京都情報大学院大学は,日本最初のIT専門職大学院である。その母体となった京都コンピュータ学院は,1963年の創立以来,40年余の長きに亘ってコンピュータ教育を行ってきた,日本最初の私立コンピュータ教育機関である。その間,同学院は多くの四年制大学卒業者を入学者として受け入れてきたが,そうした大卒入学者の多くは,実務に直結した高等教育機関を探した結果として同学院を選択していた。京都コンピュータ学院は1976年以来専修学校制度下にあるが,社会的には大学学部卒業者のための教育機関として,すなわち一種のグラデュエイトスクール(大学院)として機能してきた部分がある。
また,京都コンピュータ学院は1998年以降,ロチェスター工科大学大学院(IT専攻,コンピュータ・サイエンス専攻,その他)との共同プログラムを開設し,実学志向のプロフェッショナル・スクールの大学院カリキュラムを実施している。これは,日本の専修学校とアメリカの大学院とのプログラム提携として,我が国最初のものであった。
このような実績のある京都コンピュータ学院の関係者が中心になって,専門職大学院という新制度下でITの専門職大学院設置に乗り出すことは,ある意味必然であったとも言える。株式会社堀場製作所の堀場雅夫元会長他多数の財界関係者,米国ロチェスター工科大学,コロンビア大学教育大学院の教授陣など教育関係者の多くの賛同と協力を得て,また,文部科学省や内閣官房等,多くの方々に支えられながら,京都情報大学院大学は,制度試行初年度に第一号のIT専門職大学院として認可された。応用情報技術研究科を設置し,情報技術修士号(M.S. in IT : Master of Science in Information Technology)を授与する。現在のところ,単一の専攻「ウェブビジネス技術専攻」を有している。
2001年に策定されたe-Japan戦略には,「我が国が2005年までに世界最先端のIT国家となる」ことが謳われたが,その目標達成のために,ネットワークインフラの整備,行政の公共事業分野の情報化,中小企業に対するIT化支援策,eコマースの取引推進などが提起されている。ネットワークインフラは目標達成に近付き,その後,インターネットを使用したビジネスの活性化に重点が置かれるようになった。今後,ウェブビジネス(またはeビジネス)に携わる技術者の大きな需要が予測される。
我が国の高等教育機関においては,ウェブビジネスのための技術を主専攻とする学部または大学院レベルの専攻が今までのところ皆無に近く,伝統的な経営工学といった専攻学科や,情報系の関連する専攻の一部として取り上げられているに過ぎない。体系的かつ総合的な専攻,あるいは専門分野として,教育・研究されていないのが現状である。 2005年現在でも,eビジネスをマネジメントやマーケティング,またはセキュリティ,あるいは法整備の面から取り上げる大学が主流となっており,ウェブビジネス(あるいはeビジネス)技術を主専攻とする学部あるいは大学院は皆無に近い。需要はあるのに供給がほとんど無いのである。
そのような状況の中,我が国における高度専門職業人育成について,再度確認しておかなければならないことがあるように思う。本稿では,IT専門職大学院の設立に関連して,専門職業人教育の制度的側面について記しておきたい。 。
学校教育法の改正に伴い,2003年4月に専門職大学院制度が施行された。これに関連して,2002年8月5日の中央教育審議会答申に次の記述がある。
「(1)大学院における人材養成機能は,1. 研究者の養成と,2. 高度で専門的な職業能力を有する人材の養成に大別される。(2)我が国の大学院制度は戦後大きく変わり,博士のほかに修士の学位が加わるとともに,課程制大学院の考え方が導入された。修士課程は当初,研究者養成という役割を担っており,博士課程の前段階という性格であったが,その後,修士課程の役割は多様化していき,実社会の各分野で指導的役割を果たす人材の養成という役割も併せ持つようになった。(3)これを踏まえ,上記2. の役割について,昭和49年の大学院設置基準制定に当たって修士課程の目的の一つとして明確に位置付けられ,博士課程についても平成元年の大学院設置基準改正により明文化された。(4)ただ,これまで,我が国の社会においては,米国のプロフェッショナル・スクールのように高度専門職業人養成に特化した教育を行う大学院設置に対するニーズが必ずしも高くなく,結果として我が国の大学院は上記 1. の役割を中心とした発達を遂げてきた。