問わず,何時寝て,何時起きられるのか,私には計り知れないものがありました。教育内容の充実と校舎増設に奔走され,その知慮と頑健さには恐れ入ったものです」と表現している。KCGで学び,教職員として働き始めたばかりの岸本詳司さん(12号)に対し,初代学院長は約1時間にわたって学院の将来ビジョンを熱く語ったという。「私にとって,学院長先生は人生の師でした。高校卒業以来,今日に至るまでの私の人生を導いてくださった唯一の師でありました」とし「私の中で,先生は情熱と超人的な仕事ぶりで,理想の学校創りに邁進されていた頃のお姿のままで,今でも私を叱咤激励してくださっています」と結んでいる。
同じく学生から教職員となった青山公子さん(14号)は「『本物』の教育を遂行し,理想の学校づくりの先頭に立っておられたのが初代学院長」とし,「分け隔てなく誰に対しても気さくに声をかけることが,自然体でできる方でした。常に教職員や学生のことを深く理解しようとされ,家族のように大切に考えていらっしゃいました」と感謝。「初代学院長の人生観や思想を手本として生きてきたといえるでしょう。(中略)初代学院長や現学院長の思想や生き方を,後の世代にしっかりと語り伝えていかねばならないとの思いを強くします」と強調している。KCGの後輩たちに指導する小西薫さん(16号)は,教職員になるときの初代学院長の面接,コンピュータ教育機関としては世界初の試みとなった学生全員へのパソコン無料貸し出しなど思い出を紹介しながら「長谷川繁雄先生の影響は確実に私のなかにあり,私は日々の実践を通じて,先生に教えていただいたことを,きちんと後世に伝えていきたいと思います」としている。
KCGの前身である京都ソフトウェア研究会のプログラミング言語講習会に講師として参加していた寺下陽一さん(15号)は「初代学院長はいつも朗らかで笑顔が印象的な人でした」と振り返り,「京都コンピュータ学院には,既成の大学にはない情報教育のフロンティアがあると思ったことです。ここには夢があると思いました。時代を切り拓いてきた長谷川繁雄先生と靖子先生のパイオニア・スピリットが,学校の文化として生き続けているのだと思います」とつづっている。KCGで学んだ山梨県出身の中村州男さん(17号)は高校2年時に入学説明会に参加,このときに初代学院長の教育に対する熱い思いを聞いたという。翌年,特別奨学生受験の際に再会したときの「おぉ,来たか,来たか」,2年生で第一種情報処理技術者(現・応用情報技術者)試験に合格したときの「そうか,そうか。君は学歴社会に与しないだけでなく,国家試験制度も超越する実力を身につけたんだよ。それでいい。よし,頑張れ」などの言葉が強く心に残っているという。
高校時代,初代学院長と現学院長が和歌山市で開いた塾の生徒でその後長い付き合いがある向井苑生さんは2010年7月2日の閑堂忌で記念講話。その内容が19号に掲載された。「私は若いころ,繁雄先生と靖子先生と出会えたことが大きな財産です。繁雄先生は今でもみなさんに『技術ばかりに偏らない幅広い教養を持った創造的な人間になれ』と語り掛けていることでしょう」と学生に話している。2012年の閑堂忌では前田勉さんが「『私の人生を決めた大きな存在』 時代を見抜く目 教育への並々ならぬ情熱」と題して話し,21号に掲載。KCGで学んだころのこと,その後,教職員となって指導しているときに接した初代学院長の思い出を紹介し,「学生である皆さんは,KCGのこの伝統,長谷川繁雄先生の思いを引き継ぐ人たちです。皆さんもまた,KCGの学生であるという,そのことを通じて,人類の歴史を変えつつあるコンピュータの進歩の先頭に立っているのです。そう思え,なんだかわくわくしてきませんか」と語り掛けている。
長女の長谷川由さんは5号で「とこしえの夢―前学院長,父との別れ」と題して英語で寄稿。長谷川靖子現学院長は2015年の閑堂忌講話でお話になり,22・23号でその内容を紹介している。
これらの寄稿を読むとあらためて初代学院長が残された功績は偉大であったとあらためて感じる。教育に対する情熱,パイオニアスピリッツ,学生や教職員に対する思いやり。いずれの教職員筆者が書いているように,その精神を抱き,末永く,後世に伝えていかなければならない。それがいま,教育活動にあたっているわれわれの使命だ。
アキューム「初代学院長の思い出」のURL http://www.accumu.jp/running_article/memorial.html