僅か4,50年の短期急成長を経て,高度情報化社会の到来と言われる今日,コンピュータは情報工学,電子工学といった特定分野においてのみ論ぜられるものでは,既に無い。自然科学分野のあらゆる科学は,情報科学という旗印の下に複合的にリンクされ統合化される過程にある。そして例えば人工知能の研究等に,人文・社会科学系の協力が不可欠となっているのが周知であるように,その構造的連関は学問的他分野へと拡張する一方であり,のみならず最今では一般社会生活レベルにまで,その枝葉末端は浸透しつつある。
一方,ダーウィンの進化論が一世を風靡し,神や仏の存在が自然科学的に否定された19世紀より,諸科学の発展に伴う諸概念の細分明確化によって,人文・社会科学の分野においては,旧来の真理は解体され,否定されるようになってきた。その後新しい認識に至ったものや,アウフヘーベンされ新しい真理を得たものも多くあるが,なかには時代と共に乱脈を極めていっているものも少なくない。最近では,ミシェル・フーコーが著書「言葉と物」のなかで,「人間という発明はごく最近のもので,おそらく終わりつつある発明である」と述べているように,人間と言う単一概念さえ疑われ始めている。
さて,すこし前に流行った所謂ニューアカブームや,あるいは昨今の情報理論とそれに関連する現代の論評の中で,データの収集力の少しでも多い人ならば,次の二つの単文を何処かで採集したことがあるだろう。
―――情報は文化である―――
―――文化は情報である―――
相互に逆を成すが如きに見える以上の二文の背後には,実に複雑な命題が潜んでいるのである。前者と後者では,それぞれの名詞の概念範疇が異なっており,「情報」も「文化」も,ともに補語に来たときにその範疇が拡大する。
「情報」と言う言葉も「文化」と言う言葉も,朝起きて新聞等を開けば必ずどこかのページにもっともらしく鎮座しているのだが,一体「情報」とは何なのか「文化」とは何なのか,個人々々の心の中に,それぞれの観念はあるにしても,何らかの共同体の社会的コンテクストの中で共有し得る明確な解答は,皆無というのが現状である。
情報という言葉を日本で一番はじめに用いたのは福沢諭吉であるとされているが,一般に情報と言う言葉が用いられるようになったのは万国博覧会の1970年頃からであろうか。「情報(INFORMATION )」が科学的術語として使われだしたのは今から50年程前のアメリカでのことであり,ベル電話研究所のクロード・シャノンによって次のような定義がなされている。
―――その情報を受けるとき,我々の予想しうる可能性が限定されることによって取り除かれる不確かさの度合,それが情報である。―――
しかし,その概念は,現代においてはコンピュータに関わる人々の中でさえ,まさに十人十色で,その他いろんな所で訳も分からず使われており,もともと科学概念で定義がありながら,時代を追うごとに乱発され,マス・メディアの無責任な乱用も手伝って,後述する「文化」の概念と同様に,拡散するばかりである。
ともあれ,高度情報化されるのは社会であるらしい。高度情報化されることによって,一般に,より便利な社会になるとか,社会が変わるとか,様々な言説が飛び交っているのであるが,社会学におけるれっきとした概念である「社会」はそう急激には変化しない。よく用いられる比喩をもってすれば,「社会」とは国会議事堂のようなもので,時代を経るごとに各部分は修復され,新しい素材にとってかわり,気がつけば構成する総てが変わっていたりする,しかし,全体として認識されうるイメージは,戦争か革命でも起こらないかぎりさほど変化はしない,社会とはそのようなものである,となろうか。「社会」とは,地域的に限定される何らかの政治単位を意味しているのであって,通常その変化は非常に緩やかである。 歴史学者であり,日本的左翼の天才アジテーターでもあった羽仁五郎によれば,実現しなかった可能性として,日本に真の革命が成立し得たのは明治維新の時のみと言う。今後日本の政治形態が根底から変革し得る可能性は,激動の昭和の,このあいだの例の日をもっての帰結から鑑みても,限りなくゼロに近いと判断せざるを得ないだろう。
社会が高度に情報化されるに従って,急激に変化していくものは,実は「文化」なのである。そして,この「文化」というものこそ,この100年の間の人文・社会科学系の最も大きなテーマの一つなのであると言えよう。
「文化(CULTURE)」と言う単語は哲学的思惟における定義として(100年前の学者達は自然科学的概念だと確信していたのだが。)1世紀程前から百花斉放を繰り返すばかりで,現在においても全く統一がとれてはいない。一部の関係学者のなかでは,自然科学的概念として収束していっているように,ただなんとなく考えられているのであるが,とにかく明確な一致は未だに無いのである。
ここで,前述の相互に逆をなすが如きに見える二単文と,情報化される文化とを前提に,次の仮説を提起するのは可能だろう。
