私は2015年の春,北海道から京都に転居してきたが,京都は私にとって,一種の外国の都市のように感じられる。その主な理由は二つあり,一つが,京都言葉と北海道訛りを含んだ標準語という言葉の違い,もう一つが街の景観の違いである。
両者のうち,私に日常的に異国の感じを与えるのは景観の方である。言葉に関しては,京都に住んでいても,京都言葉をさほど頻繁に耳にするわけではない。私が京都の人と話す場合も,標準語で話すので,自然と標準語での会話になる。それに対して街の景観は,自宅を一歩出れば,黙っていても目に入ってきて,自分が北海道とは異なる文化圏に居ることを知らせてくれる。
実際,京都の街並みは,私が生まれ育った札幌のものとはまったく異なる。札幌では,屯田兵が入植した明治期から急速に発展してきた歴史的経緯および冬期間の防寒と防雪の必要性から,外観が機能的な印象の家屋が整然と並んでいる。
他方,王朝が置かれた以後でも,すでに1200年以上の歴史を有する京都では,都市の現代的機能の面では札幌と共通する部分が少なくないとしても,その歴史の厚みのようなものが街の景観のあちこちに表出している。市内いたるところにある神社仏閣,瓦屋根や格子造りの伝統的な家屋,窓を覆う簾や軒下の犬矢来,玄関を飾るちまきや信楽焼きの狸など,いずれも北海道では見られない光景であり,京都が私の目に外国のように映じる大きな要因になっている。
そのような街中の異国的な光景の一つに,100メートルも歩けば,一つや二つは必ず出会う街角のお地蔵さんがある。「卍」の文字が謎の記号のように刻まれた祠の中に,小さなお地蔵さんが何体か並んでいて,時には顔が白く塗られている。聞けば,各町を貫いていた通りの入り口に,魔除けとして置かれたものであるという。地蔵そのものは珍しくないとしても,それが市内全域にあることで,京都では生活空間さえもが,ある種の宗教性を帯びているように感じられ,さらに言えば,その祠を丁寧に掃除し,花を供え,お線香を焚き,手を合わせる人々の姿を目にするとき,私のあずかり知ることのない歴史と伝統が,この都市に流れていることを実感するのである。
ところで,この祠の台座に印された「卍」の文字であるが,この形象は私に,街の異国的な趣きとは別の連想も与えてくれる。関西を舞台にした,谷崎潤一郎の小説『卍』である。これは短絡的な連想に見えるかもしれないが,私にとっては,同じ字面以上の結びつきがある。一介の市井人の転居体験と文豪の創作活動の並置が許されるのであれば,私が祠の「卍」を見て異国情緒を感じるのも,東京生まれの谷崎が『卍』を執筆できたのも,どちらも,関西文化をその外側から一種の異国として見る視点が関わっているからである。
日本文学史では常識であるけれども,東京人の谷崎は関西に移住することで作家的に飛躍している。1886年(明治19年)に東京で生まれた谷崎は,1910年(明治43年),二十四歳の時に発表した『刺青』で注目を浴びて新進作家としての地位を確立するが,1923(大正12)年9月の関東大震災を機に関西へ移住する。一時的に京都に住んだ後,阪神間に移り,その後も何度か転居を繰り返しながら,1956年(昭和31年)まで自宅を関西の地に構えることになる。
この関西文化との出会いが転機となって,その風土に根ざした作品が生まれる。『卍』,『蓼食う虫』,『春琴抄』などの傑作を世に送り出し,1935年(昭和10年)には,大阪婦人である根津松子を三番目の妻に迎え,自分が望むようなインスピレーションを彼女から得ることで,彼女の姉妹をモデルにした『細雪』や,王朝時代を舞台とする数々の小説の創作へとつながっていく。
このように,関西への移住が旺盛な執筆欲につながった谷崎であるが,その地で生活し,その地の人間や風土を描くとしても,東京育ちの谷崎から,関西を一種の異国とみなす視点が離れることはなかったであろう。
