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Accumu Vol.22-23

初代学院長の思い出

50年の発展を支えたもの

7月2日は,京都コンピュータ学院創立者 長谷川繁雄の命日にあたる閑堂忌です。

特に本年は,創立50周年の記念の年です。

そこで本日は,「京都コンピュータ学院50年の発展を支えたもの」というテーマで,

学院建学時およびその後の学院の発展の中で,創立者の精神・思想がどのように発揚され,

結実されていったかということを,教育的意義の観点でお話しいたします。

A 日本初のコンピュータ技術者養成へ向けて

A-1 コンピュータ教育黎明期・日本初の講習会実施(1963年〜1968年)

私共創立者(私と長谷川繁雄)がコンピュータ教育を講習会の形で日本で初めて立ち上げたのは,1963年でした。当時はどのような時代であったか,その時代背景をコンピュータに特化して列記してみましょう。

  • コンパイラ言語の通る国産機は,一台も開発されていなかった(機械語処理マシーンが数台あるのみ)
  • 書店でもコンピュータ利用の関連図書が見当たらなかった
  • 「情報処理技術教育」という教育上のカテゴリーはなかった
    • 大学に情報系の学部・学科は設置されていなかった
    • コンピュータ利用に関連する講座もなかった
    • 情報処理技術教育に特化する専門学校も皆無
  • 1965年 国産大型第一号機登場

このような時代背景の下,私共はコンピュータ教育の振興と普及のいち早い実現を求めて文部省(当時)に提言しました。

そのときの文部省の見解は〝コンピュータは道具だから,研究者が自らの研究に必要なとき,たとえば大学院において勉強し,またビジネスマンは,企業の最先端ビジネスでコンピュータを使用するとき,企業内で勉強したらよい。コンピュータの技術教育は文部省としては取り上げる必要なし〞というものでした。〝私共二人で学校をつくるしかない〞二人の決意が固まったのです。

A-2 京都コンピュータ学院創立

私共創立者は,来るべき情報化社会を予見し,社会のニーズを先取りして,高校卒業者を対象にした日本最初の〝コンピュータ技術者〞育成のための専門学校「京都コンピュータ学院」の創立に着手し,次の建学の理念を掲げました。

―建学の理念―

時代を拓き,明日を担う情報処理技術者の育成

創立者長谷川繁雄を特徴づける精神としては,彼が自己形成期より涵養してきた本物志向精神と改革精神がまず挙げられます。さらに彼は,何事にも妥協しない純粋できびしい魂を持っていました。同時に,非常に温かい教育者的人間愛を有していました。また,コンピュータを単に道具として見ずに〝文化として認識〞する卓見を有していました。長谷川繁雄は若き日,芸術家を志し,また長谷川靖子は若き日,科学研究者を志しました。このような二人は,人生において「創造」に大きな価値を認めていました。教育実践において何よりも創造性の育成を重視しました。

これら創立者のアイデンティティは,建学の理念の実現のため,発揚され,その後の学院発展の柱となりました。

B 創立者の本物志向精神

B-1 カリキュラム―理論と技術の一体教育

従来,わが国では学問と技術を対立概念として捉え,〝大学は学問するところ〞,〝専門学校は技術を習得するところ〞という社会通念が定着していました。コンピュータ時代到来とともに,コンピュータ系専門学校が次々に誕生していきましたが,いずれも職業技術訓練校としての域を出ず,技術は理論を知らずとも訓練によって身につき,それが即戦力となるという考え方に基づく教育システムでした。このような考え方で教育を受けた若者たちは,その後,急激なコンピュータの進化に対応できず,ほとんどが技術者としては使い捨てられていったのです。

一方,本学における創立者の本物志向精神の表れとしての〝理論・技術の一体教育〞は技術応用力・技術更新力の養成に至るものであり,その後,到来したコンピュータの急速な進化に適応できる本物の技術力の養成となり,業界からも高い評価を獲得しました。

