人は誰も生涯に何人かの「先生」といわれる人に出会う。小学校の時の恩師,卒業研究の指導教員,ピアノの先生,茶道の師匠…。しかし心に深いインパクトを刻み,その後の人生に影響を与えた「師」と呼べる人は少ない。師に出会わないで一生を終える人もいる。その時は師とは気づかないで過ごして後からそれと気づく師もいる。私にとって初代学院長はそういう師であった。
私が初めて初代学院長に出会ったのは確か1974年の3月だったと思う。4月から京都コンピュータ学院で非常勤講師を勤めるに当たっての面接・講師会が洛北校(当時は洛北校しかなかったので洛北校という言葉はなかったが)で開かれた。面接らしき面接もなくそのまま講師会に出席したが,残念ながらその内容はほとんど覚えていない。具体的に何をどう教えるという話はなくて,この学校をいかに作っていかに運営しているかというような話があったと思う。とにかく長々とよくしゃべる人だという印象だけが残った。
それから亡くなられるまで12年間,幾度となく聞いた初代学院長の話はいつも現代の教育制度の矛盾欠陥の指摘から始まる。
「共通一次試験は教育の国家統制で学校のランキングを公にするものだ。」
「高校までの成績で入学を差別するシステムにはくみしない。」
「京都コンピュータ学院はいわゆる「専修学校」ではない。京都コンピュータ学院は京都コンピュータ学院であり,たまたま現在の学校教育法の制度では専修学校という範囲に組み入れられているだけのことだ。」
「コンピュータの技術を教えるだけの学校ならいくらでもあるし,何も僕がやる事もない。」
「われわれは今までどこにもない全く新しい学校,思想・宗教など一切の差別のないユートピアを作ろう。」
「こういうことは官ではなく民の力でやるべきことだ。」
……………………
そして
「大学で研究の経験のある人,他の学校で教育の経験のある人,会社で企業実務の経験のある人,それぞれができる範囲の事で学校作りに協力して欲しいんだ。」
「作花さんや牧野さんは今僕が言った事を学生に教えてやってくれ。」
という結末に至る。
私はこれらの話を聞いて半ば共感しながら半ば反発した。理想は高邁だがそれを実現する青写真はない,全く新しい学校とは具体的にどんなものかわからない,それは自分で考えろと言うのか,こんな茫漠たる事をどうやって学生に伝えられるものか!と。この人は教育者というよりは(いわんや経営者・事業家には程遠く)むしろ革命家かと思ったものだが,今にして思えばまさに革命の殉死者である。初代学院長から自分の尊敬する人物という事は聞いた事がないが,その言動からして範たる教育者は吉田松陰ではなかっただろうかと思われてならない。
吉田松陰は言うまでもなく幕末の長州の情熱的な思想家・教育者である。萩城下の郊外にある松本村の松下村塾にて数多くの明治維新前後に活躍する若者を育てた。しばしば,攘夷論者・国粋主義者・アジテータという偏見をもって見なされているが,彼が教えたのは四書五経に基づく人間の生き方で,そのカリキュラムは漢文・地理・歴史・算術など普通の教科である。教科書には古典の他に多数の手作り教材を使っていた。地位身分などによる差別を一切せず学問を志す者は誰でも入門させ,「僕」という自称を使って同じ目線で門下生と接したという。特に教育の目的が時の体制維持のためではないことが塾(私立),藩校(公立),幕府の昌平黌(国立)など他の学校と全く違っていた。そのため時の権力から迫害され,その志を実現できず命を絶たれてしまうが,その遺志は門下生に受け継がれていく。彼は非常な勤勉な読書家で最新の国際情勢にも詳しく,超一級の政治犯であるのに藩主から庶民までに敬愛された人である。私の郷里山口県では100年経ってもなお尊敬の的であり,小学校の時から努力家の鑑として吉田松陰の話はよく聞かされたし,また中学校ではバスツアーのコースとして松下村塾の跡である松陰神社に参るのが通例だった。
松陰の肖像画を見ると痩せた神経質そうな表情で,初代学院長のようなエネルギッシュな面影はない。性格的には共通点よりも相違点の方が多いかもしれない。しかし時代の先を見通し,広い心で若者を受け容れ,その情熱で人を駆り立て,そして志半ばで倒れるという姿に私は頭の中にダブルイメージを描く。
私は初代学院長の遺された長大な課題の中の「ユートピア」という言葉を今もときどき思い出す。ユートピアとは出来てしまえばユートピアではなくなるものであり,所詮現実には存在しない文字通り理想郷だ。古来ユートピアを作ろうとして徒労に終わった例,夢だけで終わった例は少なくない。にも拘わらず敢えてユートピアを作ろうということは,ユートピアを追求する努力の重要さを指摘されたのではないだろうか。ちょうど松陰が来るべき新しいわが国の姿を夢見て追い求めたように…