おそらく,今後半世紀のうちに,コンピュータ関係という共通項を持つ人々に とって最重要となるキーワードは,自然科学系の土壌から生じた「情報」と,人文・社会科学系の土壌から生じた「文化」なのではあるまいか,と。
三百数十年前,デカルトは他者を認識する為,そして他ならぬ自己を認識する為,コギトを得た。最近では文化の翻訳と称して如何に他の文化を理解するかが問題になっている。マス・レベルのコギトに至ったのか,至りつつあるのか,文化を理解する為の方法論は,現在進行中である。
かつて,デカルトは学問の王を哲学とし,女王を数学と位置づけた。その後三百数十年を経て諸学問分野は細分化しそれぞれに発達したのだが,次の世紀においては,数学は情報の科学に,哲学は文化の科学に,とってかわるかもしれない。 (適切な言葉が見当たらないので,ここでは文化の科学としたが,新カント学派のリッケルト{Rickert, H 1863-1936}による科学の二大別,自然科学と文化科学{1899}における文化科学とは別の概念を指していることを許認されたい)
本稿では,まず第1章にて「文化」を,第2章にては「情報」を考察し,その後「連続」と「不連続」について論じてみたい。そして最後に本稿の題名にあるメビウス環に至る予定である。
いずれにせよ「文化」もある学問分野においては,学術用語とされているのである。まず始めに,術語としての文化について争鳴する百家をデジタルに訪問してみよう。
略式地図的なアンソロジーになるのみかも知れないが,イナバの白ウサギにならぬように気をつけながら,少なくともコンピュータに関わる我々にとっての共通の概念を得る為に,そして願わくば次の時代を認識するに至る総合的思惟の扉を叩く為に―。
術語としての「文化」という単語は,一般に用いられる意味での,価値観念を全く含んでいないとされている。日本語でいうところの「文化人」,「文化的生活」など,知性・教養の意味での価値観を含んだものではなく,広く生活様式全般を指しているのである。「文化」という単語の,中国本来での意味は,「武力ではなく,学問の力で感化すること」であるが,日本では明治維新前後から,「文明開化」という言葉が流行し,それを縮めて「文化」ということになったと言う。(1)ゆえに日本語においての「文化」とは,そもそも知性・教養・人生のよりよきもの・といったある種の価値が付随する概念規定であったのだが,より広い概念範疇を持つ英語の,culture,独語のKulturをともに文化と訳した為に,別の面での混乱がそのまま輸入されたとも言える。
また,cultureという単語は,知性・教養という意味よりも,生活様式という意味の方が強調されるのに対して,Kulturは前者の方がより強調される。ここでいう術語としての「文化」は,前の二単語と同じ広さ,又はそれ以上の概念範疇を持ち,同時に,特定のエスノセントリズム(自民族中心主義・自文化中心主義(21))に基づく価値観を全く排しているのである。
その,「文化」の概念定義については,古来多くの試みがなされてきたにもかかわらず,今なお意見の一致を見ていないと言う。
本章では,文化人類学(Cultural Anthropology),社会人類学(Social Anthropology),民族学(Ethnology)における文化の概念定義の歴史を概観しながら,その理由,及び「文化」の概念の定義についての考察を試みたい。但し,学史といってもまだ1世紀内外の歴史である上,諸説は平行している場合が多く,ここにおいてはすべてを時系列的に述べている訳ではない。また,考察の対象が「文化」であることから,それぞれ理論的背景は異なるのであるが,文化人類学,社会人類学,民族学等の区別はしておらず,便宜上,「ある文化」「諸文化」といった言葉は使用する。つまり,「文化」の単数と複数の問題(Culture とCultures)は諸説分かれるところであるが,適宜使用している場合がある。
まず,文化の概念として本質的に重要なことは,第一に文化は社会的,集団的なものとしてとらえねばならないと言うことであろう。文化は超個人的(suprain-dividual)であり,客観的である。第二には,文化は歴史的に獲得せられたものであるという点が挙げられる。文化は過去からの遺産であり,社会的伝統である。生きている人間から純粋に生物学的遺伝によって獲得されたものをすべて除いた部分が,文化である。そして最後に,文化は統一体であることに着目せねばならない。後に述べるタイラーの「複合的全体」やボアズの「一つの構造」等,文化がその集団内では相互連関を持つという主張は,看過されてはならない。
前提としては,以上の程度に止めておくのがよかろうと思われる。予備的には,―――文化とは,社会的,集団的であり,歴史的であるとともに,一集団内では相互連関を持つものである。―――と把握しておこう。
文化の概念定義を論ずるには,まずもって有名なタイラー(Tylor, E.B, 1832-1917)の一文より始めるべきであろう。