谷崎は移住の約2年前,映画撮影のために上方を訪れた時のことを振り返って,「外人の遊覧客と同じような気分をもって奈良や京都に遊ぶことが出来た」,「旧き日本をエキゾティズムとして愛する」と述懐している(『東京をおもう』)。
ある国の文化が自国民よりも,時に外国人によって,その特質がより明確に認識されることがあるように,谷崎も関西を外部の視点から見ることで,そこの風土や生活を小説の題材として,より鮮明な輪郭において把握できたのではないだろうか。以下では,そのような関西を異国として外側から見る視点が,彼の創作に関わっていることを,関西の地で最初に結実した二つの長編小説である『卍』と『蓼食う虫』において確認してみたい。
『卍』は大阪言葉で書かれた最初の谷崎の小説で,1931年(昭和6年)に単行本化された。彼の作家的軌跡においては,「彼の芸術の関西の土壌への移植の試みであり,同時にその記念碑」(中村光夫)であると一般的に位置づけられている。
『卍』の主題はレズビアニズムである。谷崎と思しき作家に,ある既婚の女性が自分の同性愛体験を告白するという設定で,彼女の口から,同性愛の相手である妖婦の「徳光光子」が,その魔性の手練手管を使って,告白者のみならず彼女の夫も巻き込むことで,複雑怪奇な愛憎関係を作りあげ,それが無理心中事件に発展していく様子が語られる。
谷崎の小説には周知のように,マゾヒズムやフェティシズムの主題が『刺青』から晩年の傑作『瘋癲老人日記』まで一貫して流れている。それは中村光夫の言葉を借りれば,「女性の美に対する熱っぽい賛歌を,その魔性の虜になって拝跪する男性によって具象化」することである。この「拝跪する男性」とは,すなわち谷崎の分身に他ならないのであるが,『卍』ではこの「拝跪する男性」の位置に,珍しくも女性を置いたことでレズビアニズムの形をとっているものの,崇拝する女性が魔性の女である点では変わらない。
この谷崎独特の妖婦の描写に着目するとき,関西に移った谷崎が,大阪言葉を表現手段として手に入れることで,妖婦の描き方において新局面を切り開いたことがわかる。大阪出身の河野多恵子も指摘するように,『卍』の光子は,従来の谷崎的な妖婦とは様相を異にしている。それ以前は,妖婦は芸者などの玄人や下層階級の女性に設定されていることが多く,またその女性像は,『痴人の愛』で年上の夫「譲治」をいたぶる「ナオミ」に代表されるように,西洋人女性のイメージとも頻繁に重ね合わせられていた(『痴人の愛』では,ナオミは8人の西洋人女優に擬せられている)。
だが『卍』では,光子の設定は上流階級の女性となっている。彼女は知的な大阪人女性で,「楊柳観音」に例えられていることからもわかるように,伝統的美人として造形され,その心理描写も,微妙で陰影をともなったものに変化している。相手を「拝跪」させるやり方も,ナオミが譲治の背中に馬乗りになるのに対して,光子は手の込んだ心理的な駆け引きを通して,告白者の女性とその夫を操作するのである。
このような妖婦の描写を可能にした要因の一つが,大阪言葉の導入である。伊藤整は,標準語と比較して,大阪言葉は「柔軟さと,微妙な陰影の把握力とがあって,特に女性の心理描写に適切である」と指摘し,『卍』を,谷崎が「標準語的表現によるリアリズムから脱し,関西語を通して,古典的な表現の領域へ入ろうとする試みの一つと見ることもできる」と評している。伊藤の大阪言葉に関する指摘が,少なくとも谷崎にとって的を射ていたことは,谷崎の『私の見た大阪及び大阪人』を読めば納得できよう。
このように,関西の風土に根差した妖婦の造形に成功した谷崎であるが,その創作過程を見ると,根本のところでは,東京人の視点が働いていたことが確認できる。『卍』は雑誌『改造』に,1928年(昭和3年)3月から,1930年(昭和5年)4月にかけて,断続的に計22回掲載されたのであるが,河野多恵子はこの連載を順に読んで興味深い事実を発見している。文章が標準語から大阪言葉へと徐々に移行しているのである。