次に,創立者の本物志向精神の表れとしての設備に言及します。

B-2 設備―最新鋭のコンピュータの設置を優先

私共には,土地を購入する資金はありませんでしたので,まず土地を借り,元借地人が使用していたオフィスを改良してそこにTOSBAC-3400を設置,残る空地に,日曜大工に依頼して,バラックの教室を建てました。私共も,机や椅子のニス塗りや天井のベニヤ貼りに参加し,まさに手作りの校舎として教室を完成させたのです。

他校では,まず校舎の建築を優先し,コンピュータは他企業のセンターを時間借りで使用するというのが一般的でした。

しかし,何よりも高水準の機械を自己所有し,学生に自由に使用させるという点を優先させたところに,創立者の本物志向精神が顕著に表れています。

C 創立者の教育観

C-1 教育による学生の能力向上の無限性を信頼

創立当時,コンピュータ応用技術の分野は,新しい領域でした。従来存在しなかった新しいカテゴリーの専門教育を通して未知のフィールドの先駆的プロフェッショナルを養成し,彼らに輝かしい未来を与えてやることは,創立者の夢でした。学校づくりの根底に創立者の人間愛の情熱がたぎっていたのです。

創立者は,優秀な学生に対しては,更なる能力の向上を意図し,偏差値教育で低い評価を受けてきた学生に対しては,偏差値教育による能力評価を無視し,学生の潜在能力を信じ,その能力の開発・向上を意図しました。

知識の伝授・吸収,技術の習得というカリキュラム教育に終始するのではなく,学生に夢を与え,向上心を刺激し,自ら学ぶ心を育て,学生の能力の開発・向上の増幅を願いました。

①教科書・参考書の選定

学生の力をはるかに超える定評ある専門書を与えました。在学中のみならず,卒業後も学び続けるのに役立つと考えたのです。消化不良を容認しつつ,いつかは内容すべてをマスターしようという意欲を育てることに留意しました。

②時代を代表する最高水準のコンピュータシステムを設置・開放

1970年代初頭の洛北校
1970年代初頭の洛北校

70年代,コンピュータ系の他校では,単価×数量=価格というようなコンピュータ処理技法を教え,そのような処理に見合う機械で実習するのが通常でしたが,本学院では,宇宙ロケットの計算ができるような高度システムの機械を学生に提供したのです。

これは技術者を志す学生に対する「夢」の提供でした。いつかはこの最高設備を自由に駆使しようという意欲が学生の内部に育ったでしょう。学生に夢と刺激,問題意識と時代センス,さらに,このような最先端システムの技術者を目指して学ぶという誇りを与えたのです。これらは,明日の力を生み出すポテンシャルとして,学生の内部に蓄えられたのです。

真の教育は,いま教えた知識だけを吸収させるという次元のものでなく,卒業後の学生の人生を輝かせていく火種を学生の内部に投じることにこそ,大きな意義を持つものなのです。

C-2 創造性育成の重視
超大型コンピュータ設置を記念して教職員と
超大型コンピュータ設置を記念して教職員と

ソフトウェア開発は創造作業であるため,創造性育成を重視しました。「創造性」は一般に考えられているような先天的なものではなく,教育環境の配慮によって育成可能です。次の①〜③は,この創造性育成を重視した教育方針です。

①機械設備の自由開放・自由実習

どの大学でもコンピュータ使用は研究用に限定(指導教員名,研究課題名の申請が必要)されていた時代,計算機センターを真夜中まで学生に開放し,自由課題において自由に使用させました。「問題発見・問題解決」重視のプラグマティズム教育の一環であり,またこの自由実習は創造性育成に大きく貢献しました。

ちなみに,日本の大学では計算機センターは午後5時にクローズしますが,アメリカでは計算機センターと図書館は夜通し学生に開放されています。施設を利用する学生が一人でもいる限りオープンすべき,という民主主義社会の教育が,こういうところにも反映されています。本学院もその方針を採用しました。

