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Accumu Vol.10

海外で新米コンサルタント就職奮戦記 しなやかに あっけらかんと したたかに

飯島 美佐子

自慢にならない寄り道キャリア

縁あって外国に暮らすことになった。ドイツ人に紛れて働いてみよう。さりとて必殺技もない。でもあらラッキー,就職できた。

これからする話はまぁこんなノリである。誌面で大したウンチクもガンチクもない自分自身の話など恥ずかしくおこがましい限りだ。しかし,卒業後の青写真を描ききれていない学生や,就職はしたがいつか外へ飛び出してみたい,または私同様に寄り道ばかり多くてキャリアが浅いといった,悩み多き読者も中にはおられることと思う。そんな皆さんにはかえって身近な切り口かもしれない。

名付けて「お調子寄り道キャリア」。その時々のノリと状況でいろいろやってはみるものの一貫性に欠け,「これだけは人に負けない」という技術も未だ身につかず。けれど単なるチャランポランには終わりたくない。貧しい持ち駒を状況いかんでせいぜい上手く組み直しては現実的かつ自己流の戦略を繰り出して,大勝せずとも負けにくい一局一局を楽しむ。なーんだ,こんなのもアリかと,悩める読者の慰めに少しでもなれば幸いだ。

1998年からドイツ中西部のケルンという街に住んでいる。今夏アキューム編集部と恩師から寄稿指令を受け正直困ってしまった。何しろ現在はコンピュータの世界から足を洗った専業主婦である。編集部の思惑を見事に裏切る「専門知識技能を生かして活躍していない卒業生」だ。ドイツの一般IT事情についても勉強不足が悔やまれる。

そんなわけで無理やりネタに選んでみたのが,前職で企業向け基幹業務ソフトの導入プロジェクトに携わるに至るまでの奮戦記。とはいえ身分は企業コンサルタントアシスタント,平たく言えばプロジェクト外部メンバーの一番下っ端である。情報処理技術者とも違う。だからコンサルティングの何たるかとかプロジェクトやシステムについてかたむけるべきウンチクがある筈もない。

今回は就職にまつわる個人的体験と思うところに絞ろう。実際,人と知り合ったり古い友人に会ったりするとよくこんな風に尋ねられるのだ。

「ドイツで何してんの? それどんな仕事? その前は何してたの? どうやって就職先を見つけたの? コトバは大丈夫? でどうだった? カッコイ~,でもしんどそう…」。

「ドイツで何してんの? それどんな仕事?」

企業コンサルタントとはこんな仕事である,と一口ではとても説明できない。同僚や上司を見ても,専門分野によって業務内容や勤務形態は様々だった。私が所属したのは企業向け基幹業務パッケージソフトの専門部隊。R/3(日本では「アールスリー」と読む)という,この分野では圧倒的シェアを誇るドイツ生まれの巨大ソフトだ。ここでは実際に携わったプロジェクトの範囲と断った上で仕事の様子をごく簡単に紹介する。

顧客である企業が業務を新たにシステム化する,または既存の業務管理システムから他のシステムに変えようとする。この時自社の業務に合わせてシステムを組んでいくだけでなく,今までの仕事のやり方をもう一度見直して逆に業務をシステムに合わせて変えることもある。目指すコンセプトと現状のギャップゆえの業務改革。これに各組織の実務を擦りあわせて行くには時間と労力がかかる。導入にかかる数ヶ月から数年のプロジェクト期間は我々外部コンサルタントも客先に駐在し一体になっての共同作業だ。顧客側メンバーはもちろん自社の業務ノウハウ(例えば,「うちでは在庫管理をこうやっている」「システム導入後はこうして自社の強みを活かしたい」等)を提供する。それに対しコンサルタントが提供するものの例として,

・特定顧客に限定されない業務ノウハウ(「一般に在庫管理ってのはこうやるもんだ」,「こんな風にもっと効率のよい方法もある」等)

・システム化のノウハウ(「どの仕事をコンピュータにやらせればいい?」「すると仕事のやり方どう変わる?」等)

・ハードとソフト自体のノウハウ(「それにはどんなシステムが必要?」等)

・プロジェクト推進のノウハウ(「導入するったってどっから始めりゃいいの?」等)がある。

互いのノウハウを盛り込んで設計が進むにつれ,順次膨大なパラメタ設定(パッケージでないソフトにおける開発相当分もかなり含む),テスト,移行,保守へと導入を進めていくのが仕事の大筋である。

私の勤務当初の課題はというと,プロジェクト中期においてテストのパラメタ調整結果を顧客と確認し文書にするといった,頭や口よりも手を使う新米向けの仕事だった。しかし本来ノウハウを提供しプロジェクトをリードしてなんぼの立場なのだから,1日も早く慣れてこちらから顧客に働きかけられるようにならなければ。プレッシャーは大きい。

