思えばIT(Information Technology)という言葉が一般的になったのは,今から10年足らず前のことだ。2001年1月に,森内閣のもとでe-Japan 戦略の構想が発表された。これは,IT革命が産業革命に匹敵する歴史的大転換を社会にもたらし,ITの進歩により,「知識の相互連鎖的な進化が高度な付加価値を生み出す知識創発型社会に移行する」との認識のもと,法制度や情報通信インフラの基盤整備の必要性を訴え,それを国家戦略として実現していくための構想であった。具体的に推進すべき方策として挙げられていたのは①超高速ネットワークインフラの整備及び競争の促進,②電子商取引の促進,③電子政府の実現,④人材育成の強化であった。
その後,情報通信インフラの整備などハード面では,かなりの伸展が見られたといえるだろう。ブロードバンド化により動画データなどの流通も円滑になり,ネット接続コストの定額化により常時接続が実現し,IPv6の採用により,IDを持てる端末数も一気に増大するであろう。こうした変化により,私たちの社会は,今やユビキタス社会といわれる局面に入りつつある。その反面,現在でも,変わらず大きな課題となっているのが,人材育成の問題である。
総務省は,2007年に「高度ICT人材育成に関する研究会」を立ち上げ,この問題に関する報告書を作成している。総務省の試算によると,企業におけるICT(情報通信技術)人材は全体で50万人不足しており,特に高度ICT人材の不足は35万人に上るといわれている。高度ICT人材とは,ソフトウェアの開発において設計や企画にあたる上流工程に携わる人材であり,技術系(プロジェクトマネージャ,上級システム設計・開発など)とマネジメント系(CIO,CTO,システム企画など)に分類できる。なかでも特に不足が著しいのは,マネジメント系の人材であるとされている。
一方,経済産業省も,2007年7月20日,産業構造審議会情報経済分科会,情報サービス・ソフトウェア小委員会,人材育成ワーキンググループ報告書として,「高度IT人材育成をめざして」を発表している。同報告書には高度IT人材育成のための具体的な施策として,次のような事項を挙げている。①高度IT人材の具体像(キャリアとスキル)の可視化,共有化,②実践的かつ先端的な人材育成手法の確立,実践,③客観性の高い人材評価メカニズムの構築,④わが国発の人材育成・評価システムの国際展開,⑤高度IT人材育成のための推進体制づくりなどである。育成が急務である高度IT人材を類型化している点に,同報告書の特色があるといえるだろう。同報告書では,育成をめざすべき高度IT人材像を,①基本戦略系,②ソリューション系,③クリエーション系に区分している。
まず①基本戦略系人材とは,ストラテジストと言われ,経営が直面する諸課題に対するIT活用型の新たな戦略を策定する人材であるとされる。
②ソリューション系人材とは,ユーザーである企業等の業務知識を熟知し,経営戦略のニーズに対応しながら,汎用ソフトウェアの最適な組合せを実現したり,信頼性・生産性の高い個別のアプリケーションを支えるIT基盤を,セキュリティや内部統制等の観点から高度化する人材であるとされる。職種でいえば,システムアーキテクト,サービスマネージャ,プロジェクトマネージャ,テクニカルスペシャリストなどがこれに該当する。
③クリエーション系人材とは,Web活用の新技術や新たなコンピュータ言語の開発など,社会の夢や付加価値を創造するための新たなITフロンティアを創造・開拓する人材であるとされる。製造業と密接に関わりながら,既存の製品の組込みシステムを開発するような人材も含んでいる。
日本の場合,自動車や電化製品などの製造業が高い国際競争力を有しているが,今後,日本の製造業がその地位を維持するうえで,IT人材の確保が重要となる。
現在,コンピュータは形を変え,私たちの身の回りに溢れている。たとえば,携帯電話や自動車はコンピュータの塊である。工業製品に内蔵されたコンピュータシステムのことを組込みシステムという。組込みシステムを機能面で分類すると大きく二つに分けることができる。工業用ロボットに内蔵されたような制御を中心としたもの,もう一つは,携帯電話に内蔵されたような情報処理を中心としたものである。搭載されているプログラムサイズは,携帯電話で500万行,通信機能搭載型カーナビで300万行にも及ぶ。自動車などの場合,仮に不具合が生じると人の命にもかかわることから,搭載された製品の様々な使用状況において適切な動作を維持する必要があり,リアルタイム性,信頼性,安定性などが強く求められる。
半導体技術の発達にともなうマイクロプロセッサの高性能化・低価格化によって,組込みシステムの適用範囲はさらに急速に拡大している。従来ハードウェア部品で賄っていた機能をソフトウェアによって実現することで,部品数を減らすことができるなど,製造コストの削減のメリットも狙えることから,組込みシステムの技術を抜きにしては,多くの製造業は成立し得ない状況となっている。国内の組込みソフトウェア開発の市場規模は,約3兆5100億円で,対前年比7.5%増加し,さらに拡大している。
このように組込みシステムの分野は,将来性があるにもかかわらず,人材不足が特に深刻である。「高度IT人材の育成をめざして」における分類でいえば,クリエーション系にあたる人材である。
経済産業省が2004年から継続して組込みシステムに係わる企業,技術者等を対象として調査を行っているが,その調査結果をまとめた「2008年版組込みソフトウェア産業実態調査」によれば,人材不足の現状は以下のとおりである。