②パソコン時代黎明期:一人一台所有

創立20周年記念としてパソコン3000台を特注,一人一台無料貸出制度を実施しました。

この実践に関しては,京都大学の情報系の先生から,大学ではパソコンを3台か4台研究室に入れるだけでも文部省との交渉に1年はかかる。どうして専門学校が3000台も一度に特注できるのか,瞠目すべき現象だと言われました。半年後に,カーネギーメロン大学が情報系の学生に対して一人一台所有させることにしたというメディアの報道がありましたが,私共が入手し得た資料上では,私共の企画実践は世界初のことでした。

大型機導入とともに実現された,自ら学ぶ自由実習の環境を,学生一人ひとりの身近に拡張し,自ら学ぶ環境の設定により,一層の実力養成とともに,創造性の育成を図ろうという,こういうフィロソフィーが創立者の中にあったわけです。

③創造性育成のための感性教育

創立20周年を記念して,音楽会や絵画展,古典芸能などの鑑賞をカリキュラムの中に組み入れました。科学と芸術は創造という点においては同根であり,イメージの豊かさによるひらめき,鋭い直観力は創造の母胎です。「創造性の育成に感性涵養は必須」というのがフィロソフィーです。

アインシュタインは「自然は美なり,自然を記述する方程式もまた,美なり」と述べ,美的感性を非常に大事にしました。実際,アインシュタイン自身はバイオリンの名手でした。そして,自分の美的感性が後の相対性理論の発見につながったと述懐しています。日本のノーベル賞受賞者の多くは,クラシック音楽愛好家です。〝音楽・芸術鑑賞によって自分の中の感性が磨かれる。その感性がある問題を研究・追究しているとき,あるいはまたある技術を開発しようと悩んでいるとき,直感的なひらめきとして出てきて,新しい研究開発のヒントを与える。〞そういうことは確かに真理発見の歴史の真実として,語り伝えられています。本学院においても感性教育を必修科目に入れた次第です。

D 創立者の教育改革精神

川上第三中学校の生徒たちと
川上第三中学校の生徒たちと
D-1 中学教育における創立者の体験

創立者長谷川繁雄は,大学卒業後,吉野の僻地の中学校に教員として赴任。その時の中学校の現状は,次のごときものでした。

――一般に,日本の中学校では,各教科を教え学ばせることに終始し,人間教育はなおざりにされている。中学時代は各生徒にとってその後の人生にかかわる自己形成期であるにもかかわらず,最も重要な人生観形成,自我確立の指導がなされていない。

また,単に記憶力のテストにすぎない成績評価で各生徒の能力を決めつけ,潜在能力を認めず,生徒の能力向上へのチャレンジの意欲を失わせている。

さらに,学校での態度が悪い生徒に対しては,能力だけでなく人間性まで否定する。常時,学習態度の悪い生徒たちは「不良」と決めつけられ,教師たちはことあるごとに暴力で対応し,他の生徒たちは常に「不良」を白眼視し疎外していた。――

このような教育の現場で,創立者は,人間教育の重要性を主張し,自分の担任クラスで独自の教育を実施しました。他の教師たちは文部省のカリキュラムしか頭になく,激しい対立となりました。信念を貫くにはあまりに壁が厚く,彼は退職し,自ら開設した和歌山での私塾で自分の信念に基づいた教育を展開し始めたのです。

それは,高校生に対する学習塾でしたが,彼が意図したのは,松下村塾の現代版でした。英語・数学の教科を教えつつ,人間教育に意を払い「生きることの意味の追求」や「理想の鼓吹」を忘れませんでした。