――文化ないし文明とは,民族誌的な意味における知識,信仰,芸術,道徳,法律,慣習,及び社会の成員としての人間によって獲得せられたその技能及び慣習を含む複合的な全体(whole complex)である。(2)
この定義は古今東西多くの引用がなされているが,彼はこの文化観を次のような人間観・世界観に基づき展開している。
人類の様々な社会に見られる文化の条件は,一般的原理に基づき探究しうるものであるなら,人間の思考及び行為の原則を研究するに適した一つの主題となる。他方,かくも広範囲に文明を普及させた統一性は,おおよそのところ,画一的原因に対する画一的行為とみてよかろう。但し,他面,文明の様々な程度は,発達ないし進化の段階と見なしえよう。それぞれが,これまでに辿った歴史的成果なのである。従って,将来の歴史を形造って行く,特有の部分といってもよい。(3)
この観点は,当時一世を風靡したダーウィン(Darwin, Ch, 1809-1882)とワーレス(Wallace, A.R, 1823-1913)の影響を受け,その頃全盛であったスペンサー(Spencer,H,1820-1903)の「進化の原理」(4)に基づいており,モルガン(Morgan,L.H,1817-1881)の「古代社会」(1877)やマルクス(Marx, K.H, 1818-1883)の唯物史観とともに,19世紀進化主義の一派である。(5)
タイラーにとっては文化ないし文明(6)とは単なる抽象的存在ではなく,外的世界に実在する事物であり,出来事であった。彼の著作の「人類学」で扱われる文化の諸相とは,技術,社会,儀式,観念,言語,美や遊戯等に関するきわめて広範,多様なものである。そして,こういった文化が,太古の未開時代から連続的な段階を経ながら着実に進化発展して近代に至ることを,「偉大な原理」とみなし,文化を完全に生活の道具とみる立場を貫いている。
タイラーを代表とする,文化の一系列的発展を説く進化主義は,後に否定されることになるが,文化というものを科学の世界に正しく位置づけ,その体系化を試みた所に彼の偉大さはあるといえよう。 進化主義は人類文化史を自然史の一部としてとらえ,そこに生物一般に適用されるべき進化の概念を導入している。ここにおいて前提となるのは人間心性の同一性の命題であるが,それがどの民族においても同一であるとの仮説の上で,諸民族の文化の多種多様さを進化段階の相違に求めているのである。
この単系進化論に対して,進化規準が主観的に過ぎ,しかも主観的に構成された進化系列をもって事実上の発展とみなしたこと,および,たとえこれを容認したとしてもその表出の形式である文化までも同一であるとはいい難いこと,から,アンチ・テーゼを掲げたのが,ラッツェル(Ratzel, 1844-1909),フロベニウス(Frobenius, 1873-1938)に始まり,シュミット(Schmidt, W 1868-1954)に代表される伝播論者たちである。
シュミットは文化史を構成する二つの単位概念として,空間的単位概念たる「文化圏」と,時間的単位概念たる「文化層」を定義した。
個々の文化要素だけでなく閉じた文化複合の全体が移動し,他に影響を及ぼすことは文化史上疑問の余地なく確認された事実である。こうした文化複合が人間文化に本質的に必要ないっさいのカテゴリー,つまり物質文化,経済,社会,慣習,宗教等のいっさいを包含している場合,これを「文化圏」と称する。(7)
また,文化圏を時間的前後関係に位置づけたとき,文化層の概念が発生するのである。そしてシュミットは,人類史における文化伝播,民族移動が果たす役割を重視しつつ,コッパース(Koppers, W, 1886-1961)との共著「民族と文化」(8)で,いわゆる文化圏説を展開する。彼は,文化の構成要素中最も安定しているものが社会構造であることを指摘し,七つに分けた文化圏をさらに三段階に分類したが,それがあまりにも図式的であったことなどから,彼らの後継者の間でも学問的に不可能として否定されるようになる。ただ,地球上のすべての文化を,統一的な歴史整序原理にもたらしたという点で,画期的な意義をもつ説ではあった。
なお,この文化圏説を学史上初めて提唱したのはフロベニウスであるが,彼は以後,文化形態学の方向に進み,文化圏を構成する文化の全体が独自の生命体に統合されると考え,次のように述べている。
―――文化は人間から独立した存在で,有機体のごとくそれ自身生命力を有し,幼年,青年,壮年というような生命的(パイドイマ的)過程を経過する運命をもつものである。(9)
直観的な図式であるとのそしりを免れないものがあると言えるが,個別文化がライフ・サイクルを持つという着想は示唆的であろう。
フロベニウスにおける文化を生命体とみなす思想は,後のO.シュペングラー(Spengler, O 1880-1936),ひいてはA.J.トインビー(Toynbee, A, J 1889-1975)らの文明観につらなるものである。
