市井では「電子化」という言葉が叫ばれるようになって久しい。ネット決済により,近い将来にはキャッシュ・レスの時代が到来しようとしている。日用品であっても,ネットで注文すれば,数日以内で自宅まで配達してくれる。実に便利な時代になったものである。
このような「電子化」の潮流は,書籍の世界にも押し寄せている。『広辞苑』という日本を代表する国語辞典があるが,筆者の世代だと,中学入学の際に両親からプレゼントされたことを今もはっきりと覚えている。先日,出張先で目にした『東京新聞』の記事によると,その『広辞苑』も2018年1月には,第七版の改訂版が出版される予定だという1。続く記事では,奇しくも「紙の辞書」離れ,換言すると「電子化」の影響を受け,出版部数が版を重ねるごとに減少傾向にあるともいう。現代風に言えば,親は子の進学祝いに電子辞書でも贈るのだろうか。それとも携帯のアプリケーションの充実により,子どもに辞書を贈ること自体がなくなってしまったのか。
余談ではあるが,筆者はかつて電子辞書やネット辞書の類にはいささか否定的な見方であった。数年前までは「紙の辞書」を多用していたが,最近ではこの利便性には脱帽である。机の横に置かれた「(大部な)紙の辞書」は出番を今かと待ち構えているが,つい易きに流れてしまう。
このように筆者はまだアナログから抜け出せていない。むしろアナログにどっぷりと浸かりきっているというほうが正しいかもしれない。これも昨今の「電子化」に逆行するようであるが,私には「古本屋(古本市)めぐり」という一風変わった趣味がある。大学院時代,筆者は上京するたびに,神田神保町や早稲田古書店街で半日,甚だしきに至っては一日もの時間を費やす始末であった。これには周囲の人々はもはや呆れ顔であったが,個人的には上京時の密かな楽しみでもあった。おかげで拙宅の至る所は本の山で,引っ越しのたびに悩みの種となっている。これはもしかしたら大学院時代の指導教員の影響かもしれない。その古本業界も「電子化」をまともに受けているというのは,言い過ぎではないだろう。現在では様々な古本サイト2が存在し,わざわざ店頭まで足を運ばなくても,クリック・ボタンひとつで購入が可能な時代となっている。
前置きが長くなってしまったが,中国文学を専攻していた筆者は,大学院時代在籍中は郭沫若(1892~1978)を主たる研究対象としていた3。参考までに,郭沫若は中国現代文学,とりわけ詩歌における先駆者4であり,歴史学でも同じように称されることがある。また,政治の世界では,中華人民共和国建国当時(1949年)の副総理であり,その後は中国科学院院長や中華全国文学芸術界聯合会主席,全国人民代表会常務委員会副委員長,中日友好協会名誉会長等の要職を務めた5。なお,彼と日本との関係では,以下の三段階に区分できる。
かつて筆者は「訪日期」の郭沫若に焦点を当て,主に当時の彼が書き残した詩文を中心に研究をしてきた。今回取り上げる『沫若詩詞選』(人民文学出版社,1977年)は,その延長線で古本サイトから購入したものかと思われる。
ただ,筆者には元来,日記を記したり,手帳にスケジュールを書いたりする習慣がない。そのため,何のために同書を購入したか定かではない。おそらく論文執筆か,研究発表のためではなかっただろうか。当時の領収書も残っていなく,購入したのは七~八年前であったとだけ記憶している。それがいくらだったのか鮮明ではないが,所詮ポケット・マネーだから,また相場から考えても,高くても数千円といったところであろう。
前述のとおり,古本業界にも確実に「電子化」の波は押し寄せている。庶民の書籍離れや活字離れにより,業界も同じような煽りを受けているに違いない。筆者は古本サイトを利用して『沫若詩詞選』を購入したわけであるが,ネットで書籍を注文する場合,その書籍の状態,とりわけ装幀がどうなのか,線引きはないか等の情報は,店舗側(出品者)のコメントを信じるよりほかない。これは通信販売の最大の盲点であり,他の商品を購入する際にも同様のことが言えよう。
筆者は同書を購入した際,特にコメントもなかったので,現物が届くや否や,何気なくパッケージを開いた。すると,驚愕の事実に遭遇したのである。見返しの部分に「西園寺公一先生/恵存 郭沫若/一九七七,十一,九/北京10」(右上手前の写真)と毛筆による署名があった。これはかの郭沫若本人によるものか,コピーではないか,何度も自問自答をした。一般の人はこの署名を見てどのように思うかは別として,当時郭沫若を研究対象としていた筆者は,驚きを禁じ得なかった。