和歌山の私塾(和文研セミナー)は後に京都にも私塾を開設。京都の進学予備校とは一線を画し,ユニークな塾として発展していきました。

D-2 学歴偏重の社会に反発―ブレイクスルーとしての情報教育創造へ

時が経ち,コンピュータ黎明期の到来です。1963年,私,創立者長谷川靖子は自らの宇宙物理学研究の過程で,いち早く習得したコンピュータ利用技術を後進者に提供すべく,京都の私塾でわが国最初のコンピュータ利用講習会をスタートしました。コンピュータ幕開けに伴う熱気と,奔流のごときコンピュータ利用の潮流のただ中で,情報化社会の到来を予見した長谷川繁雄は,私・靖子の活動に加わり,二人で協力して,従来の教育カテゴリーとは別の新しい教育カテゴリーとして〝ソフトウェア技術者育成〞の学校新設に着手しました。

情報化時代の幕開けに伴う時代的・社会的要請に応えた教育革命としての学校開校でしたが,そこに創立者自らの教育改革精神を吹き込みました。かねてから,高卒者が大卒者に比べ不当な差別を受けている学歴偏重主義に義憤を感じていた創立者は,自ら創設した学校教育で学歴偏重主義社会のブレイクスルーを考えたのでした。

次に,学校創立においてどのように教育改革のソリューションを考えていったかについて述べます。

D-3 専門学校教育改革へ向けて

ヨーロッパでは,ギリシャ以来のアカデミズムが大学の主流でした。一方,技術は学問とは別個に,親方制度による職業技術の訓練という流れの中で育ちました。この二つの流れが,ヨーロッパでは二つの社会階級にそれぞれ支えられ,共存してきました。技術と学問を教育上の対立概念として二元論的に捉えるヨーロッパの思潮は,明治以来,急速に近代化を進める日本に輸入され,日本教育界でこの二つの流れは矛盾なく共存してきたのです。

日本の専門学校は,職業技術訓練の流れを受け止めました。コンピュータが発明されるや,各専門学校は従来と同じ教育方法で取り組もうとし,結果,職業技術訓練という次元のテクニックを受けた学生たちは,その後の急速なコンピュータの進化に対応できず,「技術の即戦力はすぐ役に立たなくなる」という新たな現実に直面せざるを得なくなったのです。

コンピュータ技術の勉強には,学問的理論の裏づけが必要でした。創立者二人の改革精神は〝専門学校は技術を訓練するところ〞〝大学は学問を学ぶところ〞という社会通念を打破し,単なるテクニックに終わらない理論に裏づけられたテクノロジー教育を専門学校教育に求めたのです。

UNIVAC 1106 TSS 導入(1979年)
UNIVAC 1106 TSS 導入(1979年)
D-4 プラグマティズムに高等教育の生命力を求めて

第二次世界大戦後,大学が雨後の筍のごとく新設され,600を超える大学が乱立しました。新設大学は研究大学を退職された教授たちを率先して迎えたため,大学すなわちアカデミズムという観念がそのまま移植・伝播され,また文部省はそれを容認しました。

戦時中,大学での研究が軍の従属下にされたことへの反発から「学問の自由」を尊ぶあまり,〝大学は学問の真理探究それ自体を目的とし,業界に従属するものではない〞という観念が,戦後長い期間にわたって大学人の間に存在しました。「業界に役立つ人材育成」という大学教育の側面は軽んじられました。

全国600有余の大学の卒業生の大半は,業界へ進出する学生であったにもかかわらず,アカデミズムのカラー一色に塗りつぶされていたわけですから,数多くの大学に似非アカデミズムが氾濫し,大学教育の空洞化が結果します。業界へ巣立つ予定の学生たちは,大学での勉強に興味を失い,大学は次々とレジャーランド化していきました。

創立者二人は,大学が機能不全に陥っている実態を見抜き,早急に改善すべきと考えました。そして,「業界に役立つ人材育成」は,アメリカで顕著なプラグマティズム思想において達成されると考えました。プラグマティズムにおいては〝真理のための真理研究〞は否定され,〝実用のための学問〞が重視されます。学問と技術は対立するものでなく統一的に捉えられ,ともに大学の内容となります。