さて,シュミットら伝播論者たちは,文化の伝播という重要な事実を力説した点において,人類学理論に大きく貢献したのであるが,文化の要素を社会的コンテクストから切離し,要素間の構造的関連を無視して扱う「要素主義的方法」を用いた点において,19世紀進化論者と同じ誤謬をおかしていた。
進化主義と伝播主義に対して,レヴィ=ストロース(Levi-Strauss, C, 1908-)は次のように批判している。
歴史学者はつねに,人物であれ出来事であれ,個々のものを,あるいは時間・空間における位置によって個別化された現象のグループを研究するものである。ところが伝播論者は比較研究でいわれる種をうち壊し,個々のものを別のカテゴリーからとってきた諸断片で再構成しようとする。けれども,彼が構築できるのは疑似的な個物でしかない。なぜなら,時間的・空間的に整合的なものは諸要素が選びとられ組みあわされる仕方の結果であって,対象に真の統一を与えるものではないからである。伝播主義者のいう文化の「サイクル」とか文化「複合体」とかは,進化主義者のいう「段階」と同じく抽象の所産であり,それにはつねに証拠による裏づけが欠けているのだ。彼らの歴史は憶測であり,イデオロギー的なものである。(10) 文化を独立した要素の集合として扱う方式を退け,現在時点における社会を,綿密な現地調査に基づいて理解しようとしたのが,機能主義の創始者たるマリノウスキー(Malinowski, B.K, 1884-1942)とラドクリフ=ブラウン(Radcliffe-Brown, A.R, 1881- 1955)である。
マリノウスキーの文化概念の特徴として挙げられるのは,文化を手段的実在とみたことであり,彼は機能主義の一般公理として次のように述べている。
――文化は,本質的には,人間を要求充足過程において環境に直面させる具体的,特殊的な諸問題を,よりよく処理させる地位におく手段的装置である。 文化は,全部分が目的に対する手段として存在する対象物,活動及び態度の体系である。(11)
彼の観点は,社会学的なラドクリフ=ブラウンに比べて心理学的で,社会構造は文化の物的装置や慣習の体系と不可分に結合している,とする。また,人間が伝統的技術に従って道具を用いるに至るまで物質文化は存在しないし,技術は知識を必要とする。かくして言語,思想及び物的文化は相互に関連するとみたのである。
トロブリアンドにおける2年間の調査に基づいて,彼は文化を,その諸部分が相互に有機的に関連しあって複雑な機能を果たす統合的全体(integral whole)としてとらえている。この見地はタイラーによる「複合的全体」や,後に述べるボアズの「一つの構造」の概念の影響とみられるが,文化が単に諸要素の羅列ではなく,程度の差こそあれ統合体をなすことに着眼している点は重要であろう。また,文化の内容としては,物質と慣習と観念の三つに類別し,文化をそれら次元を異にするものの有機的統合体としてとらえている。(12)
しかし,文化が人間の生物的・心理的欲求の充足に機能するものとして生成したとしているのに対しては,多くの批判が寄せられ,例えば近年でも,前述のレヴィ=ストロースによれば,
文化間の差異を過小評価して,多様な習慣や,信仰,制度をヒトという種のもっとも基本的な欲求を満たす等価の手段に還元してしまった。このような考え方では,文化は生殖と消化の壮大な比喩になり果ててしまう・・(13)
とあり,クラックホーン(Kluckhohn, C 1905-1960)は,文化現象には直接に人間の生理的欲求と関係のない,非合理性と矛盾に満ちたものがある事を指摘している。(14)またマードック(Murdock,G.P, 1897-)は,人間の行動における,実際の誘発因は習慣などの派生的衝動である,としており,すべてが生理的欲求の充足に機能する事を否定している。(15)
イギリス社会人類学の創始者,ラドクリフ=ブラウンは,文化よりも社会構造という新しい概念を提起し,機能を,社会の統合の維持に対する寄与としてとらえており,社会構造を慣習とは別の体系である「実際に存在する社会関係の網の目」として規定し,綿密な構造分析を行った。(以後,彼の系統をひく社会人類学者が構造論者と称せられるゆえんである。)
また機能を,全体としての社会有機体の「存在必要条件」との一致とした。つまり生物有機体に存するのと同様な存在必要条件が人間社会にも存しており,科学的研究によって発見が可能であると考えたのである。この「機能的一致の原理」は,デュルケーム(Dur-kheim, E, 1858-1917)から引き出したものであり,またモース(Mauss, M, 1872-1950)の影響も大きい。
彼においては,構造とは「ある実体間にある一定の関係」であり,機能とは「一つの部分的行動が全体的行動に貢献する」ということであった。(16)そして「社会構造」という用語には,国家とか部族,クラン(氏族)といった持続性のある社会集団のみならず,人対人のすべての社会関係,例えば父と子,母の兄弟と彼の姉の息子といった多数な二者間の社会関係,さらに男性と女性,首長と平民,雇用者と被雇用者といった社会的役割によって生じた個々人の階層の分化をも含めている。
