校友会員の皆さん,お元気ですか。
この度の「古都逍遥」(第5回)は,白河校周辺ということにしました。お付き合いください。さて,「白河校」といってもピンとこない人が多いのではありませんか。1992(平成4)年,京都駅前校が現在のように立派に改築されるまでは,学院の一校舎として13年間,ここでも授業が行われていたのです。左京区浄土寺馬場町。市内最東部を南北に走る白川通の「銀閣寺道」から下がった東側の白亜の建物。昨2004年,京都情報大学院大学が発足した時からkcg.eduグループの本部事務局の所在地となっています。
では先ず,校名の「白河」から見てゆくことにしましょう。
校舎の裏門を出て東に向かったすぐの所を南に流れる川があります。これが白川(河とも)です。遥か東北の滋賀県境の山間部に源を発し,西流して京都盆地に流れ込み,大昔は今の白川通を越えて西方の百万遍付近から鴨川に注いでいたといいます。現在は東山沿いに南に下り,岡崎辺から琵琶湖疏水に入った後,更に分かれて南西の三条通を渡り,四条大橋の北で鴨川に注いでいます。
清く静かに町の中を流れていますが,このあたりに古く平安末期に貴族の邸館や社寺がつぎつぎに立ち,都心からも移り住む人が多くなり,京・白河と呼ばれるようになってからの変遷をずっと眺め続けてきたに違いありません。
その上流は風化の進んだ花崗岩山地で,そのため大量の石英砂が川床を埋めたので,白川の名が付けられました。採取された白砂は造園に利用され,京都御苑をはじめ,近くの銀閣寺にも運び込まれて,庭園の美を形作ってきました。
一方,校舎の正門前を南北に走る白川通は明治末期から昭和初期にかけて現在のように整備されました。京都市電が1954(昭和29)年3月から78(同53)年9月まで,ここを往復していたのです。
市電といえば,校舎の裏庭に2台の車両が保存されているのを在学した皆さんは覚えていることでしょう。
明治初年,京都は武家政権から天皇親政に革まったのも束の間,東京に都が遷り町全体が落ち込みました。これではならじと,立ち上がった京都の人たちは,色々の保存・復興策を講じました。その一つに琵琶湖疏水の開通(1890年完工),蹴上水力発電所の開発(91年完工)があったことは周知のところです。この水力発電を活用して市中に電車を走らせようということで,1894(明治27)年1月,民間の手で京都電気鉄道株式会社が設立され,翌年2月1日,七条ステーション(現京都駅)前から伏見油掛までの6.7キロを,チンチンとベルを鳴らして全国最初の電車が走ったのです。
これがチンチン電車の始まりで,「京電」またはNarrow-gage(狭軌道)のNをとって「N電」と呼ばれました。車体は木製。運転台の前面にはガラス窓がなくて,吹き込む大雨のときには運転手は雨合羽を着ました。狭軌道,単線。したがって往復する電車の離合は,ところどころに定められた場所と時間で行われ,運転手が持っている時計で調整を図りました。しかし時計が狂ったり,運行の具合などで定刻通りに相手の車両が現れず,待ちくたびれて離合場所を発車してしまった車が途中で鉢合わせをし,運転手同士の「戻れ」「戻らぬ」の争いから乗客の争いに発展することがよくありました。お客の乗降も自由で,どこでも「降ろしとくれやす」といえば停車しますし,乗客も合図をすれば随所で乗れたというのです。
運転手持参の時計による離合調整はやがて中止となり,代わって信号装置が設けられ,また昼間は赤い旗,夜間になると提灯をもって前走(さきばしり)(「告知人」が公式名称)の少年が雇われました。会社の名前入り半纏を着て,街角や通行人の多い所に来ると運転台から飛び降りて「電車が来まっせ,危(あぶ)のおまっせ」と電車の前を叫びながら通行人を分けて走って行きます。その場所を通り過ぎるとまた走っている電車に飛び乗る。失敗して怪我をした少年も少なくなかったといいます。