「学問・技術・実用」を統一的にとらえるプラグマティズム思想が浸透しているアメリカは,世界のコンピュータ界の独壇場となりました。ヨーロッパが著しく立ち遅れたのは,学問と技術を二元論的に捉え,二つの流れを社会体制的に維持して来た伝統にその要因があったのでしょう。

学問と技術を一本化し,実用を目的として学ぶべきコンピュータ教育にとって,プラグマティズムはふさわしい教育哲学でした。

創立者二人は業界に役立つ人材育成を目標とし,そのための教育哲学としてはプラグマティズムを掲げて過去のマンネリ化した高等教育に生命を与えようと志しました。

コンピュータ時代に入って,従来の教育システムでは対応しきれなかった専門学校のジレンマ,業界に役立つ人材育成に関して機能不全に陥ってしまった大学のジレンマ,これら双方の持つ矛盾は,ベースとするフィロソフィーにあったのです。プラグマティズム思想に基づく教育実践は,そのソリューションを与えるものでした。

2003年,専門職大学院が法制化されたとき,IT系の専門職大学院の申請・認可は本学のみでした。他大学のいくつかは,申請半ばで脱落しました。学問・技術・実用を一体化して取り入れる職業専門教育のアイデンティティと経験がなかったからです。IT専門職大学院(京都情報大学院大学)の設立は,日本高等教育に対するアンチテーゼであり,ここに創立者二人の教育改革精神の系譜があることを忘れてはなりません。

E 創立者のコンピュータに対するコンセプト―文化としてのコンピュータの認識

次に,文化としてのコンピュータの認識に言及します。

創立者はコンピュータ黎明期において,文明論的見地から,情報化時代の到来とソフトウェア技術者に対する社会ニーズを予見しました。

長谷川繁雄自身は文科系の出身です。私は理科の人間ですから,コンピュータを使用し始めた頃は,コンピュータの機械の性能にこだわり,利用技術の開発に熱中していました。一方,彼はコンピュータを使わない側,いわば〝蚊帳の外〞で,文科系的な目でコンピュータのすごさに目を見張り,未来を直感したわけです。

コンピュータの文化的側面を評価し,コンピュータによる文化変容の可能性を洞察しました。メインフレームの時代は,コンピュータが文化を変えることに関しては,私共は確信がなかったのですが,パソコンの登場を機に,パソコン浸透による生活構造,世界構造の変容を確信しました。一人一台パソコン所有の可能性は,まさに生活革命の到来を暗示するものでした。当然,万人に対するコンピュータ・リテラシー教育が要請されます。パソコン利用の裾野の広がりを情報化社会繁栄の緊急課題と考え,その役割をパイオニアのミッションと受け止めました。

80年代半ば頃,まだ日本国内においても国際社会においても,アメリカを除き,コンピュータ・リテラシー教育の必要性・必然性は認知されていませんでした。

私たち学院が,時代を先取りして,この教育の必要性・必然性を認めたのは,私たち学院の念頭に常に〝文化としてのコンピュータの認識〞があったからです。

E-1 コンピュータ・リテラシー教育の実践の試み―日本国内で

1983年,パソコン時代到来に呼応して,学生に一人一台提供すべく東芝に特注した3000台のパソコンは8ビット構成であり,その後数年で16ビットが登場しました。1988年には,不使用になったパソコン3000台が学院倉庫に眠っていました。モデルは古くなりましたが,教育には十分役立つものでしたので,これら使用済みのパソコンを利用して,コンピュータ・リテラシー教育の展開を図りました。しかし,日本国内では受け入れられませんでした。