彼は,社会の持つ本質を互いに機能的に調和し,相互に依存しあう諸要素からなる1個の動態学的体系として認識できると考えており,そこから「一般法則」を導き出そうとしていた。
ここにおいて留意すべきは,マリノウスキーの機能主義も,ラドクリフ=ブラウンの構造=機能主義も,ともに文化の有機体論という目的論的意識が存している点である。進化主義や伝播主義が時間的系列における歴史的法則を求めているのと同様に,機能主義は現在時点においての文化の機能的連関のうちに法則性を求めており,ともに法則定立的である点では同一の次元に立っているのである。また,フィールドワークの重要性を証明したのは彼らの功績であるが,そういった経験主義に立つ人々は,(彼らの後継者たちも含めて)観念の構造は観察不能な抽象物であり,理論家たちが作りあげた虚構であると考え,ある社会に内在する観念の構造について論ずる事を避ける傾向があるようだ。
アメリカ文化人類学の父と称せられるボアズ(Boas, F, 1858-1942)は,進化主義の理論を受け入れ,また伝播主義と共通の観点から,同時にそれらに満足すること無く,独自の歴史主義理論を確立した。これはドイツ伝播主義,イギリス機能主義などと同様に,アメリカ歴史主義として一大潮流をなす理論である。
初期のボアズは,人類の文化においても,その発展を支配する法則を発見することができると確信していた。しかし,徹底した帰納的・経験的アプローチを勧めた結果,文化の普遍的歴史法則発見の期待を失ってしまい,その後「個人の文化における役割」を重視するに至り,文化を次のように定義している。
――文化とは,社会集団を構成している諸個人が,集団的にまた個人的に,自然環境,他集団,自集団内の成員,各個人同志との関係の中で,諸個人の行動を性格づける精神的,身体的反応や活動の総体である。(17)
彼は,おのおのの文化状況における個人の研究こそが,文化の原動力を知る有効な研究である,と説いている。彼によれば,
個人の活動はかなりの程度,社会環境に影響を受けるが,逆に個人の行動は社会に影響を与えているのであり,個人は社会形態を修正しさえする。すなわち文化現象の原因となる諸条件は,常に個人と社会,より正確には,個人と文化との相互作用のなかに存在する。(18)
彼においては,文化は内部要因により核を構成し構造化されており,さらに外部要因が環境との関連において変化を受けながら文化の特徴を形成し,内核と結合している全体であるとしている。この構造化された内核こそが,人間の心理にとって基本となる無意識の心理作用によるものであるという。この見解は,文化とパーソナリティ論の萌芽となり,後にサピア(Sapir, E, 1884-1939),ベネディクト(Benedict, R.F, 1887-1948),ミード(Mead, M, 1901-1978)らが,精神分析学を人類学に取り入れる礎となった。またボアズは,別のところで文化を項目的に並べている。
文化には,物質文化(食物の収集・保存・準備,家屋,衣服,手工業の過程及び産物,交通の方法),社会関係(一般的経済状態,所有権,他の部族との戦争及び平和における関係,部族における個人の地位,部族の組織,通信の形態,性的及びその他の個人的関係),芸術(装飾,絵画,造型美術,歌謡,物語,舞踏),宗教(聖なるものまたは普通の人間活動の領域以外の態度や活動),倫理的活動(善,悪,適当,不適当,その他の基本的倫理的概念に関する慣習的活動)がある。(19)
そして,これらの生活の諸々の面の単なる列挙が文化を構成するのでなく,ひとつの構造structureを持っているから,列挙以上のものである,としている。この観念が,先述のマリノウスキーに影響を与えたであろう「一つの構造」である。
ボアズに代表される歴史主義(歴史的個別主義)は,個性記述的な研究方略として,今日まで継承されている。個性記述的な方法とは,人間に関わるすべての事象が偶然の機会かまたは人間の自発性によって左右されるという前提に立っており,従って文化的な類似や相違を説明するために,歴史の法則や反復して起こる文化的事象の因果関係を追求する試みは無益だとする考え方である。
他に,彼の業績としては,徹底した野外調査及び資料収集をして,諸理論を絶えず検証し修正と批判を加えた事であり,中でも最大の功績とされるのは,「文化の相対性」を唱えたことである。そして彼はまた,文化はそれ自身の言語なり論理においてのみ理解されうる,という事にいち早く気づき,言語と文化の関係を強調した最初の人類学者でもあった。(20)
モルガン,ボアズらをアメリカにおける第1世代とすると,クローバー,ロウィー(Lowie, R. 1883-1957),サピア,ウィスラー(Wissler, C. 1870-1947),ゴールデンワイザー(Goldenwiser, A. 1880-1940)らが第二世代,レッドフィールド(Redfield,R.1897-1958),ハースコビッツ(Herskovits, M. 1895-1963),ベネディクト,ミード,そしてリントン(Linton, R.1893-1953)らが第三世代となる。