それは,以下のように変化している。連載の1・2回目は標準語で書かれているが,3回目で大阪言葉が後半から所々に混じり始め,4回目では会話部分が大阪言葉であるものの,地の文はほとんどがまだ標準語である。この傾向がその後も続いて,9回目になってようやく会話だけでなく地の文も,一貫した大阪言葉になっているという。標準語からの下訳をしたのは,谷崎が雇っていた若い女性の秘書たちである。
われわれが現在,文庫本などで読む『卍』は,標準語・大阪言葉混じりの雑誌連載文を,あらためて大阪言葉に書き直したものなのである。河野の指摘は,その大阪言葉がつむぎ出す世界が,少なくとも前半は標準語の思考の上に成立していること,そして後半もおそらく同様に創作されたであろうことを教えてくれる。すなわち,『卍』の世界には,東京人としての谷崎の視点が内包されているのである。
この東京人の視点の働きを,増村保造はより一般的な東西文化論の枠組みで評している。増村は,『卍』(1964年),『刺青(いれずみ)』(1966年),『痴人の愛』(1967年)と,谷崎原作の映画を三本撮り,また女性の本質を妖婦と見る点で,谷崎に近い女性観を持っている映画監督である。その増村はまず,東京人の美的感覚が江戸の町人文化によって育まれたものであり,それは,どこか歪んで暗く現実的ではないが,洗練されていて夢のような美しさを持っていると指摘し,他方,「進歩的な商業地帯」であった関西の人間は,「現実的で合理的,打算的でねばり強い」と評する。その上で,「京阪の風土と人間を芸術的につかまえ,一つの美として表現する」には,「あまりにも現実につきすぎる関西の人よりも,美意識の洗練に馴れた東京人の方が向いているのではあるまいか」との見方を示し,この点に関西移住後の谷崎の作家的飛躍の鍵を見ている。
このように,谷崎は東京人の視点に依拠して,大阪言葉による物語を書いたのであるが,その視点は,関西の地に来ることで新たに意識化されたものであろう。中条省平も異なる文脈で指摘しているように,谷崎は関西に住むことで,自分のルーツである東京・江戸の文化もまた強く意識するようになったのであり,そのようにして関西を外側から見つめる視点を形成したはずだ。この意味では,その視点も関西文化との接触から生まれた収穫の一つとみなせるのである。
関西文化の相対的な把握を可能にする,もう一つの外部の視点として,西洋,特にアメリカ文化に依拠したものを挙げることができる(ここでは取りあげないが,谷崎が二度旅行した「支那」についても,類似の議論が可能である)。
東京時代の谷崎は西洋崇拝者であり,「妻子の束縛がなかったならば,多分私は西洋へ飛んで行って,西洋人の生活に同化し,彼らを題材に小説を書いて,一年でも多く向こうに留まっていたであろう」(『東京をおもう』)と回想するほど心酔していた。実際には洋行を実現できなかった谷崎ではあるが,その代償として,スクリーンや映画雑誌を通して西洋文明に接し,特に西洋の女優に対する賛辞を惜しむことはなかった。当時の谷崎にとって理想の女性とは,「外国のスタアの肉体と服装とを備えたような婦人」(『東京をおもう』)だったのである。
この映画熱はやがて,谷崎をして映画製作に乗り出させる。1920年(大正9年),横浜に創設された大正活映株式会社の脚本部顧問の地位に就き,アメリカ帰りのトーマス栗原喜三郎を監督にして,サイレント喜劇風の『アマチュア倶楽部』を制作し,その後も三本の映画の脚本を書いている。映画人としての谷崎の念頭にあったのも,アメリカを中心とした西洋の映画であり,「西洋のフィルムでさえあれば,どんな短い,どんな下らない写真でも,現在の日本の芝居に比べれば,ずっと面白いと云いたいくらいである」(『活動写真の現在と将来』)と述べるほどの熱の入れようだった。この映画制作体験を基にして,小説『肉塊』を後に発表するが,その主人公は金髪碧眼の女性に跪き,その足に接吻することを夢見る人物である。