開通後の京電は,続いてあの細い木屋町通・西洞院通や東堀川通を走るなど,拡張に拡張を続けました。
ところが,京都市では日露戦争(1904~05)後の経済発展から新しい都市計画を進めることになり,その一つに道路を拡張して広軌・複線の電車を走らせることを決めました。1912(大正元)年6月11日,市営のチンチン電車(市電)が走り始めたのです。当然,京電・市電間に激しい競争が起こりました。早速,京電では路線の複線化,車両の大型化などを講じて市電に対抗しましたが,所によっては両者の路線が重なるのを如何ともできません。レールを共用するというので,往復6線を敷設してそのうち2線を共用するという世にも珍しい軌道が出現したのです。
やがて,そのような競争は,京電・市電にとっても京都市民にとっても利益にならないということで,1918(大正7)年6月30日限りで京都市が京電を買収し,北野線(京都駅前から西洞院通・東堀川通を経て北野神社まで)を残して他をすべて広軌に統一しました。この北野線も1961(昭和36)年7月31日をもって廃止され,日本最古として市民のみならず全国のファンから親しまれたチンチン電車はその影を消したのです。
京電を合併した後の市電は,大正中期から昭和初期にかけて黄金期。戦後も白川線,今出川線などを開設しましたが,都市交通上の車社会の発達には圧倒され,1978(昭和53)年9月30日をもって全線廃止となり,路面電車の幕は閉ざされました。
校舎裏庭の2車両は,2600型と1800型。市電最期の日までその御用を務めた貴重な存在。市電廃線後,京都コンピュータ学院創立者 故長谷川繁雄先生は,学院内にこの2両の市電を移設しました。先生は最先端のコンピュータ技術を学ぶ学生たちに,役割を終えた市電を通じて「文化」の意味を考えさせたかったのです。 2両の市電には,ある時代を生きた人々の英知や思いが凝縮されています。学生がこの市電を通じて先人の営みに思いを馳せ,文化をつくるという技術者の使命を感じ取ることを,先生は期待していました。(こうした文化遺産の保存には,現実問題として費用がかかります。今後,皆さんのご協力をお願いします。 http://www.kcg.ac.jp/museum/shiden)
校舎の裏門を出て,白川にかかった「浄楽橋」を渡り,だらだら坂を東山に向かって上ること約10分。哲学の道に沿って北に流れる疏水分流の「洗心橋」にかかります。橋上から見ると上手も下手も桜樹が枝を張って流れを覆っています。水は清らかで,大きな鯉も泳いでいます。春は花,夏には蛍も飛び交う幽邃の境。西沿いの道を「哲学の道」というのも,かつて西田哲学の祖・西田幾多郎(きたろう)先生(1870~1945)が瞑想に耽りながら散策をされたことによるそうです。
更に橋から上ること数分,突き当たったところが法然院です。
法然院は浄土宗捨世派の本山。東山三十六峰の一つ,善気山の麓にあることから山号を善気山といいます。本尊は阿弥陀如来。鎌倉時代の初め1206(建永元)年に圓光大師法然上人(1133~1212)が弟子の住蓮・安楽2人とともに六時礼讃(らいさん)(阿弥陀仏を昼夜にわたって六度礼拝すること)をつとめたと伝える旧跡。徳川時代の初め,1680(延宝8)年に知恩院三十八世万無心阿と弟子忍澂(にんちょう)が念仏道場として再興したという名刹です。
楓樹に覆われた階段の多い参道を上ったところの山門はいかにも侘びを感じさせる構えであり,門をくぐった前庭には白砂が形よく盛られて清浄の域に入ったことを痛感させられます。静まりかえった方丈,緑苔にしっとりと包まれた内庭。その一隅にある泉水は,洛中名水の一つで,先に記した再興の祖忍澂が錫杖(しゃくじょう)を突き立てたところに清水が湧き出たというので善気水と呼ばれています。
境内墓地に足を踏み入れると,作家谷崎潤一郎,経済学者河上肇,哲学者九鬼周造,考古学者浜田耕作,東洋学者内藤湖南ら錚々たる諸先生が眠っておられ,それぞれの墓碑がまた思い思いの形で並び,なにか彼の地で集まって談笑していられるお声が聞こえてきそうな雰囲気です。