初年度の勤務地をみると,新入社員研修もなく入社4日目には駐在先のミュンヘンへ飛び,約3ヶ月プロジェクト駐在,通算約2ヶ月は社外施設やアメリカでの研修,約5ヶ月ケルン周辺プロジェクト駐在,その後再びミュンヘンへ。自社の事務所で過ごしたのは通算約10日。毎週飛行機通勤。週日ホテル住まいが年の半分以上。ただし日本のサラリーマンに比べれば有給休暇はたっぷり取れる。

「その前は何してたの?」

こんな仕事に就く前にどのような勉強や職業経験を経たかといえば,冒頭に書いた通り。だが,どの寄り道ひとつとってもここにつながるので外せないと今にして思う。

出発点は外国語だった。外国ともガイジンとも無縁の普通の高校生が何故かドイツ語を学ぼうと一大決心。学資の足しに中学・高校英語を教えるアルバイトを並行する。得意が文法だけでは淋しいと英会話入門コースに通い始める。やはりドイツにも行ってみたい。各種アルバイト掛け持ちの末,貧乏語学生としてケルンに1年を過ごしたのが1988年。

帰国後トラック運輸業界大手の国際貨物部門になんとか就職。大企業ながら良くも悪くも泥臭く,支店現場の営業マンが外回りから帰って曰く,「夜間英会話教室なんざ色気も料理も身につかなくて嫁に行けなくなるぞ。それより麦茶持ってきて肩揉んでくれ。」

まもなく日米合弁の子会社が設立されると,すぐに嫁に行けそうにないばっかりに合弁本社部署へ異動。たった数人で日本側へ乗り込んできたアメリカ人と一緒に仕事をする。彼らが持ってきた当時英語版しかないWindowsやプレゼンテーション技法に出会う。顧客のわがままに悩む営業所とは打って変わって,社内派閥・現場と中央・日米の思惑渦巻く,名付けて「3Dドロドロ」に時として巻き込まれる。初体験テンコ盛りである。仕事上は補佐的立場のOL道も侮るなかれ奥深い。やがて保守派男性陣から前言撤回「嫁に行かれちゃ困るパソコンねーちゃん」に昇格。これに飽き足らず調子にのって学院の情報処理科に入学してしまうのが1994年。

熱血講師や制服姿のOLなど民放ドラマの如き笑いと怒りと涙の日々をすでに潜ってきた私はスレて扱いにくい学生だったろう。が,そこは学院の懐の深さ,先生方やクラスメートに恵まれかけがえのない2年を過ごす。

卒業後,連れの都合で東京へ戻る。前項で触れたR/3メーカーの日本法人が当時急成長中という時の運にも恵まれた。インストラクタとして潜入成功。営業・販売・出荷輸送・請求などの業務分野をカバーする「販売管理」モジュールの講義を担当する。

振り返れば寄り道も悪くない。つまり,今日のソフト業界で英語が解かると有利なのは言うまでもなく,未完成かつ成長中の製品が相手では,ドイツ本社の文書やソースコメント,時には開発者に翻訳を待たず当たることができるのはメリット。授業の技能や教材開発には予備校講師の経験とアメリカ人上司に学んだプレゼン技法が効く。運送屋の営業現場で補佐をしながら出荷輸送や販売~請求の流れはかじってある。プログラミングや各種概論を含めた情報技術の基礎は学院で学んだ。

R/3にはドイツ人の哲学が感じられるという評をよく聞く。ソフト自体はもちろん日本語対応である。しかしその根底に流れる何か,日本企業にとまどいを与える点を,受講者の顧客から引き出し,解説を試み,願わくば導入時の問題解決のヒントを与えたい。哲学には遠いがドイツ人のものの考え方に多少なりとも触れ,典型的な日本のビジネス風土にも身を置いたことが予想外に役立った。

ところが1年経つと,連れが今度はドイツで働くと言う。惜しみつつ東京とこの職を離れ,ようやくケルンでの生活も落ち着いた頃,R/3関連の求人広告に当たる。こちらでは私の方がガイジンである。簡単にはいかない。

「どうやって就職先を見つけたの? コトバは大丈夫?」

ここで少し一般論になる。日本から海外へ出て働く時有効な「売り」には主に3つのパターンがあるように思う。

①日本または日本語を売りにする場合。例えば日本企業の現地法人勤務,通訳ガイド。また少数だが寿司職人等「これぞニッポンの技」で勝負する人も含む。語学や相互の社会への精通度合いに応じて,両国の橋渡しやプレゼンター的役割を担う。

②日本に限らずインターナショナルな経験・知識を売りにする場合。日独の枠を超えた仕事内容をもつ在独邦人だっている。例えば完璧な英語を操り多国籍の文化やビジネス事情に精通するとか国際機関に所属するなど。