組込みシステム関連の職種別に不足率(「不足している技術者合計」 「現状の技術者合計」)を観ると,特に不足が著しいのは,①「経営的観点のもとに,製品の企画・開発・製造・流通・販売・保守等にわたる製品ライフサイクルを統括する責任者」であるプロダクトマネージャ(64.9%),②「プロジェクトの全工程において品質確保・維持・向上の推進を担当する専門技術者」であるQAスペシャリスト(55.1%),③「プロジェクトで使用するツール・設備等,開発環境の設計・構築,運用を担当する技術者である開発環境エンジニア(50.7%)となっている。その他の職種においても,全ての分野で人材が不足している。ちなみに「ソフトウェアの各開発工程において設計・実装作業を担当する技術者」であるソフトウェアエンジニアの不足率は,25.9%である。
日本の製造業の将来を考えると,この人材不足の状況に対処することは緊急の課題といえる。
前述したIT(ICT)人材育成に関する総務省,経済産業省の分析で共通しているのは,経済のグローバル化の進展のなかで,IT産業分野での国際競争に勝ち残ることが,日本の産業の今後を考えるうえで,極めて重要であるという認識である。そして,インドや中国などの新興国の台頭の理由について,それらの国でIT人材の育成が進んでいることが挙げられており,その点で遅れをとっているわが国の現状に対する強い危機感がうかがえる。
経済産業省の「高度IT人材育成をめざして」は,国際的なIT市場の変化にもふれ,中国・インド等のIT市場規模が拡大し,日本のIT市場は,世界第2位の市場からローカル市場になるとの見通しを述べる。また高度IT人材の規模は10年後にはインド及び中国が世界を圧倒し,世界のIT人材市場も日本や欧米からアジアに重点がシフトすると同報告書は分析している。日本における情報工学系の卒業者は単年で約2.2万人であるのに対して,インドは約24.6万人,中国は約33.5万人であり,10倍以上の開きがある。
現在,日本のIT関連企業においては,ソフトウェア開発の下流工程について海外で開発を行うオフショア開発が増えている。こうした状況を見て,これからの時代は,下流工程に携わるプログラマは不要になるとの俗論を時々耳にすることがある。しかし,これは誤っている。オフショア開発が進むのは,安い人件費ということも大きな理由であるが,国内での人材不足を補完する意味もある。つまり国内での人材が不足しているから,海外に人材を求めざるを得ないのである。現在でも,国内におけるプログラマの人材不足が解消されたわけではない。またインドや中国でも人件費は上がる傾向にあり,オフショア開発のその点での魅力も減少してきている。
プログラミング能力は言うまでもなく,ソフトウェア開発の基礎的能力であり,これを疎かにしては,高度IT人材の育成もおぼつかない。基礎的な人材供給を海外にたよるという産業の空洞化は健全とは言えないであろう。従ってプログラマが不要であるとか,プログラミングに関する教育を疎かにしていいというわけではない。この点は強調しておきたい。。
IT人材育成が進まない要因として挙げられているのが,大学教育の問題である。「高度IT人材の育成をめざして」は,「大学側の問題として,システム開発経験,特に複数人でのシステム開発経験のある教員が少ない,教える内容をモデル化した適切なカリキュラムがない,適切な教材が少ない等の問題がある」「また,企業から教員を招聘しようとしても,学内の慣習等(論文による教授会審査等)により実行困難という問題がある。実践的な開発のノウハウを学びたいとする教員も多いが,具体的な学びの場は多くない」など,大学教育の現状の問題点を挙げている。その他,大学でIT関連の人材育成が困難な理由としては,学部ごとの縦割り構造が,学際的なIT分野の研究の障害となることや,カリキュラム改変に時間がかかるため,変化の著しいIT分野に即応できないことなどが挙げられる。このようにソフトウェア開発やIT関連の人材育成が,既成の大学教育では構造的に不可能な状態にあると言われている。
そもそも日本の大学は情報技術者の育成に関しては遅れをとってきた。現に,IT人材の育成を担当する高等教育機関は大学ではなく,専修学校であった。日本のIT人材の育成において,大きな力を発揮し,量的にも質的にも成果を挙げてきた京都コンピュータ学院も専修学校である。
また要因の一つとして,若い人から見たときにIT産業があまり魅力的とは言えないとの指摘がある。「高度IT人材の育成をめざして」は,①欧米においては,ソフトウェア開発上,ソフトウェアの共通部分の再利用や分業が進んでいるのに対して,わが国では,「作り込みによるシステムの受託開発が中心」であり,「産業としての生産性・収益性が低い」うえに,②「IT人材不足の深刻化により,長時間労働が常態化」するという悪循環に陥っていると,日本のIT産業の現状を分析している。
しかしながら,IT分野は,まだ若く将来性もある分野であり,今後さらに大きく変化するだろう。ソフトウェア開発手法においても,オープン化やモジュール化などが急速に発展をし,ブロードバンドの普及など情報通信インフラ整備の促進などにより,情報ネットワークを介してソフトウェアサービスを供給するSaaSなどの新しいビジネスモデルも生まれるなど,IT産業を巡る環境も大きく変化している。今後,さらに多くの若者がフロンティアスピリットを持ってこの分野を目指すことが,IT業界のみならず,産業界全体から期待されている。