ここに,岩崎直子さんの学校葬にあたり,京都コンピュータ学院を代表し,心から哀悼の意を捧げます。
23年の長きに亘り,共に全日制京都コンピュータ学院の創立と発展に全力を尽くされて来た貴女を,私よりずっと若い貴女を,今ここにこうして,先に見送らねばならないとは,一体誰が予想し得たでしょうか。
かえりみれば23年前,それまでの京都ソフトウェア研究会を京都コンピュータ学院に改称し,我が国で初めて全日制の情報処理専門教育を高卒生に対して実施したまさにその年,1969年に貴女は,京都コンピュータ学院に勤務されたのでした。その時期は,一教室にも満たない学生数でした。その後15年間で6千人の学生数の規模にまで発展させていく学校づくりの過程で,貴女は,未経験の実務に立ち向かい,すばらしい能力とあふれる情熱で,次々と問題を克服,処理されていきました。
情報処理技術者養成の優秀な専門教育機関の創設は,日本において20世紀後半の最大の課題の一つでした。情報化社会の成熟のために情報教育が如何に重要か,いくら強調しても強調し過ぎることはありません。にも拘らず,1960年代に,このことを認識する人はごくわずかでした。
私達は,情報教育のよい学校づくりに時代的社会的意義を認め,その実現を夢みました。しかし,一銭の資本金も持たずに,教育の独立性を尊び,高い情報教育の理念を掲げ,時代先取りのカリキュラムと最新のコンピュータ設備の下で,本物の情報教育の学校を誕生させるということは,まさに「不可能」の一言,考えるだけでも狂気の沙汰,誰もがそう断言してはばからぬ時代でした。
しかし,私達は一つの奇蹟として,その学校を誕生させたのです。
貴女を含めた数人の初期学院スタッフ一同の,学校づくりに賭ける火の玉となった一つの情念が,不可能を可能にし,奇蹟を生んだのでした。
その情念の根幹は,「純粋さ」,「情熱」そして「誇り」と「勇気」でした。
言うまでもなく,これらはそのまま貴女のパーソナリティーでした。そして私達はそのパーソナリティーの同一性において一体となり得たのです。
この情念は,学校精神の核として,次々と教職員達の内部に培養され,ひきつがれ,そしてその後の学院の驚異的発展を必然的ならしめたのです。
たった十数名から6000人の規模の学校へと発展させた真実一路の道程には,確かに多くの苦難が横たわっていました。
しかし貴女は,私達と共に,その道を生きることを自ら選択し,世俗的な幸福よりも,生き甲斐を優先させ,理想に殉ずる喜びを互いに分かち合いました。
貴女はその精神の気高さと,選んだ人生に悔いをもたない自信によって,同世代の幾多の人々よりも,何と美しく,いきいきと輝いていたことでしょう。貴女はその生きる姿勢を通して,生きた教訓を他の教職員達に与えつづけたのでした。
情報教育に歴史的意義を認め,より理想的な学院の発展と,本物の教育の実践に自らの生き甲斐を求める,そういう教職員の純粋培養によって維持される学園-それが京都コンピュータ学院です。
だからこそ,不純な動機によって学院に介入しようとするどんな資本も,どんな組織も,どんな人間も拒絶してきたのです。
23年間,貴女がスタッフの中心となって,自らの人生を投じ,築き上げた学園は,貴女の信念となっていた学院の理念と,その理念の実現に燃えた情念において,他の教職員達にひきつがれ,疑いもなく,京都コンピュータ学院は今後も発展しつづけるでしょう。
貴女の肉体は滅びても,学院の中に埋没させた貴女の生命は,学院と共に生きつづけ不滅です。
岩崎さん
逝去される3日前貴女を病院へ見舞った時,別れの際に私の手を両手で握りしめた貴女の熱い手の感触,死を前に歩み来し人生のすべてを肯定するかの如き満足げな微笑み,最後の別れを無言で告げた貴女のまなざしを,私は生涯忘れることはできないでしょう。優秀な部下というより,むしろ,学校づくりのために一体になって歩んできた貴重な仲間を失った悲しみ,寂しさは言葉では言いつくされません。でもセンチメンタリズムは私達には無縁のもの。
ですから,京都コンピュータ学院の支柱となった貴女の功績と,貴女の生命の永遠さこそを讃えましょう。
岩崎直子さん
あとの学校のことは継承者となった全教職員に委ねて,どうぞ,どうぞ安らかにお眠りください。
1992年12月10日
京都コンピュータ学院
学院長 長谷川靖子
上記の肩書・経歴等はアキューム22-23号発刊当時のものです。