③現地の人と変わらぬ仕事をする場合。少し極端な例ではスポーツ選手・研究者等その道を極めてどこで誰と仕事をしようと業績を残す人はいくらでもいる。だがかえってごく普通の職で,例えば現地企業の一般社員として現地の教育や経験のある求職者・同僚と互角に渡り合うには,その職種適正によほど優れているか,プラスαの売りが必要ではないだろうか。こうした尊敬すべき人にも何人も出会ったが陰の苦労も少なくないと思う。

(いわゆる外国人労働者低賃金就労については,話の方向が変わるのでここで触れない。)

さて私の場合,第1パターンで語学を売りにすることもできたとは思う。一方,せっかく知り合ったドイツ製ソフトである。本場の導入ドラマを見逃すのはいかにももったいない。そこで第3パターンを選ぶことにした。

しかしこれは最初から不利な就職戦線だ。ドイツ人と同様に働く以上はコトバが喋れて当たり前。仕事で通用するかどうかは別問題。東京のインストラクタ職では強みだった日独体験よりドイツのビジネス経験がない弱みが大きい。製品が上陸してまだ数年の日本では専門家を自称するに何とか足りたソフトの知識も,本場の熟成したR/3関連求人マーケットでは必要最低条件に近い。

この他,企業コンサルタントを目指すなら少なくとも経営学方面の知識かある程度まとまった実務経験は必要だろう。プログラマやSEならばITコンサルタントへ進む道もある。私のようにそのどれも心許ないようではそもそも日独云々以前の問題なのだ。

それでも敢えて志望するか。正攻法では厳しい。そこで名付けて「持たざる者の開き直り奇襲戦法」の構想を練る。

ここで前項「どんな仕事?」の描写を思い出していただきたい。プロジェクトでは様々な企業の中に入り込み,仲間も環境も自分の課題も次々変化拡張していく。呼ばれて赴くところ必ず解決すべき問題と改革のすったもんだ有り。いろいろな面でフレキシブルかつしたたかであることが要求される。

…待てよ,「お調子寄り道キャリア」だってフレキシブルの賜物じゃないか。物は言いよう。よしこれだ,「売り」は決まった。

面接では,無謀な志望動機を“アイアムフレキシブル”で正当化し,それを補うべく身振り手振り図解付きメッセージを連発。ソフト該当モジュールそのものはもちろん,関連実務も多少経験があること(もちろん麦茶と按摩には言及しない)。日本での3Dドロドロ体験はこの地のコンサルティングにもきっと役立つこと(実はそんなに甘くない)。コンピュータ知識のインフラは習得済であること(としておこう)。予備校のティーンエイジャーからトラック業界ベテランまでを向こうに回してコミュニケーションの忍耐力は鍛えてきたこと(これは本当だ)等々。あっけに取られながらも騙されたふりをして拾ってくれた,後の上司にはただ感謝する他ない。

「でどうだった? カッコイ~,でもしんどそう。」

就職はスタートでしかない。この寄り道も無駄ではなかったと胸をはって言えるかどうかは,その後自分が実際に何を吸収し提供できたかにかかっている。残念ながら今「その後」をお話しするには紙面が足りない。またしても連れの海外転勤の暗示,その他諸事情あって実は先刻投了となった。カッコ悪くてしんどいがじんわり効かせる歩の戦いぶりを次の一局に活かしたい,とだけ記しておく。

しなやかに あっけらかんと したたかに

語学とアルバイト時代から学院卒業後二度の就職まで,そして現在も多分これからも,好むと好まざるとを問わず環境は変わる。その度に,それじゃぁ今度は何をしようかと,その時点での興味や相性や期待するものを思い描く。今まで学び経験したことを見くびりも買い被りもせず,組み直してみて面白い展開になれば善しとしよう。寄り道ばかりでのろくとも前には進んでいるようだ。

調子のいいことを散々並べておきながらこの期に及んで潔くないが,さらに正直な心情を吐露すればこうだ。最初から目標を持って着々と勉強と実績を重ねていく,あるいはどんなに状況が変わろうと正面を見据え走り続ける,そんな人のことはやはり心から素晴らしいと思う。何事もやる気次第で為せば成るのスーパーポジティブ思考の挑戦者や,世の中どうにでもなるさの楽観主義者もうらやましいが真似できない。だからせいぜい しなやかに あっけらかんと したたかに いくしかないのさ,アタシには。

拙文に僅かでも共感してくださる方がいるとしたら,その誰しもが,本業・アルバイト・趣味・興味・その他何気ない体験など,その道々獲得した駒をお持ちのことだろう。次の一手に悩んだら,名付けて「ペケペケ(各自で挿入のこと)戦法」でも繰り出して笑って乗り切るきっかけにしていただければと思う。

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飯島 美佐子
Misako Iijima
  • 1996年 京都コンピュータ学院鴨川校情報処理科卒
  • その前後日本において,運輸業国際貨物部門並びにドイツ ソフトメーカー日本法人トレーニングセンター,ドイツにおいて監査法人企業コンサルティング部門勤務
  • 現在ドイツ在住

上記の肩書・経歴等はアキューム10号発刊当時のものです。