当時,日本社会には,まだコンピュータ・リテラシーの必要性の認識が浸透していませんでしたが,私共は,京都のいくつかの高校に,高校でのコンピュータ・リテラシー教育のためのパソコン寄贈を提案しました。しかし,教える人間がいないという理由で断られました。日本の社会では一般的に,上部組織から命じられない限り新しいことへ積極的にチャレンジしないで,楽なマンネリズムを選ぶのが通常です。何よりも,日常業務で多忙を極めていた現実があったのでしょう。というわけで,高校へのパソコン寄贈・利用企画は途絶えてしまいました。

次に,創立者二人は身体障害者の施設にパソコンを寄贈しようと考えました。プログラムを作るのは,在宅で可能だからです。二人で大阪の施設へ出向き,その計画を打診すると,驚いたことに「あんたたちは身障者を学校の宣伝に使うのか」と言われました。この回答はあまりに意外で,開いた口が塞がらない思いでした。

高校でも,身体障害者施設でも,新しい問題提起に対して,あまりにもネガティブな思考で受け止め,その問題の持つポジティブな面を見捨ててしまう。このような態度は日本社会でよく見られる現象ですが,改革の足を掬われた思いでした。

E-2 海外コンピュータ教育支援活動(IDCE)―途上国へ向けて

長谷川繁雄の死後,数年を経て,発展途上国政府との合弁事業として,途上国対象のコンピュータ・リテラシー教育の支援を展開しました。発案は,当時MIT在学中の私の長女,長谷川由であり,彼女が実践のリーダーとなり,彼女の率いるMITグループがその活動に協力しました。

結果,支援対象国で大きな教育改革が実現されたのです。世界に先駆けた途上国に対するコンピュータ・リテラシー教育の実現支援は,世界的に前例を見ないものとして,国際的に高い評価をいただき,各国から数々の賞をいただきましたが,この活動の原点に創立者の思想が存在しています。

もし,私たち学院に,文化としてのコンピュータの認識がなく,コンピュータを単に道具として考えていたならば,モデルが古くなったという理由で3000台のパソコンを廃棄処分していたことでしょう。実際,最初の支援対象に選んだタイでは,先端技術の道具としてしかパソコンを認識せず,「旧型モデルだから海へ捨てたら」と言われたものです。海外コンピュータ教育支援活動(IDCE)は,支援対象国におけるコンピュータ認識の啓蒙活動からスタートせねばならなかったのです。

寄贈パソコンを前にした途上国の学生たちの笑顔と向上の意欲は,私たちに大きな喜びをもたらしました。若い人々を愛し,その才能の開発と向上に何にもました喜びを感じていた創立者長谷川繁雄の教育者魂は,私たち一同の中にも脈打っていたのです。(2013年現在まで,寄贈パソコンは3000台,支援対象国は23ヵ国に達しています。)

次に「コンピュータの文化的認識」のコンセプトのもう一つの結実について述べます。

E-3 コンピュータ博物館設立へ向けて

世界で,コンピュータ開発または利用に関わった先進国においては,実物のコンピュータは,何らかの形で保存されています。アメリカでは,第一号機ENIACは,スミソニアン博物館に収められていますが,コンピュータ博物館に特化しているのは,シリコンバレーにあるコンピュータ博物館が圧巻です。初期の小型機,中期のメインフレーム,その後の超大型機,パソコンを網羅するコンピュータ・ミュージアムとしては,世界最大です。しかし,日本では,学界・業界においても,メインフレームはほとんど残っていません。かつては,ハードウェアでアメリカと並び世界一の技術を謳歌したのに,現在,日本には,コンピュータ博物館はなく,過去の栄光はウェブ上に残されているのみです。