法然院をあとにして前の道を少し下がったところ,左側に「浄土禮讃根元地」と刻んだ大きな石碑に出会います。左奥を見上げると石階を上りつめたところに,法然院とよく似た山門が立っています。立札によると,これが阿弥陀如来を本尊にまつった浄土宗住蓮山安楽寺です。
住蓮・安楽といえば,先の法然院の始祖法然上人に従って六時礼讃・浄土礼讃を修業した両僧のことです。
当時,法然上人らは,旧来の貴族や権力者を中心としたいわゆる貴族仏教に抗して,すべての人は平等で南無阿弥陀仏を称えれば救われると説いたので新興階級の武士や農民・女性たちの間に広く受け入れられ,専修念仏・念仏仏教といって大きな勢力を持ち始めました。
それだけに旧仏教側は,国家の秩序を破り道徳を乱すものだと非難し,その活動の全面停止(ちょうじ)を朝廷・後鳥羽上皇(1180~1239)らに訴え出るに至りました。しかし,その中でも住蓮・安楽はこの地に草庵を営んで,別時念仏会(特定の時を定めた念仏の会)を開いたりしたので,出家して仏門に帰依することを望む者が出てきました。「住蓮山安楽寺縁起」によると,その中に後鳥羽上皇の寵愛をうけていた女官松虫姫・鈴虫姫がいました。たまたま1206(建永元)年7月,上皇の紀州熊野詣での留守中,両姫は法然上人の説法を聞き,真の人間解放は阿弥陀仏の絶対他力に求めるほかないと信じ,住蓮・安楽に出家授戒を願い出ました。両僧は一旦思い留まるよう説きましたが,両姫が決死の願いだというので遂に両僧は両姫の剃髪を行いました。このことを知った上皇は激怒して,専修念仏団に弾圧を加え,翌1207年には住蓮・安楽を打ち首の刑に処しました。
その上,法然上人を75歳の高齢にも拘らず讃岐(今の香川県高松市)に,またこのことにかかわったとして弟子の親鸞上人(1173~1262)をも越後(今の新潟県直江津市)に流刑に処したのです。これを「建永の法難」といっています。
住蓮・安楽両僧の営んだ草庵は,のち荒廃しましたが,流刑地から許されて帰京した法然上人の手で再興,「住蓮山安楽寺」と呼ばれ,両僧の追善の寺となりました。その後も幾度か荒廃を繰り返しましたが,徳川初期に現在の堂宇に再建されたということです。
現在,境内に住蓮・安楽両僧を供養する五輪石塔2基,松虫・鈴虫両姫を供養する五輪小塔2基が,小暗い樹陰に昔の悲話を物語っています。毎年6月8日には両僧の供養会が開かれているというのも奥ゆかしいではありませんか。
いま来た道を更に下ると,また左側に「霊鑑寺門跡」と刻んだ大きな石碑が見えます。碑には「後水尾天皇創建・谷の御所」とも刻まれていますが,ここは「鹿ケ谷(ししがたに)比丘尼御所」とも呼ばれます。高い石階を上りつめたところの御門は小さいながら格式ばった構えです。
1654(承応3)年に後水尾上皇(1596~1680)の皇女多利宮が天台宗の寺として現在地の南・谷川端に建てた「谷の御所」が始まり。間もなく臨済宗に改宗。1687(貞享4)年には後西(ごさい)天皇(上皇の皇子,1637~85)の旧殿を賜って現在地に移築しました。住持は明治まで皇女が受け継ぎ,本尊如意輪観音をまつる尼門跡寺院です。歴代天皇の宸翰をはじめ,親王・皇女らの遺品や下賜の御所人形を多く所蔵しているのももっともな話です。
上下二段から成る庭園には,池あり滝石組みあり灯篭あり。後水尾上皇の遺愛と伝える散椿(ちりつばき)をはじめ有名な椿が植えられ,季節の拝観者の目を楽しませてくれるのです。
それにしても,この短い逍遥の地が,洛中からは遠く東に隔たりながら,早くから政治・文化とのかかわりをもってきたことを見ますとき,現在この地域が「歴史的風土特別保存地区」との指定をうけているのも宣なるかなといえましょう。
この度のお付き合いはこの辺で終ることにしますが,またお会いできれば幸いです。
ご機嫌よう。