大学院の中には,工学系や薬学系などの大学院修士課程のように,社会的需要や科学技術の進展に応じて,研究者養成より技術者等の実務家養成の比重が大きな割合を占めるようになってきたものもある。しかし,全体としては現在の大学院制度は,上記1. の研究者養成という役割に重点を置いた仕組みとなっており,実態面でも上記 2. の高度専門職業人養成の役割を果たす教育の展開は不十分であった。」また,「高度専門職業人養成を質量共に充実させることに対する社会的要請が様々な分野において急速に高まっており,各分野の特性に応じた柔軟で実践的な教育をより一層充実させる観点から,現在の専門大学院制度を,その位置付けの明確化を含め,更に改善,発展させることが求められるところとなっている」として,「今後,国際的,社会的にも活躍する高度専門職業人の養成を質量共に飛躍的に充実させ,大学が社会の期待に応じる人材育成機能を果たしていくため,現行の専門大学院制度を更に発展させ,様々な職業分野の特性に応じた柔軟で実践的な教育を可能にする新たな大学院制度を創設する」必要性を唱え,新しい設置基準に基づく「専門職大学院制度」の創設を提起している。
そして,2003年4月1日より,専門職大学院設置基準が施行された。言うまでもなく,この専門職大学院は従来の研究大学院と異なり,「 高度専門職業人」育成を目的とするもので,アメリカ型のプロフェッショナル・スクール制度の我が国における確立を意図したものである。
今回の専門職大学院の法制化は,研究者育成の大学院と職業人育成の大学院を分けたということに止まらない,戦後のエポックメイキングな制度改正の一つである。しかしこれには,我が国の高等教育制度の歴史を見た上で考えなくてはならないことがある。
現今の我が国では,大学・大学院というと学問の場・研究の場という意識が根強いが,よく知られているように,戦後に大学になった新制大学はもとより,明治期からあるすべての私立大学は,もともとは専門学校であり,職業人の養成所であった。それが,戦後の新制大学化から,人々の思い込みと現実の乖離が生じてきて,ある意味混乱している。
我が国の高等教育問題を解り難くしているのは,四年制大学,短期大学,専修学校という曖昧な区分である。アメリカでは,カレッジ&ユニバーシティとして一括される学校群が,日本では,大学と複数の大学外高等教育機関に細分化されてはいるものの,現実は必ずしも教育行政的に意図された機能を果たしておらず,大学の概念と実態は混乱している。頂点の研究大学である東京大学から,大学基準協会に大学の要件を満たしていないとして加入を拒否される大学や,研究実績や教育効果が認められず倒産危機に陥っている大学まで,現在日本には600ほどの四年制大学があるが,すべてが単一の大学制度下にある。
その一方で,大学外高等教育機関に数えられる短期大学と専修学校が存在し,これらのうち,いくつかの大学を遥かに超える研究実績や教育効果の高い専修学校や短期大学等,大学外高等教育機関が現実に存在する。我が国の大学概念は,それら大学外高等教育機関を比較対象の対位概念とする排他的単一概念でありながら,その内包は実に様々なのである。少なくとも,四年制大学の中で実に160校が定員割れに陥っているのは,制度設計の過誤というべきであろう。
1990年代に専修学校への進学者数が短期大学へのそれを大きく上回り,短期大学進学者数が激減して,多くの短期大学が四年制大学へと再編成されたのは周知である。これは,女子短期大学だと学生を確保できないという現実への対応策が主で,教育哲学の時代精神への対応と言えるものは少ない。一国の高等教育制度下の教育機関として,求められる教育を行うことが第一義的な目的であるはずのところが,事業体としての生き残りが主眼になってしまっている。
そもそも短期大学とは,第二次大戦後の高等教育新制化の時点で,どうしても四年制大学の要件を満たすことのできなかった戦前の各種学校や専門学校に対する,事業体生き残りのための暫定措置としての制度であった。その後,短期大学は「男子は四年制大学,女子は二年制の短期大学」という,女子教育を低く見る傾向が根強かった社会思潮が主な原因で,いわゆる花嫁学校として定着したが,平成の昨今になって,今度は少子化の影響で,(当該学校の教育哲学に基づくものではなく)事業体としての生き残りのために男女共学化し四年制大学に格上げするというのも,本質からかけ離れた理由を基に組織が変わるという意味では,同じ轍を踏んでいるように思える。ピーク時には全国で593校に達した短期大学は,平成17年5月1日時点で480校に減少した。短期大学は,大学や専修学校を対位概念にしながらも明確な制度的位置付けの無いまま,衰退しつつある曖昧な制度である。
