昨年暮れに八瀬大原にお見舞いにお訪ねした時にはお元気なご様子だった萩原宏先生が,2014年1月8日に87歳で逝去されました。ご訃報に接し断腸の思いで一杯です。私が萩原先生に初めてお目にかかったのは,私が1959年に設立されたばかりの京都大学工学部数理工学科の一期生として入学し,2 年間の教養時代を経て1961年4月に学部配属となり,京都大学の本部キャンパスの時計台東側に建設中の数理工学教室の建屋の3階にあった萩原研究室をお訪ねした時でした。萩原先生は京都大学工学部電気工学科をご卒業になり,日本放送協会(NHK)の技術研究所に勤務された後,1957年に設立されたばかりの京都大学工学部数理工学科に赴任してこられて,1961年に一期生を対象に計算機工学講座を開講されたばかりでした。
先生は30歳代の新進気鋭の教授で,当時の数理工学教室では,自動制御(オートメーション)と電子計算機(コンピュータ)が二大テーマでした。私は若い萩原先生に魅力を感じ,萩原研を選択し,コンピュータ技術者を目指すことになりました。数理工学教室は理学部物理学科ご出身で力学の権威である国井修二郎先生が中心となって設立された教室で,応用数学を基礎力とする理論中心の講座が多数を占めていたと思います。先生は学生との新入生歓迎コンパなどにも気さくに参加してくださって,厳しい中にも学生に対し真剣に接してくださいました。また私たちの卒業コンパの席でコンピュータに関する議論でソフトウェアとハードウェアの関係についてお話しになったのですが,先生曰く「それは色即是空,空即是色の関係だなあ〜」とおっしゃって,学生たちを煙に巻かれたことを鮮明に覚えています。そのときすでにマイクロプログラム方式の電子計算機開発の構想があり,プログラム制御で計算機のハードウェアの命令体系を自由に変えられるKT-Pilot の開発構想をお持ちだったのだとその後納得しました。まだファームウェアという概念も言葉もない時代でしたが,先生はすでにコンピュータにおけるソフトとハードを一体のものと考えておられたようで,先生の先見性に後から驚かされた次第です。また,先生は「工学部というところは理論だけではだめよ,物を作って動かしてみて初めて一人前の技術者だよ」と常におっしゃって,学生をこの点では厳しく指導されました。
大学院を卒業した後も,新卒者のリクルートを口実に,度々先生の教室にお邪魔し,いろいろと先生のお世話になったのですが,1999年の3月に35年の会社勤めを終えて無事定年を迎えられたことを報告にご自宅をお訪ねしました。その時,当時京都コンピュータ学院の情報工学研究所長をされていた先生から,京都コンピュータ学院の洛北校に4年制学科ができて,専門学校ながら大学並み以上の内容の授業を行うことになり,君も手伝わないかとお声をかけていただいたのがきっかけで,図らずも第二の人生で京都コンピュータ学院に奉職し,再度先生の下で仕事をさせていただくこととなりました。
当時,京都コンピュータ学院洛北校舎の西側に建っている新学校舎に所長室があり,その隣の小部屋に私の席が置かれたのですが,先生の部屋には立派な漢詩の掛け軸や中国の有名人の書が飾られていて,コンピュータと漢詩の取り合わせに何か関連があるのかなと不思議に思いながら仕事を始めたことを覚えています。先生は洛北校の情報工学科の学生に講義をされる傍ら,京都コンピュータ学院に着任された1995年から,京都駅前校で一般教育科目の一つとして,岩波文庫の『中国名詩選(上)(中)(下)』(松枝茂夫編)3冊をテキストに使用して,三千年にわたる中国漢詩の講義をされていました。私が京都コンピュータ学院に入校し,そろそろ仕事に慣れたかなと思っていた矢先に,先生から同じテキストを読んでみなさいとプレゼントしていただき,多少面食らったことを覚えています。さて読み始めたものの,私の高校生時代の漢文の知識では歯が立たず,しばらく積読(つんどく)を決め込んでいたのですが,またあるとき,「今度妙心寺で初心者向けの漢詩作詩教室があるので行ってみないか」とお誘いがあり,妙心寺の側の花園高校の一室で開かれた初心者講座を受講いたしました。ところが講座を受講しながら,先生の説明通りに作った七言絶句の作品を,講師の先生がずいぶん褒めてくださって,ひょっとすると少しは自分にも才能があるのかなと思わされて,翌月から月1回の日中友好漢詩協会の作詩教室に顔を出すことになりました。後からの雑談の席で,初心者講座では出席した人は全員褒めちぎる習わしだということを先生から聞かされて,一杯喰わされたかと後悔しましたが後の祭りでした。毎月の勉強会には京都コンピュータ学院の大長老の米田貞一郎先生も参加されており,いろいろ教えられるところ大で,毎月1回の七言絶句の添削を受けることが楽しくて,はや十数年が経ちました。先生は京大教授をされていた1980年ごろから漢詩の勉強を始められたとのことで,この時にはすでに20年以上の経験を積まれており,1998年には日中友好漢詩協会の副理事長もなさっておられました。「とても私には漢詩をつくることなどかなわない」と申し上げますと,「漢詩の世界は20年ぐらいではまだまだ中学生程度だよ」とおっしゃったのが印象に残っています。漢詩はそれほど奥が深いのだと知らされた思いでした。