ボアズの子弟は多く,彼らもまた後代に多大な影響を与え,現代アメリカ人類学各部門における,それぞれの研究創設者となった。その中でひとり,区別されうるのがクローバー(Kroeber, A.L, 1876-1960)である。ボアズが「個人」に着目したのに反して,彼は,文化の「超有機体説」(1917)において,無機界,有機界に対する第三の世界としての文化の概念を持った。この考えは歴史における個人の役割の否定である。 彼によれば,文化は生命現象とはレベルを異にする自律的,閉鎖的な現象,従って超有機体的現象であって,個々の人間のパーソナリティの偶有性は超有機界自体の偉大な力の前ではほとんど無意味な存在と化する,としている。
論証のための事例として,彼は科学史上の複数者による同時的な発明発見をあげており,その理由を文明の中の超絶的な力であるとし,誰によって表現されるかは全くの偶然にしかすぎないと述べている。
また,その超有機体論を主導的概念として,服装の流行にも一定の通時的な規則性が存在することを統計的に立証しようとしており,その流行周期こそが文化現象のレベルでの規則的な運動であり,有機体的な存在としての人間の心理学的契機は何らの作用を及ぼすこともできない。すなわち文化が超有機体(the superorganic)であるゆえんである,としている。(21)
これは,文化がどのような普遍的特性を含み,その本質はどのように規定されるかという疑問に対しての,フロベニウスより大きな次元における解答ではあった。
彼の論旨については評価が二分し,個性記述的なボアズ一派からは,数学者のやるような関数関係の発見は,なま身の人間と何ら関わりがないと反論され,他方,ホワイト(White, L.A 1900-1975)等からは,文化と人間とは現象レベルを異にしており,個人を捨象してこそ科学的な文化の研究が可能であるとして,支持を受けた。
いずれにしても,クローバーの見解は,心理学的還元論と共時的機能論に侵されていた1920-1930年代の人類学界では極度の異端とみなされた。そのために彼の考え方そのものが論評の的になっただけで,彼の指摘そのものの正否は,現在においてもなお証明されてはいない。クラックホーンが1949年に,次のように述べているように。
確かに文化は,ほとんどの場合,われわれに対して強制的な力を持っている。レスリー・ホワイトが言うように,「文化には文化の生命と法則がある」ということはある程度まで正しい。(22)
少なくとも20世紀の初めまでは,自然は文化の対立概念であった。また,ルソー(Rousseau 1699-1778)のエミールの例を出すまでもなく,自然は人間の対立概念でもあった。そして,文化は人間と,少なくともニア・イコールで結ばれる関係であったのである。ここにおいて,自然と人間と文化という三項対立が出現し,加えて関連諸科学の発達に伴い,人間と自然の間に存する幕の位置さえもが,不明確になってきたのである。 ボアズの思想を継いで,1930年代になってから,サピアがウォーフ(Whorf, B. L, 1897-1941)とともに言語の重要性を指摘した。「言語と人間の経験様式の間には関係がある。」というのが,いわゆる「サピア・ウォーフの仮説」である。これは両者が独自に,それぞれの言語研究を通じて抱くようになった考えであるが,言語とは単に思想を表現する媒体以上のものである,という点で一致していた。
これは非常に鋭い着眼であるが,文化の変化の速さに比べて言語の変化が緩やかである点などから,この仮説は現在においてもなお仮説のままである。(23) しかし,言語の重要性は疑うべくもなく,エドワード・ホール(Hall, E.T, 1914-)は次のように上手く例えている。
事実,言語は思想形成の一つの主要な要素なのである。われわれの日常から例をとるならば,人間による世界の知覚というものは,その人のしゃべる言語によってプログラムされている。あたかもコンピューターがプログラムされているように。人間の心はコンピューターと同じく外界の現実をただそのプログラムに沿って記録し組み立てるだけなのである。
二つの言語は,同じ部類に属する出来事をしばしばまったく違うようにプログラムするので,信仰あるいは哲学の体系は,言語を離れては考えることができないのだ。(24) また,サピアは1927年の論文「社会における行動の無意識的型」において,「無意識的」という精神分析の用語とともに,型(Pattern)という概念を初めて人類学に導入した。彼は,言語の中に含まれている(無意識の法則性)なる事実を,文化の面にも適用して考え,それぞれの文化において人々が無意識に従っている規則の存在を指摘し,その規則を文化の中における行動の型と称した。また,サピアの影響を受けたベネディクトは,1934年の「文化の諸類型」において,文化類型という概念を提唱している。
