孔子との質問応答システムを作る。方法は『論語』の公理化を通して―というのが筆者の研究テーマである。人工知能という新しい技術と,論語という古代文化とを結びつけることに違和感が感じられるかもしれないが,この両者には意外なつながりがある。それはどちらも,人間の精神に深い関心を向けている,という点である。中国の歴史はざっと4000年,孔子は2500年前の人で,その差は1500年。つまり孔子の前には1500年の文明の歴史があった。その文明が盛りを過ぎてまさに崩壊に向かおうとしている,そんな危うい時代に孔子は生きて,必死に人間とは,心とは,社会とは,と問い続けた。一方,現代科学はミクロの素粒子にもマクロの宇宙にも探究を進めて,極言すれば残る神秘は脳と精神だけだとも言われ,技術文明の行く末にも何か不安の感じられる昨今である。古代思想と現代科学とは案外に共通性がある。
筆者は精神の秘密は〈思想〉の中に隠されていると考え,「思想の数学化,思想の情報科学的研究」によって精神に迫ろうとしている。これまでの成果としては幸い『コンピュータの中の人類』(御茶の水書房)と『思想のソフトウェア』(法藏館)という2冊の本を出すことができた。その計画に沿って現在は,日本との関わりも深い儒教思想にアプローチしている。これまでにわかったことやその周辺のことを少し書かせていただく。
PROLOGというプログラミング言語によって,論理学がごく自然にコンピュータに乗るようになった。論理の典型はユークリッドの幾何学で,初めにいくつかの公理(基本となる前提)があり,そこから三段論法などの推論によって多くの定理(結果として出る結論)を導き出していく。PROLOGプログラムは公理に相当する。人がコンピュータにする質問は,「こんなことが定理として成り立つのでしょうか」と聞くことにあたる。推論の方はコンピュータがやってくれる。
PROLOGの登場で,もし何かが論理として把握できれば,それがほぼそのままの形でソフトウェア化されることになった。だからもし孔子思想が公理化できれば,孔子(あるいは孔子的精神)がコンピュータ上に実現できる。孔子の言葉は限られた数に過ぎないけれど,それを越えて多くの「孔子ならこう言ったであろう」言葉を導き出すことができる。孔子とのQA(質問応答)が可能になる。昔の人を復活再生させるのに,残存している遺伝子からクローンを作るといったバイオ技術的方法もあるけれども,こんな情報科学的な方法もあると言いたい。
論語を公理化する方法は自然科学に似ている。惑星の不思議な動きという自然現象があり,そこから力学などの自然法則を導き出すのが自然科学である。我々の方は論語の文を一種の「現象」だと思って,その奥底にある法則を見つけ出そうとするのである。
「机の上に花瓶がある」と言ってもしなければ,当然言葉を改める。だがまもなくお客が来るので「机の上に花瓶があるべきだ」,だのにないのなら,すぐにも花瓶を持って来い,ということになる。つまり言葉に合うように現実の方を変える。このように事実の理論と規範の理論とでは,言葉と現実の関係が正反対である。論語はこの二つのどちらかと言えば,第一義的には規範の理論である。そんなことは皆さんは先刻ご承知で,孔子と言えば古臭い封建道徳を説く道学先生,というイメージがおありかもしれない。そのイメージには大きな誤解がある。その誤解は孔子思想といわゆる儒教との差でもある。
例えば誰でも「正直」を規範として認めるが,なぜ正直でなければならないのかと問うなら,その答には2種類ある。一つは義務倫理の立場で,「正直という規範そのものに意義がある。それが何の手段かなどと考えず,とにかく守るべきだ」とする。もう一つは功利主義倫理の立場で「Honesty is the best policy-嘘をつくと信用をなくすから,長い目で見て正直の方が得になる」だとか,「嘘が横行すると社会秩序が成り立たなくなるから,正直でなくてはいけない」だとか,何か別な目的のための手段として規範を正当化する。この二つのうち大まかに言って,いわゆる儒教は前者で,孝や忠誠などもっぱら硬直した規則を説く。しかし孔子はむしろ後者で,「人々の幸福」という目的のために人間は何をしたらよいのか,というふうに問題を立てる。幸福のためには秩序が必要である,秩序のもととなるのは制度・法律である(当時はこれを広く「礼」と言った),だから礼を学んで守らなければならない,その中でも孝が初めである,とする。これは目的―手段思考である。孔子は混乱した社会に生きて,そこでは伝統的な法秩序も見捨てられていた。その中で,もう一度原点に戻って態勢を立て直す必要があった。だからこそ真の目的は何か,そのための手段は何か,というふうに思考を組み立てていったのである。
