最初に萩原宏先生のご指導のもと,計算機の原理や数値解析の授業を聞きながら,実際にNEAC-2101という磁気ドラムを主記憶とする計算機に触れたのは,1961年頃のことになります。授業内容もさることながら,当時は計算機に触れられる機会は全くなく,アセンブラ,それも本当の初期にはほとんど16進数で実習プログラムを書いていたと思います。そして,たくさんの間違いを書いては萩原先生のご指摘を受け,繰り返し作り直していました。萩原先生は,学生に課題を出されるとき,細かい指示を直接出されることはなく,課題だけを出されて,ひとまず学生に考えさせるやり方をされていました。どうにも行き詰まるとやっとヒントを出していただけました。
その後も私は大学院まで進学させて頂いたのですが,その間に身についたものは,零から出発して,そこにハードウェアとソフトウェアを準備し,その上にアプリケーションが動く,その全体を自分で考える,しかも,虚飾を排して,本当に大切なことは何かを考える,この信念のようなものを学習し身につけることになりました。一方で堅苦しいお話ばかりではなく,研究室の卒業コンパの時には,お酒を飲みながら講座の学生が先生を取り囲み,飽きることなくいろいろな話題が出てきました。このときの様子から,萩原先生は表面は穏やかなのですが,心の芯の部分には,明確な哲学があって,次々に先生の世の中に対する思いが若い我々学生の心に伝わっていたように思います。
萩原研究室を卒業した後の私は,必ずしも情報工学の一本道を歩くことにはならず,右へ行ったり,左へ行ったり,後から考えれば一本道でもそのときそのときは迷いながら,道を探していました。ところが,不思議なことに,今振り返って見ると,どこへ行っても,零から出発して,ハードウェアを用意してその上にソフトウェアを働かせて応用プログラムを動かすという,萩原先生から教わった姿勢はいつも変わりませんでした。
京都大学の研究室を出て最初に仕事をしたのが,大阪大学大型計算機センターの助手の仕事で,私が赴任したときにはまだハードウェアは導入されておらず,一足先にマニュアルを読んで,頭の中にイメージを作ることを始めました。しかし,このシステムも当時としては新しいタイムシェアリングシステムを,多くのユーザに使ってもらう大きな全国向けのセンター組織として発展していきました。私の役割がどれだけ役に立ったのかは,分からないのですが,私が零からの立ち上げに関わったことになるのです。直接萩原先生にご相談に伺った覚えはないのですが,やはり横におられて,自分で考えてやりなさいと声をかけて下さったのだと思います。
その3年後,今度は大阪大学精密工学科の研究室に移りました。こちらでは,牧之内三郎先生の研究室で計算機を使った機械制御の研究を始めることになりました。ここでもまた,実験の道具立てがそろっているわけではなく,実験室には企業から借りた小型のNCフライス盤と小型のミニコンNEAC-M4がただそのまま置いてあるだけでした。今では,ネットワーク経由でコンピュータによって工作機械を動かすのは当たり前ですが,当時としては考え方はあっても,具体例が身近にあるわけではありません。大阪大学の大型計算機センターの保守をお願いしていた日本電気の方々に,NEAC-M4を大型計算機と回線で接続することをお願いし,私自身も機械にセンサーを取り付けるためのAD変換器の図面を書き,多少は半田ごても振り回しながら,手作りの実験装置を作り上げていきました。萩原先生のお声がここでも聞こえてきました。
もっとも,いろいろな人のつながりはあるもので,私が牧之内先生の研究室に移るのに萩原先生が関わっておられたわけではありません。しかし,牧之内先生は大阪大学の応用物理学教室で,城憲三先生ならびに安井裕先生と共に,萩原先生とは別の取り組み方で,戦後すぐに真空管方式のディジタル計算機に取り組まれていました。私も情報処理学会関西支部の会合で,萩原先生,牧之内先生とご一緒させていただいたこともあります。萩原先生,牧之内先生,安井先生お三方とも日本におけるコンピュータの草分けで,安井先生はご健在で,私がこのように豊富な経験,しかもこのような言い方を許していただけるなら,手作りでアイデアを生み出す多くの先生方の指導を受けられたのも,もとをたどれば学生時代の萩原先生のお陰に他なりません。
その後の私は,広島大学に移り,次第に立場が変わって学生を指導することの仕事が増えていくことになります。残念ながら,萩原先生の教育方針をそのまま引き継ぐだけの力が私にはありませんが,なるべく学生と一緒にシステム作りを楽しみ,学生とのディスカッションを楽しむように努めてきました。これが学生にどのように受け取られているかはわかりません。しかし,私自身が講義をしながら,萩原先生の語り口を思い出すのは今も変わりません。
広島大学では,新しい実験装置こそ作りませんでしたが,ちょうど1990年代に入り,全学の情報教育の体制づくりが求められました。当時広島大学では,1学年3000名近い学生がいて,しかもメディアセンターの母体となるものが何もありませんでした。さすがにこの体制を私がつくることは不可能で,私がやったことは周りの先生方,他学部の先生方にもご協力をいただいて,新しい情報教育の体制をつくりましょうと呼び掛けるだけでした。直接には私は役に立ったと思いませんが,この呼びかけがきっかけで結局メディアセンターも図書館のフロアーにできることになりました。
広島大学を停年で辞めて,京都情報大学院大学に勤めるようになったとき,広島大学でお世話になった先生から,また,新しいことを始めるのですかと,言われてしまいました。もともと,私に新しいものを作り出す力があるわけではないのです。しかし,奇しくもこの京都情報大学院大学の初代学長が萩原先生であったわけです。どうも,私に零から新しいものを作り出す力があるのではなく,どのような場面にあっても,萩原先生の零から作り出す力が働いている気がしてなりません。これは,一言のお礼ですむことではなさそうです。
少し話題を変えますが,私自身も歳を重ねるにつれて,自分の過ごしてきた道を振り返るようになります。しかし,振り返ってみても,自分のやってきたことがこれだ,と言うものは思い出せず,一緒に過ごさせていただいた諸先生方,友人,お互いに勉強に苦しんだ仲間,若い人を含めて研究室での研究仲間,このような方々との和の集まりばかりが思い出されます。おそらく私一人生きていたとしても今の私はいないと思います。その和というのかむしろ小宇宙とも呼ぶべきものがあって,その中心に萩原先生がおられるように思います。この小宇宙には,時間も空間もなく生死の区別もありません。実際,同年配であった友人ともすでに直接会えなくなっている人もいます。けれどもこの小宇宙の中では相変わらず冗談を交わし,ディスカッションもできるのです。
萩原先生が病院で治療を受けられた後,研究室の萩原先生ゆかりの方々と気の張るようなことは避けて,季節の果物やちょっとしたつまみを持ってお伺いし,一緒につまみながらいろいろお話をさせていただきました。この前,直接果物をお届けしたのは2013年の5月の苺で,一緒に出かけた研究室仲間とお話を伺い,その後はご無沙汰になってしまいました。萩原先生には,これまでの自分を振り返ってみると,言葉でいくらお礼を申し上げても事足りそうにはありません。やはり,季節の果物を持ってお話にお伺いし,これまで通り,先生のご指導を受け続けるのが,最も適切であるように思います。