このような映画体験を通して形成された西洋崇拝は反転して,谷崎には醜悪としか思えない流儀で近代化に狂奔する東京を批判する視座となる。「私は西洋映画に現れる完備した都市の有様を見ると,ますます東京が嫌いになり,東洋の辺陬に生を受けた自分の不幸を悲しみもした」(『東京をおもう』)と,その目は辛辣である。これと同種の東京批判は,小説『独探』でもあからさまに表明されている。
だがこの視点が移住後は,関西文化を外部から把握するものとして働くのである。この点は,『卍』と並行して執筆された『蓼食う虫』において確認できる。『卍』では創作過程を検討したが,『蓼食う虫』では,その文章表現のレトリックに焦点を当ててみる。
『蓼食う虫』は1928年(昭和3年)に新聞連載小説として始まり,翌年に単行本化された。東京出身で阪神間在住の「女性崇拝者」である「斯波要」という男が主人公で,彼が結婚当初から冷えた関係にあった妻の愛人通いを黙認しながら,離婚についてあれこれと考えをめぐらせる話である。当然この主人公にも,当時の谷崎の境遇が投影されていて,彼自身が抱えていた最初の妻との不和と,その妻を親友の佐藤春夫に譲る,譲らないのゴタゴタの経緯が色濃く反映されている。
この離婚目前の要の前には,二人の対照的な女性が存在している。以前からなじみの,神戸のロシア人女性の娼婦「ルイズ」と,義父の妾である,「上品な京生れの女」の「お久」である。つまり,派手な西洋の女性と伝統的な関西の女性である。「西欧と日本との間を振子のようにゆれうごく主人公」と三島由紀夫が評するように,要の理想の女性像は,この二人の間をゆれ動くのであるが,徐々に後者の方に傾いていく。すなわち彼の内面において,西洋女性への崇拝からの離反と伝統的な女性像への回帰という二つの運動が起こっているのである。伊藤整がこの小説を,「古典的なイメージの中に理想的な女性を描き出す傾向の第一歩である」と評するゆえんである。
興味深いのは,この二人の女性像の対比が,アメリカ映画=明るさ,仏像=薄闇というイメージの組み合わせも援用して,説明されている点である。この部分の描写は,要が義父に誘われて,妻,義父,お久とともに見に行った,近松門左衛門の人形浄瑠璃『心中天の網島』の観劇中に出てくる。
要は劇の意匠に喚起される形で,アメリカ映画の女優たちと,作中,来世で夫婦になれると信じて,妻子持ちの町人と不義の愛で心中する19歳の女郎「小春」の人形との比較を考え始める。すると,かつては「女性に媚びることばかりを考えているアメリカの絵の世界」を愛していた彼が,意外にも人形の小春に,「昔の人の理想とする美人」を見出している自分を発見して驚き,その心象を次のように描写する。
暖簾を垂らした瓦燈口に紅殻塗りの上り框,―世話格子で下手を仕切ったお定まりの舞台装置を見ると,暗くじめじめした下町の臭いに厭気を催したものであったが,そのじめじめした暗さの中に何かお寺の内陣に似た奥深さがあり,厨子に入れられた古い仏像の円光のようにくすんだ底光りを放つものがある。しかしアメリカの映画のような晴れ晴れしい明るさとは違って,うっかりしていれば見過ごしてしまうほど,何百年もの伝統の埃の中に埋まって侘しくふるえている光だけれども。
明示されてはいないものの,ここで提出されているのは,比喩的な意味において,アメリカ映画という光によって暗闇に浮かび上がる「古い仏像」というイメージであるように思われる。アメリカ映画が「晴れ晴れしい明るさ」を持つのに対して,仏像は「じめじめした暗さ」の中に置かれている。この関係性の中から,「古い仏像の円光」のような「くすんだ底光りを放つもの」が浮かんできている。その光源は仏像自身にはない以上,それはアメリカ映画とみなせるのではないか。換言するならば,アメリカ映画という光が厨子の奥にある仏像に間接的な照明を当てるというレトリックに,西洋体験を経た視点による伝統的な美の発見ということが示唆されているように思われるのだ。
このように,アメリカ映画と仏像という対比に仮託して語られる,明るさと薄闇という関係はそのまま,西洋女性のルイズと関西婦人のお久との比較へと延長される。
