1984(昭和59)年,京都コンピュータ学院情報処理専門学校(現・白河校)情報管理技術科(全日制2年)を卒業した葛龍貫(つづらぬき)喜昭さんは,数多い本学院卒業生の中でも,ひときわ珍しい職業に就いている。
葛龍貫さんは九州は熊本,天草の曹洞宗隣峰寺の副住職である。だから読者のみなさんはお名前を『ヨシアキ』さんではなく,『キショウ』さんと読んでほしい。
喜昭さんは,大分県の玄興院,やはり曹洞宗の禅寺の三男として生まれた。小さい頃から機械いじり等が好きで,県立森高等学校卒業後,「情報処理技術者としてコンピュータ業界で活躍しようと発心」し,本学院へ入学した。実家の玄興院は,長兄が後を継ぐことが決まっていたので,両親は,喜昭さんに,「自分の道は自分で決めればいい。」と快く京都へ送り出してくれたという。
では,なぜ現在天草で和尚となり,副住職に就いているのか。「学院卒業まで一切僧侶の道は考えておりませんでしたし,在学2年目の春には,京都コンピュータ学院で学んでいるのだったら大丈夫だろうと,知り合いの方からご紹介を受けた福岡の会社にすでに内々定をいただいておりました。ところが・・・。」その後はこうである。実家の玄興院とは本家と分家の関係にある隣峰寺の住職で喜昭さんのいとこにあたる方が,在学2年の5月,急に亡くなられた。隣峰寺では後継者がおらず,檀家の方々の協議の結果,本家の玄興院に後継者選びが一任された。そうして,喜昭さんに白羽の矢が立ったのである。
しかし,当時,弱冠19歳を迎えたばかりの喜昭さんとしてはお寺で生まれ育ったとはいえ,その仕事は何もやったことがなく,ましてや曹洞宗隣峰寺といえば,熊本では屈指の禅寺で,檀信徒1000余名を抱える大きなお寺,「やる,やらない。と決められるような次元のものではなかった。」という。卒業までの1年間悩みに悩んだ末,僧侶の道に入ることを決心,仏門に入った。
曹洞宗は,1200年,京都に生まれた道元を開祖とし,福井の永平寺を大本山とする禅宗の一派である。卒業後,喜昭さんは,1年間隣峰寺の後継者としての引き継ぎ仕事の後,大本山永平寺の修行に入る。しかし,曹洞宗では,和尚の資格を得るのに大学や短大を卒業していないと,長い年月が必要なので,喜昭さんのような学歴を持つ人を受け入れるかどうか検討したらしい。結局,専門学校も,短大と同等であるという社会的認識に従い,異例の許可となったそうである。
門前の小僧といわれるが,その小僧さんから始まり,2年間の厳しい修行の後,和尚を名乗ることを許され,葛龍貫喜昭和尚となった。
最近どんな企業でも,まったくその仕事と違った職種に就いていた者を採用し,会社をその新風によって活性化しようという動きが盛んだが,喜昭さんも結果として永平寺でそのような存在となった。修行時代から自らの学んできたコンピュータ技術を活かし,修行の傍ら,永平寺のコンピュータシステム導入の責任者として大活躍。また,コンピュータのワープロ機能を駆使しての宗門雑誌編集も担当した。
和尚の資格を得,隣峰寺へ戻った喜昭さんは,早速コンピュータを使った檀家名簿管理,檀家登録,過去帳などのシステムを既成のソフトを用い自分のお寺に合ったように変え,独自のものに作り上げた。昭和だけで5000件にものぼる檀家データの整理,そして法事の案内など,以前はすべて人間の手で調べ,紙と筆で行っていたものをコンピュータを利用して,速く,しかも間違いなくできるようにした。「まだまだ,お寺の世界では,コンピュータに対し,抵抗感がありましたので,隣峰寺で導入する際にも,法人では購入してくれませんで,個人で購入し利用していました。しかし今では利用価値が認められ,法人で導入してもらっています。」
地元ではコンピュータが使える和尚として人望も厚く,「うちの寺でもコンピュータを導入したいのだが,」と同じ宗派のお寺から相談を受けることもあるという。また,コンピュータのソフト会社等からは,「お寺用のソフトを開発したいが,相談に乗って欲しい。」といった話もよくあるという。
そして現在,喜昭さんは,その人望と持てる技術がかわれて,『天声会(てんしょうかい)』という天草の禅寺の青年部会事務局長を務めている。異例の若さでの抜てきに,初めは戸惑いもあったというが,持ち前のチャレンジ精神で,意欲的な活動をしている。お話をうかがった時はちょうど布教活動の一環として天声会主催講演会(6月8日開催)の準備のため,忙しい毎日を送っているとのことであった。講演者はテレビのワンポイント英会話で有名なアントン・ウイッキーさん。「事務局長として初めてのイベントですので,必ず成功させたいです。」と,意欲満々に語ってくれた。
今後のご活躍とご健闘をお祈りしたい。