私共の学院には,創立以来の使用済みコンピュータが,KCGコンピュータ資料館に大半保存されています。KCG資料館は,情報処理学会によって,2009年の認定制度発足と同時に,日本国内でコンピュータが最良かつ最多に保存されている資料館として認められ(分散コンピュータ博物館認定),以後現在まで,保存している5機種が,情報処理技術遺産に認定されています。現在,日本唯一のコンピュータ博物館設立へ,KCG資料館が推奨されています。もし本学院が,コンピュータに文化としての認識を持たず,単純に道具として認識していたら,日本の学界・業界のように,道具として役に立たなくなった古いモデルをモデルチェンジごとに廃棄処分していたことでしょう。

創立以来50年の歴史の中で,コンピュータを文化として認識していればこそ,不使用になったコンピュータでも残してきたのです。〝道具としての価値が失われても,文化としての価値は残る〞という考え方は,文化としてコンピュータを認識した創立者の思想の継承です。

最後に

建学の理念が,創立者二人の精神と思想において,どのように実現されていったか,その軌跡を歴史の中に検証しました。私たち創立者は,夫婦でしたが,一方が他方に従って協力するという構図でなく,各自の精神において自立しつつ,その精神をお互いに共有していたのです。

学校づくりの過程で二人に共通の精神・思想が次々と具現化していくにつれ,同志としての強い友情が二人の間に育ち,二人の絆は何物にも代えがたい強固なものとなっていきました。

創立当初より,夫は主として経営・ビジネス面(校舎インフラ,金融,広報など),私は教育・機械設備面(カリキュラム,講師調達,機械導入・拡充など)を統括しました。専門分野の異なる二人の噛み合わせは,学校づくりに最適でした。お互いがお互いにとっての必然的存在になったのです。

夫長谷川繁雄は1986年に他界しました。その後,コンピュータの進化は想像以上に急速で,コンピュータ教育もそれに応じて進化・変容していかねばなりませんでした。

しかし,夫と共に築いた学院の知的基盤は盤石でした。情報処理教育のパイオニアとしてスタートして,その後も,パイオニアとしての情報処理教育創造は,コンピュータの変換の各時期に対応して次々と実現され,学院の知的基盤をベースにしたパイオニア精神は学院アイデンティティとして醸成されていったのです。このアイデンティティこそが,学院50年の発展を支えた柱であったのだと思います。

2003年,IT専門職大学院(No.1&theOnlyOneとして発足)は,京都コンピュータ学院の知的基盤,アイデンティティの上に花咲いたのです。〝砂漠の中にいきなり花は咲かない〞のです。

学校は創立者の人生観・世界観・教育観の結晶です。「学校創立」は,大きな価値の創造です。しかし,学校が真価を発揮するのは,そこから産み出されていく卒業生たちの活躍においてです。卒業生たちが卒業後にどんな人生を歩み,どのような花を咲かせていったか,そこに学校の真価が問われます。

皆さん,在学中は,学問・技術の習得だけに終わらず,皆さんの自己形成のさまざまな因子を,この学院の精神風土の中から吸収していってください。「学院DNA」が皆さんの中に根付き,皆さんの明日の自己実現に開花されていくことで,学校は価値づけられ,価値ある伝統が継承されていくのです。

この著者の他の記事を読む
長谷川 靖子
Yasuko Hasegawa
  • 京都大学理学部宇宙物理学科卒業(女性第1号)
  • 京都大学大学院理学研究科博士課程所定単位修得
  • 宇宙物理学研究におけるコンピュータ利用の第一人者
  • 東京大学大型計算機センター設立時に,テストランに参加
  • 東京大学大型計算機センタープログラム指導員
  • 京都大学工学部計算機センタープログラム指導員
  • 京都ソフトウェア研究会会長
  • 京都学園大学助教授
  • 米国ペンシルバニア州立大学客員科学者
  • タイ・ガーナ・スリランカ・ペルー各国教育省より表彰
  • 2006年,財団法人日本ITU協会より国際協力特別賞受賞
  • 2011年 一般社団法人情報処理学会より感謝状受領。
  • 京都コンピュータ学院学院長

上記の肩書・経歴等はアキューム22-23号発刊当時のものです。