また,高等教育学の見地からすると,看過できないもう一つの潮流として,我が国の四年制大学卒業者の専修学校への進学がある。不況の影響もあって,今なお四年制大学卒業者の専修学校進学者数は増加する傾向にある。
2001年度 | 2002年度 | 2003年度 | 2004年度 | |
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専修学校の 専門課程 入学者数(人) |
314,714人 | 326,682人 | 338,285人 | 335,003人 |
専修学校の 専門課程入学者のうち 大学卒業者数(人) |
16,224人 | 18,008人 | 18,767人 | 19,439人 |
表1に,過去4年の専修学校の専門課程入学者のうち大学卒業者数を示す。ちなみに,専修学校京都コンピュータ学院では,バブル崩壊の頃から,四年制大学卒業者の新入生は,全体の2割から3割を占めている。これらの現実が示しているのは,大学卒業後,従来型の大学院に進学して研究者志向の教育を受けるのではなく,専門職業人として必要な知識・技術を身に付けるための教育を受けたいというニーズである。当の四年制大学卒業専門学校進学者たちには,「四年制大学を卒業しても就職できなかったので,専門学校に行く」「(従来の)大学院に進学しても就職が望めない」といった見解が多い。すなわち,四年制大学卒業後,専門職業教育を望んでいる修学希望者層が現実にあり,それに制度が追従していないのである。ここでは,多くの大学人が信じている格の上下関係が少なからず逆転している。言うまでもなく,表1の推移がこのまま進めば,「大学院」と「大学」の存在意義のさらなる低下の原因の一つとなる可能性が高い。
以上二点を見ても,社会のニーズに従来の教育制度が追従しておらず,戦後の制度下での多くの教育機関が,制度的に意図された機能を果たせずにいるのは明らかで,これは我が国の高等教育制度の一大問題である。
次に,職業人教育について触れておく。我が国に大学院ができたのは明治期であり,それはアメリカに遅れることわずか10年程のことである。我が国の近代高等教育制度の始まりは,近代化のための職業教育を目的とする,「国家ノ須要ニ応ズル」大学と,そして,その上級専門職学位としての大学院であった1。我が国の大学・大学院制度は,実は,専門職業教育を意図して設計されたものなのである。東京大学を頂点とする帝国大学は学士課程で専門職教育が行われ,卒業後さらに学修を続ける者は研究中心のPh.D.ではなく,専門職学位の取得を目指した2。一方で,博士プログラムは未発達のまま推移し,いわゆる「論文博士と課程博士の制度的混在」が証明するように,戦後も明確な制度整備もなく今に至っている。
1949年,GHQ率いる教育使節団が来日し,その指導下で新制大学が多数誕生した。それまで八つの基本類型に分かれており,それぞれに社会の各層へ専門職業人を輩出していた全国525以上の膨大な高等教育機関が,一元化された四年制大学へと再編成されたのである3。そして新制大学の大半はもとの私立専門学校である私立大学であった。このとき,学校教育法の一部改正により,戦前の専門学校のうち,新制大学の基準に達しないものに対する暫定措置として,修業年限を2年または3年とする短期大学が置かれることとなった。そして,新制大学の設置は,1948年に大学設置委員会(翌年大学設置審議会と改称)の審査に基づいて認可された。
新制の大学院は,1950年に早稲田など私立の四大学に設置されたのをはじめ,1953年度には国公立大学にも多く設置された。大学院は研究科を構成単位とし,当初は修士課程1年と博士課程3年を並列していたが,1955年には,修士課程2年,博士課程5年と改められ,博士課程は修士課程2年を含むことができるようになった。
明治初期から第二次世界大戦の前までに大学は数の上では47倍になり,戦後のGHQによる新制大学の大量誕生を経て,我が国の大学は大衆化が進むとともに,その制度的な位置付けと実態との関係は,曖昧になるばかりであった。新制大学の基になったのは旧制専門学校であるが,戦前の専門学校は,特に太平洋戦争が始まったころから乱立されていた。1935年に183校だった専門学校は,戦後の1947年には368校と2倍以上に膨れ上がっている4。