郭沫若といえば,前述の如く文学者や歴史家,政治家の他に,能書家という肩書きもある11。「郭体」と称せられる独特の書体は,筆者自身も書道を嗜んでいるため至極魅力を感ずる。また,その書風は時として豪快であり,それゆえ,かつて筆者はその解読の難解さに手を焼いたこともある12。しかし,今回購入した古本の見返しにある郭沫若本人と思しき人の署名には,往年の「郭体」を彷彿とさせる覇気は全く感じられず,逆に弱々しささえ漂うものであった。
悲しいかな,人は老いとともに,体力や気力がともに徐々に衰えていくものである。『沫若詩詞選』が出版されたのは,1977年9月のことである。郭沫若は同書が出版された翌年の6月12日に85年に及ぶ生涯に終止符を打っている。つまり,『沫若詩詞選』こそが彼自身による最後の出版物,そしてそこに記された署名こそが彼の最晩年のもののひとつなのである。
ここで,郭沫若が自書である『沫若詩詞選』を贈った相手である西園寺公一(1906~93)の事跡13も見ていきたい。彼は元老 西園寺公望の孫で,政治家や実業家といった肩書きを有する。1954年には落選したものの,京都市長選に立候補している。
1958年には一家をあげて中国大陸に渡り,1970年まで北京に滞在している。その頃の中国と言えば,新中国(中華人民共和国)成立から10年も満たない時期で,百花斉放・百家争鳴14や反右派闘争15に続き,大躍進運動16や文化大革命17といった国家の行く末を左右する重要な事象が次々に起きていた,まさに激動の時代であった。彼はその1コマ1コマを目の当たりにしたことになる。北京滞在中,彼はアジア太平洋地域平和会議副秘書長の身分であり,日本と中国両国の民間外交にも寄与し,中国共産党から当時としては破格の待遇で給料も受け取り,毛沢東や周恩来をはじめとした多くの要人とのつながりもあった。彼と中国の関係に関しては,周恩来夫人の鄧穎超が後に以下のように語っている18。
先生[西園寺公一—筆者注]は中国に対し真摯な感情を持っておられました。1953年,新中国が誕生してまもなく,モスクワを経由して中国を訪れました。1958年,先生はまた,度重なる障害を乗り越え,毅然として一家を連れて北京に定住されました。1970年,中国国内の事情により,先生は中国を離れ日本へ帰られました。(中略)西園寺先生が北京におられる12年余,ちょうど中日両国の関係は険悪な状態にあり,中日関係の正常化を実現するために,先生は寝食を忘れ,日夜たゆむことなく中日両国の民間レベルでの友好交流の仕事を多くなされました。(中略)その間,周恩来同志とわたしは,時々彼[西園寺公一—筆者注]にお会いすることができ,彼の卓越した見識,高潔なる人格と勇往邁進の気概に,深く感動させられました。先生と,陳毅,郭沫若,廖承志同志らとの間の深い友情も美談となり,中日両国民の間に広く伝えられています。西園寺先生は,戦後の中日関係が発展する証人として中国人民から敬愛されています。先生が中日友好関係を促進するためになされた大きな功績に対しては,中国人民は永久に銘記しています。
以上のことから,西園寺公一の北京滞在中,公人 郭沫若との間には一定程度のつながりがあったことがわかる19。それ以上に,郭沫若が西園寺公一に最晩年の著書を贈っていることから,かつての北京における私人としての両者の交友の一端も垣間見える。鄧穎超の言葉を借りるなら,これぞまさしく両者をめぐる「美談」であり,郭沫若は生涯にわたり日本人との交友を重視していたと言ってもよいだろう。
話は再度,冒頭の「電子化」に戻るが,現在はメールの時代になり,以前に比べ,手紙(ましてや手書きによる書簡)を書くことは少なくなった。メールが主流ではなかった十数年前は,手紙や電話,電報といったものが一般的であったことは記憶に新しい。それより前になると,手紙,場合によったら口承となるのだろうか。中国文学を志していた筆者は,つい古代の文人に思いを馳せてしまう。現在のように通信技術が発展しなかった当時において,人々のコミュニケーション・ツールは専ら書簡で,詩歌を応酬し合うという形式も稀ではなかった20。もしかしたら,そのようなやり取りができた人物こそ,真の文人だったのかもしれない。
またも脇道にそれてしまったが,郭沫若や西園寺公一の時代についても,両者のコミュニケーション・ツールには専ら書簡が使われていたはずである。本稿はやや概略的なものになってしまったが,両者の交友の一端に関しては,稿を改めて考察していきたい。
昨今の郭沫若研究の成果により,日本における彼の活動の一端が明らかにされつつある。しかし,彼とつながりがあった日本人との交友を改めて精査することにより,従来明らかにされていなかったもの,ひいては通行している『郭沫若年譜』には記載がなかった新たな事実が解明されると考えている。これらは往々にして,公人としてではなく,私人としての郭沫若の側面を浮かび上がらせる重要なものになると考えてよいだろう。
(2017年10月31日脱稿)