パリで開かれた数学の国際会議で,ソ連数学界の大御所ポントリャーギン(1)がおこなった最適制御理論の講演に対し,反戦運動家としても知られる,フランスの数学者グロタンディーク(2)が
「あなたの理論は,戦争に利用されるのではないか」
となじった。これに答えて,ポントリャーギンいわく,
「戦争は非線形なので,わたしの線形理論は役にたたない」
立命館大学の学生のころ,京都大学から来ておられた森毅先生にうかがった話である。20年ほど前のことで,このとおりの内容であったかどうか自信がない。そのときには,まだ,非線形なるものが何か,よく知らなかった。
素粒子論にも,非線形スピノル方程式というのがある。ハイゼンベルグ(3)が統一場理論の出発点にしたのがそれである。しかし,私どもを指導しておられた江夏弘先生は,「ハイゼンベルクは間違っている。基本方程式が非線形であるはずがない」と,この理論をきっぱり否定しておられたし,おそろしく難しそうでもあったので,あえて勉強する気も起こらなかった。ただ,当時の風潮であったのかも知れないが,なんとなく,「非」とか「反」とかのついた言葉に,漠然とした魅力を感じていたように思う。
線形と非線形とは,どこが違うか。まっすぐなものが線形で,曲がったものが非線形である。数学で言うと,直線や平面は一次方程式で表すことができることから,一次方程式で表すことができるものは,すべて,線形であるという。線形代数の美しさは,単純さにある。それはまた,すっきりとして明快である。
ところが,この世の中は,曲がりくねったもの,ねじくれたもの,歪んだもの,不透明でややこしく,わかりにくいもので満ちみちている。これらを,ひとことで表す数学の言葉が,非線形である。われわれが日常生活している世界は,したがって,非線形であることがほとんどである。
世のなかで非線形なのは「もの」だけでない。「こと」も非線形であるほうが多い。「こと」のなりゆきが予想外に展開して,なかなかつかめないのは,そのためであろう。ポントリャーギンは,戦争という「こと」が非線形であると言ったのだ。「もの」と「こと」をいっしよにして,システムという。たとえば,振り子という「もの」と,それがゆれる「こと」をいっしよに考えると,振り子のシステムができる。「こと」が非線形であると,システムも非線形であるという。
「こと」のなりゆきが,たまたま微分方程式で書き表せたとしよう。すなわち,考えている対象の状態を表す関数と,その状態の変化率(時間で微分したときの導関数)との関係を方程式で表せるということである。この方程式が,関数とその導関数について一次式であれば,これは線形システムで,解法もよく研究されている。線形システムの例として,バネの端につけたおもりの振動が,よくひきあいに出される。しかし,現実には,これも線形になることはめったにない(図1)。「微小振動は線形で近似できる」といえるぐらいなものである。世の中の現象を表す微分方程式は,残念ながら,ほとんどが非線形であるといってよい。しかも,非線形の微分方程式が厳密に解けるのは,ごく限られた場合だけで,たいていは,コンピュータにより,数値的に近似解を求めるほかないのが現状である。
とはいえ,非線形システムの研究は古く,これまでにも,システムの興味深いふるまいがいろいろ見つかっている。たとえば,「引き込み」現象もそのひとつである。クォーツの時計があたりまえになった今では,あまり見られなくなったが,時計屋さんの壁にかかったゼンマイ式の柱時計が,一斉に時を打っている光景を思い出す(図2)。別々にしておくと,異なった進み方をする時計を,同じ壁にかけると,互いに影響を及ぼし合って,振り子の運動がそろってくる。ホイヘンス(4)が見つけたという,この現象を「引き込み」とか「同調現象」という。「引き込み」現象がおきるメカニズムは,計算でも示されるが(5)R・エイブラハムの「ダイナミクスーふるまいの幾何学」(6)に,巧妙に図解されている(図3)。