増加した185校のうち80%が,1941年から1947年までに集中しており,その大半が医学,薬学,そして工業系の官私立専門学校で,特に女子医学専門学校の増加が戦時体制を物語っている。中には軍需会社が工場設備の一部に併設したような小規模のものもあった。したがって,この新制大学への移行措置は,私立大学が法制化された1918年の大学令期に比するとはるかに大きな規模で,かつ大量の大学が生まれることとなったのだが,敗戦直後の混乱期であったこともあり,戦前の大学令による大学基準は無論,戦前の専門学校令期の設置基準に比べても,かなり杜撰な措置であった5。特に,私立学校に対するそれは極めて杜撰で,私立学校では,大学の教員資格を満たすために,かつての専門学校教員が他人の論文を拝借したり,届出上の教授数と実数が食い違ったりすることなども多くあったという6。
したがって,私立「大学」への昇格は単なる名義上の変更に過ぎず,実態は戦前の専門学校や各種学校に変わりはなかった7。そして,法的には大学の地位を得ても,内実は専門学校どころか,それ以下の学校もあったのである。ここに,法律上の地位を得ながら中身の伴わない「名前だけの大学」が多く発生した。そしてこれらの大学の多くが,戦前,帝国大学他わずかの大学しかなかったときに生成した,学問の場としての「大学概念」に基づいて,学問の場としての旧制研究型大学を模倣し始めた。それまでの職業人教育機関が,大学認可を得たことにより,自組織を研究型大学すなわち「学問研究の場」だと思い込んでしまったのである。他方で,GHQが本当に望んでいた,すべての大学の民主主義的競争原理は導入されず,東京大学をはじめとした帝国大学を頂点とする大学階層性は,確固として残った。
その後,経済成長とともに四年制大学,短期大学への進学率は1960年代に飛躍的に上昇し,同一年齢層に占める割合は1966年に16.3%になり,1976年には39.2%となった。日本の高等教育はこの1966年以来,マーチン・トロウのいうエリート段階からマス段階,すなわち大衆化段階へ移行した。経済成長の上昇率は激しく,国民は均質の中学校,ほぼ均質の高等学校から,皆同じように大学へと殺到するようになったのである。言うまでもなく,それら増加した進学者層は,卒業後就職を望む職業人予備軍である。
無論,それを受け入れるための大学が多く新設された。しかし,それは政府の積極的な文教政策というよりむしろ,戦後の新制度の下で,いわば無政策の政策で,政府は私立大学の新設を放任し,私学セクターの自由な拡大を許容することによって,極めて経済的に(国費を消費せず)国民の進学要求を充足させたのである。 1960年代の高度経済成長期には,十分な計画を伴わず,粗末な大学が増設され,他方,東京大学を頂点とする階層性が,高校以下の教育に過当な競争をもたらした8。予備校などの受験産業の影響もあって,大学偏差値ヒエラルキーは,頂点はそのままに,すそ野が拡大する一方であった。これは,よく誤解されているように,「あらゆる大学が大衆化した」のではなく,「大衆向けの偏差値が下位の大学が増設された」ということである。欧米における大学の大衆化と意味が異なることに留意されたい。
そして,経済成長とともに,戦後のベビーブームの要求にこたえるために,大学設置基準は1961年ごろには形式的なものになっていた9。また,審査対象の大学が実際には最低基準に達していなかった場合でも,大学設置審議会はとにかく設置を許可するようにたびたび勧告した10。そして,最低基準を満たした新制大学は半永久的に大学としてのステイタスを保障された。そしてそれらの「大学」は,経済成長とともに増加する一方の進学者を受け入れていただけで,企業人が言うような「経営努力」をする必要は無かったのである。いったん大学認可を得てしまうと,志願者数は常に,許容定員を上回ったのである。さらに,戦前の旧制大学が研究大学として機能していたことを模倣した新制大学では,研究に重点を置きすぎて現実が無視され,庶民のための実用教育・職業教育がおざなりにされた。
1973年のオイルショックまで,好調な経済成長の影響で大学が増加したが,1960年代末の学園紛争,マンモス私立大学の出現,私立大学の大都市集中,水増し入学,私立大学の平均的な教育条件と質の低下など,弊害が続出した。そして1980年代の大学のレジャーランド化,1990年代の短大衰退と産業界からのさらなるクレームなどは記憶に新しい。
