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Accumu Vol.11

米国同時多発テロの現場から

京都コンピュータ学院ニューヨークオフィス チーフマネージャー
イリノイ大学客員研究員
ユウ・ジョンソン

ありし日のツインタワーズ: 1913年に世界一高いビルだったウールワースビルも,ツインタワーに挟まれると,子どもの様だ。
ありし日のツインタワーズ:
1913年に世界一高いビルだったウールワースビルも,
ツインタワーに挟まれると,子どもの様だ。
Photo by Yu Johnson

米国の,また,世界経済の象徴であり,KCGがオフィスを設置していた世界貿易センタービルのツインタワー北棟にハイジャックされた航空機が激突した。その15分後,北棟が炎上している中,別の航空機が南棟へ激突した。そして,その両棟は1時間足らずのうちに,あっけなく相次いで崩壊した。煙と灰と破片が逃げ回る市民を一気に飲み込む。マンハッタンに降り積もる大量の埃と灰。あの,いつもは賑やかなマンハッタンが一瞬にして廃墟と化した。悪夢は現実だった。

私がそのニュースを知ったのは,それから約30分後だった。イリノイ大学のロビーで何人かの女性が抱き合っていた。中には涙ぐんでいる人もいた。大学の誰かが亡くなったのかなと思いつつ,通り過ぎようとすると,そのうちの一人が「ニュースを聞いたか」と話し掛けてきた。「何も知らない」と答えると,ニューヨークのビルめがけて飛行機が2機墜落したという。オフィスへ行くのをやめて,私はテレビニュースを見るために自宅へ戻った。その時は,まさか,ツインタワー両棟がテロによって崩壊したなど夢にも思っていなかった。

テレビをつけたとたんに映し出された映像に私の脳は凍りついた。暫く呆然として画面を見続けた。まるでアクション映画のようなその映像が現実であると認識するまでに,数分かかったように記憶している。そして次に頭に浮かんだのが,KCGのニューヨークスタッフの安否である。前日,スタッフの一人で私のよき友人でもあるハイッツァ・ワシヨ(ニックネーム:ハイッチャ)と電話で話をしたところだった。ハイッチャは,郵便をチェックしに翌朝オフィスへ行くと言っていた。さっそく彼女の携帯に電話を入れたがつながらない。自宅にかけても留守だ。彼女はその時,ツインタワー北棟の79階にいたのではないか。妊娠8カ月の彼女は,79階もの階段を,降りることができたのだろうか。もう一人のスタッフ,ツォンジン・リーは?進行中のプロジェクトチーム6人は?親友テッドは?〔彼のオフィスは,世界貿易センター7階にあった。〕そして,ニューヨークに住んでいる他の友人は?私は,「まさか」の恐怖に震えながら,心あたりに電話をかけ続けた。

今まで私は,発展途上国へのコンピュータ教育(IDCE)を担当してきた。KCGのオフィスをボストンからニューヨークにある世界貿易センタービルに移してからは,まだ1年しか経っていなかったが,世界経済の象徴であるツインタワーの一つにオフィスを構えるというのは,私達の誇りであった。それは,KCGが,世界のKCGである,という象徴のようなものでもあった。

ハイッチャと遂に連絡が取れたのは,それから約8時間後,現地時間で夜7時過ぎだった。朝,ツインタワーに向かっている時,ブロードウェイの南端の方でビルが爆発しているのが見えたので,Uターンをして一心に逃げたという。ハイッチャからの連絡に安心するのもつかの間だった。私の夫が勤務するUCLA(カリフォルニア大学ロスアンジェルス校)での同僚だったパトリシアの母親が,ツインタワーに突っ込んだアメリカン航空11便に乗っていたというのだ。そして,私の弟の友人べスの上司と同僚,合わせて4人も,ツインタワーに消えた飛行機に乗っていたという。震えが止まらなくなった。

その晩から,悪夢にうなされるようになった。目の前で,ハイジャック犯が,女性をずたずたに切りつけて殺している夢。たくさんの飛行機がいろんな形で,私の目の前で墜落・爆発する夢。被害者の持ち物の山の中に,私の友達のコートをみつける夢。苦しみながら目を覚まし,それが現実でないとわかるごとに,ほっとした。しかし,その4日後,割れるような激しい頭痛におそわれ,いっさいの飲食物が喉を通らず,私自身救急車で運ばれ入院してしまった。PTSD(心因外傷後ストレス症)であった。

*   *   *

イリノイ大学のある,この小さな町,アーバナ・シャンペインでは,今でも,アメリカの国旗を掲げる家が目立つ。(9月11日に売れたアメリカ国旗の数は,ウォールマートというアメリカのチェーンストアだけでも,11万6千本にのぼる。)

バーバラ・ペイン 赤十字オフィスにて
バーバラ・ペイン 赤十字オフィスにて

赤十字イライナイ・プレイリィチャプターのバーバラ・ペインは,この町でも,たくさんの人が,ボランティア活動をしたと言う。9月11日の同時テロ直後から,「何かできないか」という電話は絶えず,ボランティア希望者のリストは瞬く間に膨らんだ。だから,その当日,アメリカが全空港を閉鎖し,地元の空港から「政府の命令で航空機が12機ほど,シャンペイン空港に非常着陸させられる可能性がある為,2千人から3千人の乗客の世話が必要になるかもしれない」という電話があった時も,すぐに準備をすることができた。乗客の精神的な世話をする準備も含めて。また,必要に応じてニューヨークに飛ぶことのできるボランティアもたくさん待機していた。(ちなみに,9月11日から14日の間に集まった義援金は,この町だけでも,30万ドルにのぼるという。)