混沌とした状態(カオス)から,「引き込み」によって秩序(コスモス)が生まれる,という図式は,なかなか魅力的である。原子の雲から分子が生まれ,分子から生命体が生まれ,それが進化して,複雑きわまりない人間が出現したように,無秩序から秩序へ向かう道は,世の中が発展して行く方向を示しているように思えるではないか。ところが,この方向は,熱力学の基本法則に反している。コップの中の水に,インクを一滴落とせば,インクは水と混じりながら徐々に広がって行く。これは,熱力学の第二法則(7)によれば,インクと水からなる系のエントロピーが増大した,ということになる。エントロピーは,乱雑さのことであると思えばよい。つまり,秩序あるものも,時がたつと,だんだん無秩序になってゆく,というのが第二法則である。
熱力学の第二法則に反して,無秩序から秩序が生まれる現象が,世の中にはいっぱいある。結晶の成長,砂丘の風紋,生物の発生や形態形成,国家の形成などは,その例である。H・ハーケンは,このように協調によって秩序が生まれ,組織化される現象の研究をシナジェティクスと呼んでいる(8)。シナジェティクスは,したがって,非線形システム研究の一分野だといえる。
非線形システムのふるまいで,最近注目を集めているのがカオスである。カオスは通常,混沌,混乱状態,無秩序などと和訳されるが,数学では特別な意味を持っている。厳密に定義された微分方程式や差分方程式の系から,まったく予想もっかない事態が生まれてくることがある。これを力オスと呼んでいる。微分(または差分)方程式と初期条件が決まっていると,未来の状態も完全に決まってしまう,というのが常識である。初期条件を少しくらい変えても,ものごとはほぼ同じように進展するであろう。線形システムの世界では,確かにそうである。しかし,非線形システムでは。一般にそうでない。僅かな初期条件の違いから,まったく異なった状況がうまれる。とはいえ,まったくデタラメになるのではない。数学でいうカオスには,規則正しいふるまいとランダムとの中間といったイメージがあてはまる(9)。
カオスの例では,「ローレンツのマスク」が有名である(図4)。これは,地球物理学者のエドワード・N・ローレンツが,大気の乱流モデルをコンピュータでシミュレートしていて発見した。全体のマスクの形は保たれるのに,それぞれの軌道がどのように進むかは,予想できない。
ニューロ・コンピュータの研究が盛んになって,コンピュータ技術者のあいだにも,神経細胞の性質がとり沙汰されているが,神経の応答が非線形であることも,古くから知られている。神経の応答が,もし,線形であれば,どんなにわずかな刺激にも反応する(刺激を伝達する)はずである。しかし,神経は,わずかな刺激には反応しない。刺激が,ある程度強くなってはじめて,反応するのである。つまり,神経には,ある種の「しきい」があって,刺激の強さがその「しきい」を越えないと,刺激を伝達しない。「しきい」を高くすると,神経は鈍くなる。ニューロ・コンピュータでは,「しきい関数」なるものを定義して,このしくみを取り入れている。それゆえ,ニューロ・コンピュータは,非線形システムのカオス的な複雑さを,そっくり抱え込んでしまう結果になった。ニユーロ・チップのような「もの」はできても,理論はさっぱり,という状況は,とうぶん続くであろう。
(1990・3・15)
(1)レフ・セミョーノヴィチ・ポントリャーギン(1908-)位相幾何学,連続群論,微分方程式論などで多くの先駆的業績がある。
(2)アレクサンドル・グロタンディーク(1928-)フランスの数学者グループ”ブルバキ″のメンバー。代数幾何学の研究でフィールズ賞受賞。
(3)ウェルナー・カール・ハイゼンベルク(1901-1976)ドイツの理論物理学者。量子力学創始者の一人。不確定性原理を発見。
(4)クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695)オランダの物理学者。土星の環を発見。ホイヘンスの原理により,光の波動説を唱えた。
(5)たとえば,戸田盛和『振動論』(培風館 1968)
(6)ラルフ・エイブラハム,クリストファー・ショー共著「ダイナミクス-カ学系-ふるまいの幾何学(上)」(東保訳,現代数学社 1989)
(7)巨視的な動的現象は不可逆的である,とも表現される。
(8)ヘルマン・ハーケン「自然の造形と社会の秩序」(高木隆司訳,東海大学出版会 1985)
(9)山口昌哉「カオスとフラククル-非線形の不思議」(講談社 1986)に詳しい。
*ここに掲げた図は,すべて,エイブラハム,ショー「ダイナミクス-力学系」による。