産業界の高等教育に対する職業人教育の要求は,戦後すぐから出されている。1950年度に暫定的制度としての短期大学制度が発足したすぐ後,実際的な専門職業教育や中堅的社会人養成の要求を反映して,1958年に〈専科大学法案〉が国会に上程された。翌年の「教育制度の改革に関する答申」と同時に示された大綱には,「 職業教育を行う五年制の専科大学の設置」が挙げられている。
これに基づき,職業教育に重点を置く五年制の教育機関の設置が答申された。これは中級技術者の不足を問題視する日経連など,経済団体からの強い要求に基づくものであった。日経連の技術教育委員会の要望意見には,「戦前については初級技術者は工業学校卒,中級技術者については工業専門学校卒,上級技術者については大学卒をもって,それぞれ充てられていた。しかるに戦後は,工業専門学校がすべて大学に昇格したため,工業高校卒は将来の初級技術者として,大学卒は将来の上級技術者として採用され,中級技術者となるべき者が空白の状態になっている」。 12 そのため「専門職業教育機関の実を備える」「高校の課程を合わせて五年とする専門大学」を設置することが要求されている。その創設を内容とする改正法案が出されたが参議院で審議未了のまま廃案となり,代わって工業教育を主体とする高等専門学校を創設する方針となった。中教審はこの問題を大学と切り離して結論を急ぎ,学校教育法は一部改正されて1961年に公布され,追って高等専門学校設置基準が制定されて,1962年度から新しく高等専門学校制度が発足した。
高等専門学校は,「深く専門の学芸を教授し,職業に必要な能力を養成する」ことを目的とし,中学校卒業者を入学資格とする5年の一貫教育を行うものである。これにより,戦後GHQの指導下で一元化された六・三・三制度は再度複線化した。高等専門学校は,全国に数十校設置されたが,国立が大半を占めて55校,公立4校,私立3校である。数の上では少数であることと,中学校卒業時にその年齢の少年が将来の職業の方向性を定めることは困難であるという現実もあり,さほど発展は見られなかった。
また,高等専門学校の名が示すように,戦前の専門学校の再来を予感するものがあり,国会答弁でも「新しい専門学校」と呼称されたりもした13。しかし,社会一般には,「高等専門学校」は略して「高専」と呼ばれるようになった。すでに,各種学校が多く存在し,それらは専門学校と呼ばれていたからである。
多様性を包含する単一のカテゴリーとして,アメリカのように「カレッジ&ユニバーシティ」という一つの制度下にあるならば,我が国の高等教育制度の混乱も助長されなかっただろうが,他方で短期大学,大学校,そして後年の専修学校という対位概念が発生してしまったからこそ,大学は他の制度下の教育機関と比較して排他的に,職業教育の場ではなく学問・研究の場であるのみという建前に収斂していった。近代制度の発足以来,アメリカと同じ年月を経ながら,日本では,専門職業教育はアカデミアの美名の下に霧散し,大学外高等教育機関である専修学校(いわゆる専門学校)や各種学校,そしてなによりも企業内教育がこれを補完せざるを得なかったのである。もし,卒業後職業人となるような大衆に対して,我が国の新制大学が,職業人教育を完遂していたら,このような状況にはならなかったかもしれない。我が国では,企業内教育が発達していると一般に言われるが,これは原因ではなく前述の結果であると見るほうが正しいだろう。そして,先述の中央教育審議会答申(4)に,「これまで,我が国の社会においては,米国のプロフェッショナル・スクールのように高度専門職業人養成に特化した教育を行う大学院設置に対するニーズが必ずしも高くなく」とあるが,これは,戦後の大学教育があまりにも産業界の役に立たなかったため,社会が大学院に期待するまでに至らなかったと見るのが正しいように思う。
以上のような背景を鑑みると,アメリカ型の専門職教育が再度提唱されていることは,我が国の高等教育における大きな歴史的転換期であると言える。新しく法制化された教育改革路線によって,21世紀の時代に応じた,新しい高等教育が求められていることに疑いはないだろう。実を言うと,専門職大学院制度施行初年度には,多くのIT専門職大学院の認可申請が出されるものと予測していたのだが,実際は,IT専門職大学院としては本学が第一号の認可であり,そして唯一であった。これには我々自身が驚いた次第であるが,理由は前述のような歴史的背景に多くを依拠するのではないだろうか。
