六年生の冬休みだった。三学期が始まる前の日,丹波の宇津村は雪の下にあった。私は鳥を捕る仕掛けのハネを作ろうと,家の前庭で篠竹を削っていた。ハネは,輪にした細い紐を括り付けた篠竹を曲げ,地面の上に割箸ほどの竹を簀子(すのこ)状に並べた台座にその紐の輪を引っ掛ける。台座の上には稲の穂などの餌を置く。鳥が止まって餌を突くと,台座が落ちて篠竹が跳ね上がり鳥の脚を縛る,という極めて原始的な仕掛けだった。その語源は,「跳ねる」からきているのだろうか。時々上級生らが作っているのを見て,私も一度は作りたいと思っていた。しかし,上手に作れる自信が私には全くなかった。
そこへ,同級生のさぶやんが通りかかった。私が苦心しているのを目に止めてしばらく見ていた。やがて,彼が,
「作るの,てっとたろか(手伝ってやろうか)?」
と,遠慮がちに言った。
青白い顔をした無口な彼は,いつも物静かな少年だった。十二名の男生徒の野球のメンバーでも,さぶやんは補欠の二番手である。私も,彼とは常にそれほど会話を交わすことはなかった。ただ,三年生の春を迎えたころ,さぶやんの口利きで小猫をもらったことがある。彼の隣の家で生まれた茶色の縞のある猫を仲介してもらい,それからは何となく彼に親しみを感じていた。
その日のさぶやんは実に頼もしかった。篠竹を削って曲げる手つきは,まるで大人のように器用である。仕掛けに必要な材料を次々と手際よく加工し,瞬く間に準備を整えた。ハネは私の住んでいる栃本八幡宮の裏山に仕掛けることにした。山へ登るとき,さぶやんは庭の隅に生えている赤い南天の実を一房ちぎった。非農家のわが家に稲の穂などは無かったから,彼が少し考えて,近くにあった実を鳥の餌に選んだのである。
赤松が群生する裏山は落ち松葉が分厚く敷き詰めていた。緩やかな傾斜に雪が積もると,木馬(きんま)滑りの遊び場所になる。山道は踏み固めた雪が凍って歩きにくかったが,十分足らずで頂上付近に到着した。私たちは手ごろな雑木の下を選んだ。雪をかき避よけて,さぶやんが鮮やかな手さばきでハネを作った。私は,ほとんど見ているだけである。見事に完成した台座の上へ最後に南天の実を置いて,彼は恥ずかしそうに笑った。さぶやんが笑うのを私は初めて見た。
白い雪の上の南天の実は,傾き始めた夕暮れの木漏れ日にいちだんと赤く映えた。それは,今にも鳥が飛んで来て啄(ついば)みそうに思えるほど,艶やかに輝いていた。
翌朝はいつもより早く起き,期待に胸を躍らせながら裏山へ走って登った。早朝の空気は冷たく吐く息が凍る。台座の上の南天の実はほとんど無くなっていた。しかし,ハネはそのままの状態である。仕上げが頑丈過ぎて,鳥が止まっても落ちなかったのだ。私はガッカリした。
腹が立ち台座を足で踏んで跡形も無く壊してしまった。わずかに残っていた南天の実が踏みにじられ,雪の上に飛び散った。昇り始めた薄日が松の木の間から差し込んできて,その跡を直射した。
登校して,私はさぶやんを責めた。彼は悲しそうな顔をしただけで,ひと言も弁解しなかった。
やがて,小学校を卒業して中学へ入学してからは,さぶやんとはクラスが違ったのでほとんど口を利いた記憶がない。
三年生の夏休みに私は隣の郡の中学へ転校した。そして,いつのころだったか,風の便りにさぶやんが病気で亡くなったことを聞いた。二十五歳の冬だったらしい。私がそれを知ったのは,彼の死から既に二年の月日が過ぎていたことになる。
私が勤め出してしばらく経った正月に,小学校の同窓会が古里で開かれた。十数年ぶりの宇津村は,やはり,雪の下で静まり返っていた。宴会までの時間を利用して,私はさぶやんの墓へ参ることにした。橋を越えた平野(ひらの)の家には弟さんが住んでいて,さぶやんの墓の場所を教えてくれた。庭の土塀から雪を被った南天が顔を出していて,私はその赤い実を一房手折った。
薄暗い山蔭へ入る細い道は踏まれた跡もなく,急坂を上るにつれて靴が雪に潜った。数本の杉の大木の下で,さぶやんの墓は雪に埋もれていた。ほんの二本か三本の朽ちた墓標が立つだけの寂しい墓地だった。周囲は静まり返って鳥の声も聞こえない。風化した木の墓標に,彼の名が微かに読み取れるばかりである。昼間でも日の射すことのない空気が冷たくて,私の吐く息が白かった。
私は,墓標の前の雪の上に南天の実をそっと置いた。白い雪の上の赤い実に,あのときたった一度だけ見たさぶやんの笑顔が重なった。それは,昔の少年のままの,恥ずかしそうな笑顔だった。
『月刊ずいひつ』375号(平成17年3月)より転載