文化を,いくつかの類別に分けて考察しようとする試みは,この頃から始まったと言ってよかろう。文化の科学的分析としての試金石の数々は,評価されるべきなのであるが,同時に恣意的でありすぎたことも否定できず,諸学者によってその示すところが著しく異なっており,同様の混乱は形を変えて現在まで続いている。
例えば,『抽象の度合で大まかに分ければサピアのいう型は,ベネディクトの「菊と刀」(1946)における型(patterns)であり,より高い抽象過程を経たリントンにおける「かくれた文化(covert culture)」はクラックホーンによる,形態(configura-tion)と同じ意味であり,最高度に抽象したものが,ベネディクトが「文化の諸類型でいう型(pattern)」であり,クラックホーンの「エトス ethos」あるいは「ツァイトガイスト」である,』といったごときである。(25)右の抽象段階による整理は,クラックホーンの指摘によるものであるが,(26)アメリカ文化人類学が急スピードで発展したこの頃は,他の方面でも様々な混乱が増加した。「文化の概念の定義」もそのひとつである。
クラックホーンとクローバーが,「文化―概念と定義の批判的概観」(27)において,それまでに発表された古今東西の,文化の概念や定義の分類整理と注釈・論評を試みたことが何よりもその証左であろう。
また,クラックホーンは,「『文化』は,他のやり方では理解のしようもない混沌とした事実の数々を理解する一助となる『理論』である。」と述べており,また,「文化は抽象概念である。」としている。(28)
そして文化とは,任意の時点において,人間の行動を潜在的に導くものとして存在するところの,歴史の産物としての生活様式,但し,それには,明示的なものも暗示的なものも,また,合理的,不合理的,非合理的なものもある,と言う。(29)
また,文化が人間生活を規制する事を指摘するという意味において,ベネディクトの,「文化は人間同士を結ぶ絆である。」という名言は,ほとんど改良の余地のない完壁な『定義』である,と述べている。(30)
諸学者間における『定義』や分類における混乱は,クラックホーンというひとりの学者にも混乱をもたらしている。
以上のごとくいくつかの定義と,その背景を概観してきたが,勿論,他にも看過されてはならない学派,学者は多くあり,20世紀も終わりつつある今日からすれば,右に述べてきたすべては古典の範疇に入るものであるが,クラックホーンが整理を試みた「問題」は,古典と称せられるすべてで語られ得るものであり,同時に現在に至るまで存続しているのである。人類学に関わるテキストに,未だに必ずと言ってよい程顔を出す,タイラーの『定義』がその証左であろう。
歴史とともに,関連諸理論が発展してきたことに疑問の余地はないが,同時に,他の科学における発展が関与して,一連の不明確さが比例しているのは否めない。
人類学,あるいはもっと限定すれば,文化の概念に対する問いであり,その概念を規定する為の思惟は,自然科学であるのか,人文科学であるのか,またはクラックホーンの言うように,それら既成範疇を超越したもの,すべてを包括するものであり得るのだろうか。
(1)「文化人類学入門」祖父江孝男 中央公論社 1979年全10巻の「日本国語大辞典」にも,文化の四つの定義の一つとして,「文明開化」とあるが,西江雅之によれば,今世紀初頭期における神戸のアナーキストたちによって,「文化」という言葉が初めて使われだしたという。
(2)Tylor, Primitive Culture, 1871
(3)Tylor, 1920
(4)スペンサー 主著「総合哲学体系」 全10巻において,星雲の生成から人間社会の道徳原理の展開までを,すべて進化の原理によって組織的に叙述した。
(5)民族学における進化論的解釈が生物学的進化論からの直接の影響であることは,19世紀末に真実となったが,歴史的には,社会学上の進化論は生物学的進化論に先行するものであった。なお,ダーウィンの「種の起源」は1859年。
(6)タイラーにおいては,文化と文明の厳密な使い分けはなされていない。19世紀末期から今世紀初頭にかけては,ドイツのディルタイ(Dilthey. W, 1833-1911)のいうように,文化は高次の体系で,文明は具体的な下位概念とされていた。他方,文化を行動様式の総体としてとらえ,その基礎をなす物質的条件を文明とする説もある。また,文明は旧来の生活方法を改変し,進んだ工業技術等によって創造される新しい状況を指すという考え方もある。現在においては文化と文明を対立的にとらえるのは,または高低の差をつけるのは無意味であるが,一般に,文明は人間の意識,制度などの精神的側面をささえる物質的状態を指している場合が多い。文明はハードウェアで文化はソフトウェア,と比喩されることもある。
(7)Schmidt, 1937
(8)Schmidt, (with Koppers) Voolker und Kulturen 1925.