次に,アメリカの専門職大学院の状況についてすこし触れておく。アメリカにおいては,近代のプロフェッショナリズム(専門職業化)の進展とともに大学教育が充実し,大学はアカデミックな研究と研究者の養成を行う機能を果たすと同時に,他方で専門職業に関連した知識・技術を生み出す拠点ともなった。アメリカ社会が発展し専門職業化が進むにつれ,プロフェッショナル・スクールと専門職業はより密接に結び付き,今日においては,アメリカの大多数の総合大学にはロースクールやMBAプログラムなどのプロフェッショナル・スクールが併設されて専門職業人を育成しており,プロフェッショナル学位の価値も確立されている。
専門職業人養成のための教育はその規模においても研究者養成の教育を凌いでおり,大学全体の教員数の中で,プロフェッショナル・スクールの教授陣は,実に60%以上を占め,そういった教員が関わっているコンサルタント業務の数や,産業界等から得る研究・教育資金も多大なものとなっている。研究者養成と専門職業人養成は,大学の教育活動の両輪であり,研究型大学院とプロフェッショナル・スクールの教育目標,教育内容には歴然とした区別が存在し,卒業生の進路にも明確な違いがある14。
研究型大学院の教育目標は研究者の養成であり,たとえ少数であろうと極めて優秀な研究者を輩出することにある。これに対し,プロフェッショナル教育(専門職業教育)は,適性資格のある専門能力を持った人材を質・量とも十分に供給せねばならない。高品質を保った多数の人材を供給するためには,異なる出身学部(異なる専攻)であろうとある程度多数の学生を確保して,短期間に同程度に,職業に必要な知識と技能が身につくような教育を行わねばならない。ここが我が国で現在主流である研究型大学院と大いに異なるところである。
大学を設立するためには,文部科学省の認可を得なくてはならない。そのプロセスの中で,大学設置・学校法人審議会の審査を通らなくてはならないことになっている。我々が認可申請をするにあたり,その中でもっとも難渋したのが,審議会(大学設置分科会:法政大学総長〈当時〉清成忠男氏)の審査である。筆者の専門は教育行政・大学経営で,その道ではまだまだ若輩であるが,教育行政学や高等教育学の基礎レベルの知識での議論ができない程度に,大学設置分科会に教育学の見識が無かったことには驚いた次第である。もっとも驚いたことのひとつは,同分科会から,「専門職大学院の定義について示されたい」という要望事項が出されたことである。認可申請を行っている側に,認可を審議する側が質問しているような始末である。その他,同分科会にカリキュラム分析力が欠如していること,ITについての知識が皆無であること,さらには前述のアメリカのIT教育事情を説明するために,英文の参考論文を添付したところ,英文であるからという理由で同分科会に読んでもらえなかったこと,また,同分科会が私立学校法における設置者概念を理解していないことなど,私学経営の経験が浅く,教育学の見識もITの知識も無いような,いわば適格性がない委員が審議を左右するのである。他の多くの大学でも同様の苦情が聞かれるが,文部科学省というより大学設置分科会のカリキュラム分析能力の無さは,社会的大問題である。
アメリカでは,カリキュラム設計はそれだけで博士号が出るほどの一大分野で,有力大学ならばカリキュラム分析・設計の専門のチームを抱えている。京都情報大学院大学のカリキュラムも,コロンビア大学教育大学院やロチェスター工科大学の専門家らとともに設計している。それを,ITカリキュラムの見識が無い委員が評価し,不要な科目を開講せざるを得ないように引導される。そして,多くの場合,そういった不要科目を開講させるということは,東京大学をはじめとする上位大学の定年退官教授の天下り先確保の手段として機能するのである。
また,大学の第三者評価の義務付けも目新しい制度改革であるが,それを実際に担当する委員にも教育学の専門家は極めて少ない。実際,我が国では教育行政を文部省が担当してきたため,大学経営,カリキュラム設計,教育行政の専門の学部や研究科が皆無に等しい。そして,個人的に文部科学省とつながりの強い老年教授がそういった改革の前に居座るので,改革は改革でなくなるのである。我が国の教育の民主化のために,認可申請や第三者評価には,教育の専門家が参加されることが望まれる。
長引く不況で日本経済が衰退する中,特にビジネスの新潮流に乗り遅れたことに起因する中小企業の相次ぐ倒産,弱体化が深刻な社会現象となっている。これらの現象は,IT人材の不足に起因するといっても過言ではない。ITプロフェッショナルズ教育の1年の遅れは,国際社会における日本経済競争力の10年の遅れという結果となる。IT専門教育の一般市民への普及こそ目下の急務である。