孔子は意外な程もの柔らかで人間味がある。結局のところ親子の情愛がすべての基礎だと言い,その意味で〈孝〉を道徳の中心に置いた。筆者の手元に茨城県教育委員会発行の『みち』という「小学生の親の学習資料」があり,その中で茨城県警察本部少年課が,少年非行の一因として「人を思いやり,その生命を尊重するという人間として最も大切な情感が欠けている」ことを挙げ,「親に対する信頼感は,他人に対する愛情の基礎になります」と述べている。こういった考え方は他人に説教したりされたりするより以前に,何よりも自分自身が人生で直面する問題にほかならない。孔子の孝には,親の子に対するよりも子の親に対する片務的なニュアンスがないこともないが,それにしてもこれは「社会が社会として成立するための骨組みを描いている」としか言いようがない。現代的価値を追い求めた後で,人は孔子思想の真価に気づくことになるのかもしれない。
我々は朝起きてから夜寝るまで,何をするのが「よいか・わるいか」,何を「すべきか・すべきでないか」で動いている。何かを「したい」と思うときにも,その枠組みについては「よい・わるい」,「べき・べきでない」で自らを制約している。ところで「よい・わるい」と「べき・べきでない」のどちらがより基本的なのだろうか。筆者自身あまり考えずにやっているのでよくわからないのだが,孔子思想に関してならば「よい・わるい」の方が基本的である。
既存の論理学は「真偽(ほんとう・うそ)の論理学」である。それに対して「善悪(よい・わるい)の論理学」はまだ存在しない。近年欧米から,様相論理学の一分野として義務論理学というものが提唱されているが,おもちゃ程度のものだし,それに孔子思想は義務倫理というより功利主義倫理なので,論語の公理化にはさして役立ちそうにない。論語の理解にはどうしても善悪の論理学が欲しい。
平面幾何では初めに公理を置き,そこから三段論法等で定理を導いていく。そこでの推論パターンは「AならばBである。しかるにAは真である。ゆえにBは真である」というもので,この方法で真なる命題を増やしていく。いわば初めに公理という山頂の湖があって,そこから水が流れ出すように真理性が流れ出していく。日常生活で原因・結果を考えるときもそうであって,「ガスを消し忘れたら火事になる。さっきガスを消し忘れた。だから火事になる」と考える。
しかし論語に出てくる善悪の論法は違っている。「AならばBである。しかるにBは善い。ゆえにAは善い」というふうに議論が進む。あるいは「AならばBである。しかるにBは悪い。ゆえにAは悪い」というふうに進む。「ガスを消し忘れたら火事になる。火事は悪い。だからガスを消し忘れるのは悪い」という具合である。まるで魚が海から河へとさかのぼるように,善いという性質は逆方向にさかのぼっていく。これを溯行の原理と呼んでおく。知人が筆者に「善悪を論じてはならない」と忠告してくれたことがある。「善悪を論じると必ず争いになる。争いはよくない。だから善悪を論じるのはよくない」と言うのである。だがその論法こそがまさに善悪の論理そのものである。
先程述べた目的―手段思考も,この溯行の原理で定式化できる。この手段をとればその目的が達成できる,その目的は善いものだ,だからこの手段も善い,この手段をとろう,と考える。よく「目的は手段を正当化しない」と言われるけれども,それはまた別の理由によって手段が悪となる場合なのであって,特にそんなことがなければ,目的は手段を正当化すると考えてよかろう。
これに類した発想は,実は動物にもある。条件反射の研究ではレスポンデント条件反射(パブロフ型)とオペラント条件反射(スキナー型)とを区別する。前者は状況に受け身的に反応するものだが,後者は,何度かレバーを押すとジュースが出たという経験から,次にはジュースが欲しいときにレバーを押す,という行動をとる。これは単純な目的―手段行動であり,さらに進めば「道具の成立」にまで至るだろう。目的のよさから道具のよさが導かれて,道具が独立して存在し始める。社会をつくる動物なら一種の道徳的善悪も生じてくるだろう。そう考えるなら,人間の思考と動物の思考とに本質的な差はないように思える。