先生が「近体詩には,プログラミングと同じように厳密な規則があり,文法に従って辞書を片手に単語を当てはめていけば,一応作品が出来上がるので,理系の人にも向いているよ」とおっしゃったことに大いに勇気づけられたものです。
先生の授業を振り返りますと,教室では決して大きな声で講義をされなくて,耳をそばだてないと聞き漏らすほどでした。またお話の途中で教壇の上で突然黙り込まれることが時々ありました。どうされたのかとしばらく待機しているとやおら,ここはちょっとおかしいと考えを訥々と話し始められるという具合で,疑問があれば立ち止まってとことん考えることの大切さを,身をもって示されたと思います。拙速をよしとせず,愚直なまでに考え抜く態度を,先生は「愚石」という雅号に込められたのだと思います。
先生は,みずから雅号を篆刻され,書や尺八にもチャレンジされたようです。書では門下生に色紙にご自分の漢詩を揮毫されたり,松ヶ崎のご自宅の近くの高野川を散歩されて,河原で尺八を奏でたり,漢詩を吟じたりされていたと聞いております。
さて,先生の漢詩を数首紹介して先生をお偲びしたいと思います。
まず,1994年4月に発刊された『平安建都千二百年記念漢詩選集』(日中友好漢詩協会発行)に寄稿された作品に次の五言絶句があります。
先生は京都の松ヶ崎にお住まいで,朝夕近くの高野川や賀茂川を散策されたときの景色を詠まれたのでしょう。少し淋しい印象をうけますが,澄み切った秋の月夜の感じがよく出ていると思います。
次に,1998年9月に創刊された『二十世紀亞州漢詩精選』(世界図書出版発行)に寄稿された七言絶句八首からの一首です。中国の古典を愛読された読書人としてのお姿が彷彿とさせられる作品です。
また,恒例の洛北一本松にある中華料理店「蕪庵」で開く年1回の先生を囲む会や,有志による喜寿のお祝いの席などで,ご自身で揮毫された色紙を頂戴することがありました。次はその中の一つです。
集まった門下生7人を竹林の七賢人に擬されたのか分かりませんが,先生の「さあ清談を始めようじゃないか」というお声が聞こえてくるようです。
次に,2003年の夏,先生の喜寿のお祝いの席で頂戴した色紙の作品を紹介します。
先生は門下生の活躍ぶりを大変喜んでおられることがこの作品によく現れています。
同席した面々が大いに恐縮したことを思い出します。私も負けずに先生の喜寿のお祝いの漢詩を作って差し上げました。
先生は京都コンピュータ学院に着任される前の1993年発刊のアキューム5号に,初めて絶句二首を寄稿されており,その後情報工学研究所長として1996・1997年発刊の7・8号から,2006年発刊の16号まで毎年アキュームに漢詩を寄稿されています。
先生は2005年4月に京都情報大学院大学の学長を長谷川利治先生に譲られた後,しばらく松ヶ崎のご自宅で悠悠自適の生活を過ごされていましたが,翌年の夏頃に体調を崩されて,静養のため2007年の春から,高野川の清流が眼下に見下ろせる静かな八瀬大原の山里に転地療養されました。八瀬に隠棲されてからもしばしば先生との清談を楽しみにお訪ねしました。近くには川魚料理を出す「あざみ」という茶店があり,先生は店主ともご懇意で,ご一緒に落ちアユの塩焼きなどを賞味したりして相変わらず先生を煩わしたりしていました。
次の写真はそのときのものです。
先生は古典の漢籍にも造詣が深く,よく学生に対して引用された論語の言葉に「学んで思わざれば則ち罔し。思いて学ばざればすなわち殆うし」という一節があります。この言葉も日ごろの実践を重視された先生のお考えを示されたものと思います。先生からは本当に多くのことを学びました。生涯の師と慕っておりましたのに,あまりに突然に黄泉へ旅立たれてしまわれました。断腸の思い断ちがたく,痛恨の極みであります。ここに先生の多年にわたる学恩に感謝し,拙い私の一篇の詩を賦し,衷心より先生のご冥福をお祈りし,追悼いたします。
合掌