パット・コーバー 血液バンクの献血室にて
パット・コーバー 血液バンクの献血室にて

シャンペインの血液バンクのパット・コーバーは,テロの後,献血をしたいと言ってくる人が絶えなかったと言う。必要がないと言うと,血を採れ,とどなりつける人までいた。パットの話によると,テロの起こった時点で,ニューヨークの赤十字には被害者への充分な血液があったらしい。というのは,被害者のほとんどが,既に息絶えていたため,生き延びて輸血を必要としていた被害者というのは,そう多くはなかったのである。

しかし,テレビやラジオが誤って献血を呼びかけ続けていた為,何万人もの人が各都市の赤十字で必要のない献血の列をつくった。その結果,数週間後にたくさんの血液が捨てられることになるとも知らずに。


誤った報道は,献血のことだけではない。同時テロが起こってまもなく,米国のテレビが,何人ものパレスチナ人が喜んでいる姿を放映した。私も見た。信じられなかった。「パレスチナ人は,悪魔だ」とも言わせるようなこの映像は,後に写真となって,「同時テロのニュースに歓喜するパレスチナ難民キャンプの若者達」というキャプションを入れるなどして,各雑誌〔日本の雑誌も含む〕に載ることになる。しかし,この映像は,今回のテロとは全く関係のないものだというEメールがその後飛び交った。「同時テロが起こったニューヨーク時間午前9時,パレスチナは,夕方の5時だった。ツインタワーが崩壊したのが,パレスチナ時間の夕方6時過ぎ。そのニュースがパレスチナ難民キャンプに伝わるまでにも,少し時間はかかったはずだ。すなわち,パレスチナ難民キャンプはもう暗くなっていたはずだ。それなのに,テレビはパレスチナで真昼間に撮影された映像を,いかにも同時テロが起こった直後のパレスチナ人の反応として流したのではないか。世界各国にメディアを通して。これは単なる誤りだったとは考えられない。報道における何らかの作為的コントロールが裏で行われていたのではないか。」もうひとつのEメールは,「パレスチナ人のこの映像は以前見たことがある。今回のテロとは関係ないはずだ。」というものである。私のところへもこのメールは報道専攻の友人から届いたし,また大学の数人の友人も受信した。

*   *   *

「9月11日から私は変わった。」という人は多い。ハーバード大学を卒業後,ロスで外科医をしている友達のグレースは,2週間仕事を休んでニューヨークへ飛んだ。ボランティアの医者が不足していたのではない。ロスでじっとしていられなかったのだ。マンハッタンに着いて,何人ものそういう人に出会った。そして,一体となってボランティア活動を行った。ハリウッドでコンピュータアニメーションの仕事をしている友達のダッグも,同時テロによって目覚めたと言う。「もっと意味のある生き方をしたい」と,1週間仕事を休み,これからの自分をみつけるために旅に出た。

歴史的な,あるいは,自分の身近に大きな事件が起こると,その事件と自分を対峙させ,傍観者にならず,「自分はどうあるべきか」を絶えず自分に問いかける。―そういう姿勢は私の出会った沢山のアメリカ人に共通していた。こういった自立意識こそ,個人主義の根源であろうか。

*   *   *

これから自分はどうあるべきなのか。これから世界はどうなって行くのか。私も病院の一室で,そんな事を考えていた。といっても,一時は危篤状態に陥っていたのでそれどころではなかったのだが。PTSDから脳炎を併発していたのだ。ショックによる心身のバランスの崩れから,はしかの抗体が弱まった為,はしかのウィルスが脳髄に入ったのが原因だった。母も日本から駆けつけた。PTSDが,こんなに重病となり得るとは考えてもいなかった。

米国同時多発テロの犠牲者は7千人と言われるが,このテロによるPTSD患者は,その約100倍に上るという。そして,その患者は,世界中にいるのだ。このことからも,今回のテロを単にアメリカの問題として捉えるのではなく,全人類の問題として,テロ撲滅に取り組むべきだと思う。

2001年9月11日。世界貿易センタービルの崩壊によって,KCGニューヨークオフィスは消滅した。しかし,その業務データは全て保全されている。また,「KCGニューヨーク」は,KCGニューヨークチームがいる限り,健在である。これからも,更なる発展を期すべく努力したいと思う。

同時多発テロで生命を失った人々のご冥福と,負傷した生存者,また,PTSDで苦しむ人達の一日も早い回復を祈って―。

ツインタワーズ
ツインタワーズ Photo by Yu Johnson
ユウ・ジョンソン Yu Johnson

MIT卒業(B.S.)。

ハーバード大学教育学部大学院教育学修士(M.Ed.)。

南カリフォルニア大学映画学部大学院芸術学修士(M.FA.)。

ガーナ文部大臣賞,タイ王国教育省次官賞受賞(2回)。

KCG/IDCEのCo-Founder。

イリノイ大学客員研究員。

京都コンピュータ学院ニューヨークオフィス チーフマネージャー。


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上記の肩書・経歴等はアキューム11号発刊当時のものです。