(9)自然科学的文化論 フロベニウス 1899年(平凡社)
(10)「現代文化人類学のエッセンス」蒲生正男編 ペリかん社 1978年
(11)Malinowski, Scientific Theory of Culture, 1944
(12)マリノウスキーは社会組織を,この三つのうち慣習に含めており,そのことをフォーテスが批判している。文化の内容の類別の仕方は諸学者によって様々に異なる。
(13)「人種と歴史」Race Et Histoire(1952)C.レヴィ=ストロース みすず書房 1970年
(14)「人間のための鏡」Mirror for Man(1949)クライド・クラックホーン, 光延明洋訳 サイマル出版会 1971年
(15)「文化人類学入門リーディングス」綾部恒雄,大林太良,米山俊直 アカデミア出版会 1982年
(16)機能と構造について野口隆は次のように説明している。「機能というのは,ある複合的全体の構成の,あるいはその動きの中で,あるものが演ずる特有の役割ないし働きであって,これを社会についていえば,人間集合体の歩みに貢献するある個人ないし集団の,それに特有な役割あるいは活動であるといえるであろうが,構造が静的なものとして受け取られがちなのに対して,これはすぐれて動的な概念であるといわなければならない。構造は,それを構成するある要素,それが社会である場合,ある人間,ある集団が,そこに動かぬものとして,あるいはある定められた地位としてそこにあるものとして,仮定されるのに対して,機能は,その要素,人間,集団が,ある働きをする,ある役割を演ずるという関係にあるといえる。」 「レヴィ=ストロースとその周辺」野口隆 晃洋書房 1986年
(17)Boas, 1911
(18)Boas, 1932
(19)「文化人類学」小川博 芦書房 1983年
(20)参考文献(10)に同じ
(21)「文化の相対性」人類の文化は,どの民族の如何なる風習も,それを一部分として包摂する文化の全体構造からとらえねばならない。どの文化もそれぞれ所与の環境への最適の適応方法として歴史的に形成されたものであり,すべての文化はそれなりの価値を内在している。あらゆる社会,又は文化に共通して適用できる唯一の価値尺度というものは存在しないのであり,すべての社会の人間の諸所の歴史から生じた意味の正しい解釈は,その歴史経験を有する人々の文化的背景,行動の全体的な基準,社会的コンテクストの中の他の慣行や社会規範によってのみ行え得る。なぜなら,それらの諸要因が判断する主体である人間の知覚や価値判断,認識の方法に大きな影響を及ぼすからである。すべての人間社会におけるすべての文化には他と比較して優劣,善悪,あるいは進歩の度合などといった評価を下すべきではない。各々の文化に対する絶対的価値基準はないのである。以上のような態度ないし研究方法を文化相対主義(cultural relativism)という。相対立する概念としては自民族中心主義(エスノセントリズム ethnocentrism)が挙げられる。
(22)参考文献(14)に同じ
(23)「文化人類学と言語学」E・サピア,B・L・ウォーフ共著 池上嘉彦訳 弘文社 1970年
(24)「かくれた次元」The Hidden Dimension(1966)E・T・ホール 日高敏隆,佐藤信行訳 みすず書房 1970年
(25)「ピアジェとレヴィ=ストロース」The Quest for Mind(1972) H・ガードナー 波多野完治・入江良平訳 誠信書房 1975年
(26)Kluckhohn, Covert Culture and Administrative Problems
(27)Culture : Acritical Review of Concepts and Definitions (with Kroeber) 1952
(28)参考文献(14)に同じ
(29)参考文献(23)に同じ
(30)参考文献(14)に同じ
どれも興味深い良書ばかりなので,一読をおすすめする。とりあえずは,ホールの「沈黙のことば」か,西江・吉行の「サルの檻,ヒトの檻」あたりから繙けばよいのではなかろうか。
「人類学的世界史」 The Tree of Culture (1959) ラルフ・リントン 小川博 訳 至誠堂 1976年
「地球時代の文化論」 Culture and Commitment(1978) M・ミード 太田和子 訳 東京大学出版会 1981年
「サルの檻,ヒトの檻」 西江雅之,吉行淳之介 朝日出版社 1980年
「沈黙のことば」 The Silent Language (1959) E・T・ホール 國弘正雄,長井善見 斎藤美津子 訳 南雲堂 1966年
「文化としての時間」 The Dance of Life (1983) E・T・ホール 宇波彰 訳 TBSブリタニカ 1983年
「文化を超えて」 Beyond Culture(1976) E・T・ホール 岩田慶治,谷泰 訳 TBSブリタニカ 1979年
「かくれた差異」 Hidden Differences(1986) E・T・ホール,M・R・ホール 勝田二郎 訳 メディアハウス出版会 1986年
「文化とコミュニケーション」 Culture and Communication (1976) E・リーチ 青木保,宮坂敬造 訳 紀伊國屋書店 1981年
「構造・神話・労働」 Conferences Au Japon(1977) C. レヴィ=ストロース みすず書房 1979年
「現代思想」 特集=後期レヴィストロース 青土社 (1985 vol.13-4)
「文化人類学」 祖父江孝男 蒲生正男 編 有斐閣 1969年
「文化人類学の考え方」 米山俊直 講談社 1968年
「比較文明1特集=比較文明の地平」 刀水書房 (1985.1)
「文化とは」 Culture (1981) R・ウィリアムズ 小池民男 訳 晶文社セレクション 1985年