要は,「ホリーウッドのスタア」と結び付けられるルイズの「白皙の肉体」に惑溺しがらも,お久を人形の小春と重ね合わせつつ,「日本人の伝統の中にある「永遠女性」のおもかげ」をそこに見出していく。やがて彼の想像力は時代をさかのぼって,お久を,日本家屋の奥まった薄闇の中で,長い間生きてきた伝統的女性の代表にさえ変えてしまうのである。なおこのお久は,谷崎が昭和初期に関係を持っていた祇園の芸妓がモデルであると指摘されている。
このように谷崎のレトリックでは,西洋文明やアメリカ映画は,日本の伝統や女性美を際立たせる外部の視点として働いている。その薄闇の美学を論理的に展開させた『陰翳礼賛』でもやはり,アメリカと映画は薄闇の美しさを解き明かすための比較項となっている。さらに言えば,微妙な反射光が屋内に生み出す薄い闇そのものが,彼にとって一種の映画だったようにも思える。映画も結局は,映写機からスクリーンに投影される光の反射に他ならないからである。『蓼食う虫』は,そのような谷崎の美的感覚の形成に映画体験が深く関わっていることを示唆した小説なのである。
以上,関西を一種の異国として外部から見る谷崎の視点が,『卍』と『蓼食う虫』の両小説の創作に深く関わっていることを検討してきた。『卍』では,その大阪言葉の世界が東京人の視点(=標準語)に依拠して構想されており,また『蓼食う虫』ではアメリカ映画が比喩的な照明として,関西の伝統に光を投げかけていたことが確認できた。東京時代の谷崎は,西洋文明の立場に立つことで,明治の東京を批判的に見ていたが,関西移住後は,関西文化を美的に把握する視座として,東京と西洋に依拠する二つの視点を自在に使っていたように思われる。
この小論の着想は,初めて『蓼食う虫』を読んだ時に得られた。映画研究を専門としているので,先の引用文において,アメリカ映画を仏像と比喩的に対置させる,その特異な視点に興味を持ったのである。谷崎が映画制作に乗り出した珍しい文学者であることは知っていたが,実際に彼の小説を読んでみると,映画に関する記述は,その作家的キャリアを通して途切れることがないのである。
すなわち映画や映画スターへの言及が『痴人の愛』を筆頭に,初期の『秘密』から晩年の『鍵』や『瘋癲老人日記』まで続いているほか,平安朝が舞台の『少将滋幹の母』においてさえ,「古い映画のフィルム」が例えの一つとして持ち出されているくらいなのだ。谷崎の自伝的小説である『異端者の悲しみ』には,若き谷崎がベルグソンの哲学に傾倒したことが示唆されているが,ベルグソンが映画のメカニズムを援用して人間の思考と記憶の形態を説明しようとした哲学者であることも,ここで想起されよう。
このように見てくると谷崎の著作は,その文章表現のスタイルも含めて,日本人がアメリカ(西洋)映画をどのように受容したかの通史的なドキュメントの性格も持っているように思われる。そのような観点から彼の著作を読みなおすことで,近代日本における映像文化の新たな一面が見えてくるかもしれない。
谷崎潤一郎『刺青・秘密』,『痴人の愛』,『卍』,『蓼食う虫』,『春琴抄』,『少将滋幹の母』,『鍵・瘋癲老人日記』(以上,新潮文庫),『細雪』,『潤一郎ラビリンスⅢ 自画像』,『潤一郎ラビリンスXI銀幕の彼方』,『潤一郎ラビリンスVI 異国綺談』,『潤一郎ラビリンスXV 横浜ストーリー』(以上,中公文庫),『谷崎潤一郎随筆集』(岩波文庫),『恋愛及び色情』(角川ソフィア文庫),伊藤整『谷崎潤一郎の文学』(中央公論社),三島由紀夫『作家論』(中公文庫),千葉伸夫『映画と谷崎』(青蛙房),河野多恵子『谷崎文学と肯定の欲望』(文芸春秋),中村光夫『谷崎潤一郎論』(講談社文芸文庫),中条省平『反=近代文学史』(中公文庫),尾高修也『谷崎潤一郎 没後五十年』(作品社),増村保造『映画監督 増村保造の世界』(ワイズ出版),近松門左衛門『現代語訳 曽根崎心中』(河出文庫)