「よい・わるい」からどうやって「べき・べきでない」が出てくるかというと,一般に「Aであるのは善い,そして,Aでないのは善くない」ときに,「Aを為すべきだ」と推論される。Aであるのは善い,しかしまた,Aでないのも善い,というのでは,Aを為すべきだ,とはならない。「Aであるのは悪い,そして,Aでないのは悪くない」ときには,「Aを為すべきでない」と推論される。孔子思想において,人々の均しい幸福が善であり,それから外れるのは悪(少なくとも相対的な悪)である。これが善の公理であって,この公理から前述の溯行の原理を使って様々の事物に善悪の判断を下してゆく。これが論語論理の基本である。
善悪を導き出す方法は溯行の原理だけではない。ほかにも多くの推論規則がある。例えば善いもの(+)を獲得すること(+)はそれ自体善いこと(+)だし,善いもの(+)を失うこと(-)は悪いこと(-)である。悪いもの(-)を得ること(+)は悪いこと(-)だし,悪いもの(-)を無くすこと(-)は善いこと(+)である。この±の関係は,数学の+と-の掛け算の規則と同じである。これと全くパラレルに,感情においても同様の規則が成り立つ。つまり感情には感情の論理がある。一般によいものを得ると嬉しいなどのプラスの反応があり,よいものを失うと悲しみなどのマイナスの反応がある。例えば孔子は愛弟子・顔回が死んだ時には「天が我を滅ぼした」と嘆き慟哭した。感情における「よい・わるい」と道徳的な善悪とは必ずしも一致せず(この不一致は善くないことである),それを一致させるにはどうすればよいか,を論じるのが孔子思想の一面である。
他の規則もある。善いもの(+)を好んだり楽しんだりする(+)のは善いこと(+)である。本当に善いもの(+)を憎んだり排斥したりする(-)のはそれ自体悪(-)である。悪いもの(-)を好む(+)のは悪いこと(-)である。悪いもの(-)を憎む(-)のは善いこと(+)である。この±の関係も掛け算の規則と同じである。
人は皆自分をよいもの(+)と考えており,その自分の価値を認めてくれる(+)者に対しては肯定的感情(+)を持つ。認めてくれない(-)者に対しては否定的感情(-)を持つ。この辺りは皆,プラスとマイナスの力学である。
論語の冒頭の文は「学んで時にこれを習う,また説(悦)ばしからずや。…」つまり「学習は悦ばしいものですね」というものである。学習は行為であって事柄・事実の領域に属する。一方,悦ばしいとは感情であるが,明らかに価値を含んだ言葉である。つまりこの文は「事実」と「価値」とを結合したものになっている。なぜ結びつくのかと言えば,まずは孔子自身の経験である。「私は学習が喜びである,あなたもそうではありませんか」と問いかけている。この結合を「感情の論理」から説明することもできる。価値あるものを獲得することにはプラスの感情が伴う,というふうに。学習の大切さは孔子思想の一つのかなめであり,喜びの感情は,その知的な価値認識に付随し,それを裏面から支えるものとなっている。
論語の命題においてはこの事実―価値ペアの形が基本構造になっているが,結合形としては他に,事実―事実ペア,価値―価値ペア,価値―事実ペアという計四つの組み合わせがすべて用いられる。こんなふうに把握したときに論語の思想構成は極めてすっきり理解できることが,だんだんわかってきた。例えば「学びて思わざればすなわち罔(くら)し」(学んでも自分でよく考えて消化しなければ本当には賢くならない)という文は,事実Aと事実Bを因果的に結合しているが,事実Bには明らかに価値判断が伴っており,事実―事実結合を通じてその価値判断が事実Aの方に伝わっている。結局,学んでよく考えるのがよい,という結論となる。
事実と価値の計4種の結合によって論語を見ていくとき,論語理解の第一次近似が得られる。この近似ならば,コンピュータにもわりと簡単にのせることができそうである。
みんなが手塚治虫の『鉄腕アトム』に夢中だった。戦後まもない農家の縁側で,筆者が子供の頃である。貧しい日常生活とは対照的な,明るい技術的未来がそこにはあった。高校生になって中島敦『弟子』を読んだ。彼の描く孔子は強弓をひく大男,軍の指揮もとる現実政治家で,大志をいだきつつ時代に敗れてゆく悲運の英雄だった。中学生の時に耽読した吉川英治『三国志』の豪傑達とは違う,こんな英雄像もあるのかと驚いた。
鉄腕アトムと孔子と,この異質な2人を結びつけようとは,京都での奔放な学生時代にも,思ってもみないことだった。