そのような社会的背景の下,新しく法制化された教育改革路線に呼応し,また,アメリカでの状況が示すように,ウェブビジネス技術教育を効果的に進めるためには,大学院修士課程が適当であり,特に,実地の技術が重要となる点からみて,専門職大学院が最も適切と考えられたため,我々は専門職大学院の認可申請を行った。
我々が設立した京都情報大学院大学は,日本の多くの大学の工学部等が意図している情報工学の専門職大学院でもなく,大学の情報数理系が意図している専門職大学院でもなく,それらとジャンルを異にするIT系専門職大学院である。言うまでもなく,ITとはソフトウェア,ハードウェア,通信技術及びビジネスを総合した実践的応用技術であり,まさにその融合領域の分野に膨大な社会的ニーズが横たわる。
本学はIT応用技術者の中でも最も必要とされている現況のウェブコンピューティング世界におけるビジネス技術者育成を教育・研究の目的とする。情報系の各種理論・技術をベースとし,eビジネスへ応用しうる実践技術を研究し,その成果を教授する。分野が技術とビジネスの二つの領域にまたがるため,双方の知識・技術の教育・研究が必要とされる。
専門職大学院として,業界と密着した実践能力育成も必要不可欠である。世界的なベンチャー企業等とも連携し,人材教育に対する業界最先端の観点を重視して,研究・教育に努める。学生に対してはインターンシップの実施も今後の課題である。どの企業においてもeビジネスは避けて通れない過程であり,本学はeビジネスに関係したビジネス技術を研究・教育し,その分野の技術者育成を通して,企業内のeビジネス化,企業間のeビジネス連携,eコマースの展開等による日本企業の活性化を図り,もって国益に貢献しようとしている。
これらの目標を実現するためには,高等教育機関のネットワーク組織化と教育内容の恒常的な更新が必要である。もとよりITは単一の教育機関ですべてに対処しうるほど矮小な分野ではない。本学としては,海外他国も含めて企業や大学等との交流を促進し,あわせて,他の教育機関に対し教育コンテンツを伴った教員派遣も企画している。
アメリカでは1970年代までに,研究者指向の学位の威信が低下し,今日では,プロフェッショナル学位としての修士号がアカデミック学位としての修士号よりむしろ高く評価されるようになった。日本における新制度としての専門職大学院にとって,こうしたアメリカにおけるプロフェッショナル・スクールの実績は,大きな刺激となる。高学歴化が進む今日にあっては,少なくとも修士号については,研究学位(修士号)に対する専門職学位(修士号)の優位こそ,我々の目指すべき目標の一つとなるであろう。
日本における旧来型の職業教育モデルと決別した,21世紀にふさわしい新しい専門職業教育のプログラムこそが,現在の低迷する日本社会を変えてゆく,現実的な力を与えるものと信じている。今般我々が意図しているのは,新しい改革路線上の「教育創造」であるという点である。過去の確実性を持ったものの再生産ではない以上,旧来の価値基準,評価尺度を適用しても新しい芽の評価にはなりえない。「創造」の時点においては,必ず混沌と不確実性は随伴するものである。しかしそれが,時代の要請に適い,教育の真実がそこにあれば,確実性を増しつつ,新時代を牽引するものとなっていくだろう。
1.Clark,Burton R., Research and Advanced Education in Modern Universities,1995, 邦訳 : 有本章監訳『大学院教育の国際比較』玉川大学出版部,2002年。
2.Clark,Burton R., The Higher Education System,1983.
3.土持ゲーリー法一『新制大学の誕生』玉川大学出版部,1996年。
4.天野郁夫『高等教育の日本的構造』玉川大学出版部,1986年。
5.天野郁夫,同上書。
6.寺崎昌男他『学校の歴史 第四巻』第一法規出版,1979年。
7.土持ゲーリー法一,前掲書。
8.永井道雄『学校教育制度の硬直化』三一書房,1983年。
9.土持ゲーリー法一,前掲書,265頁。
10.同上書,265頁。
11.『戦後日本教育史料集成 第七巻』三一書房,77-98頁。
12.同上書,77-98頁。
13.同上書,77-98頁。
14.山田礼子『プロフェッショナルスクール ―アメリカの専門職養成』玉川大学出版部,1998年,25頁。