2011年3月11日,未曾有の災害が東日本を襲いました。その中でも津波によって甚大な被害を受けた地域の一つが宮城県石巻市です。
2011年4月30日から5月7日まで,その石巻市の渡波地区で復興支援ボランティアに参加する機会を得ることができました。
石巻市の被害状況は2011年12月13日現在で,人口162822(2011年2月末)に対して,死者3279人,行方不明者651人となっています。私が石巻に入った4月30日の時点では,震災から7週間が経過していましたが,津波の被害を受けた地域では,潰れた家屋やひっくり返った車などで溢れていました。街がかき回されてグチャグチャになっているという状態です。2階建ての家の2階に突き刺さるトラック。ガソリンスタンドの中に流れ込んだ家屋。瓦礫で埋もれている場所がある一方,海岸の堤防近くの住宅街では,住宅の土台部分のみを残してきれいさっぱり流されてしまって何も残っていない場所もありました。
そのような状況にあった石巻で,私は青年海外協力隊OB・OG(以下OV:oldvolunteers)を中心としたグループ『協力隊OV有志による震災支援の会』(http://www.exjocv2011.net/)に参加しました。
震災後の3月14日から青年海外協力隊OVの2人で物資輸送,隊員OBが中心となり,昼食約800人分炊き出し開始。3月20日に石巻市より避難所となっている石巻市立渡波小学校の支援を依頼され,渡波小学校での炊き出しを中心に,看護師,理学療法士の隊員OVが保健衛生部門を立ち上げ,保育・児童教育関連のOVが子供のためのプレイルームを立ち上げるなど,活動を広げていきました。国際ボランティアセンター山形,関西大学や静岡文化芸術大学の学生・OBへとネットワークを広げ,GW中には,1日最大31名のボランティアが集まりました。渡波小学校だけでなく,同じく避難所となっていた石巻市立湊小学校や葬祭所「ほたる」での活動,東松島市の図書館への応援など,活動を行いました。
私たちボランティアグループは青年海外協力隊のOVが中心になっていたことから,各々の専門分野を生かした支援活動を行えるのが強みでした。また,国際協力に携わった経験は,私たちのグループの最大の特徴でした。
避難所である渡波小学校では,震災直後には約1500名の人々が避難していたそうです。5月5日時点では避難者は約300名になっていましたが,渡波小学校での炊き出しに関しては,周辺住民への配給分が約500食でしたので,学校内の避難者と合計して1日800食を調理していました。しかし,GW中には最大31名になったボランティアは,私を含めてGW後には自分たちの生活に戻らなければなりません。私たちのグループもGW直後には3人になってしまいました。そこで,避難者の方たちに炊き出しに参加してもらうことになりました。GW中はボランティアと避難者のお手伝いの人たちが共同で炊き出しを行い,調理のみならず,食材の発注方法なども避難者の方にしていただけるようにしました。これは青年海外協力隊が発展途上国で行っている技術移転と同じです。さらに,GW後には有償ボランティアとして時給750円で避難者の人たちだけで炊き出しの作業をしてもらうことになりました。避難所内の人だけが無償で作業をして,周辺住民が食事を供給されるのみになると,不公平が生じてしまいますし,何より長続きしないからです。この取組は,『キャッシュ・フォー・ワーク(cash for work)』と呼ばれる国際協力の手法の一つであり,災害地等において被災者を復興事業に雇用し,賃金を支払うことで,被災地の円滑な経済復興と被災者の自立支援につなげることが目的です。
その渡波小学校の避難所は,2011年10月11日をもって閉鎖され,避難者は仮設住宅へ移っていきましたが,渡波小学校での炊き出しを行った避難者である渡波(わたのは)のお母さんを中心とするメンバー通称「ワタママ」さんたちは,渡波地区の旧ラーメン店を改装し,11月21日に『ワタママ食堂』を開店。現在は,仮設住宅の高齢者等への配食サービスを行っています。
今回のボランティアで私が主に担当したのは,渡波小でのゴミ集積場所の整理でした。私が初めて避難所となっている渡波小学校に行った際は,当初のゴミの集積量の予想を大きく超え,分別されていたごみの山が大きくなりすぎて,ビン・カン,ペットボトル,可燃物,ダンボールの山が合体してしまい1つの山になり,次第に分別も曖昧になり,ゴミが混ざりあってしまっていました。徐々にゴミの収集は始まっていたのですが,夏に向かって気温が高くなるにつれて,衛生的な問題も発生しかねないと考え,集積所の整理を開始しました。
まず,ゴミ回収の情報を得ようと渡波小の近くにある支所を訪ねました。しかし,ゴミ収集に関する情報は誰からも得られませんでした。渡波小の避難所本部に聞いても,可燃物が月・木で回収に来るという情報は得たものの,その時点で未だ回収がなかったビン・カン,ダンボール,ペットボトルの収集開始に関する情報は全く得られませんでした。
青年海外協力隊OVの方がショベルなどの重機を携えてボランティアに参加していたので,ダンボールの山の移動とゴミ集積所の近くにあった使えなくなった机などの移動,そして津波で流され動かなくなった自動車の移動をお願いしました。これは,避難所の本部(市役所の職員1名と臨時職員1名,他の自治体からの応援職員数名から構成)に話を届けてから実行したのですが,作業中,自動車の撤去を担当している市の職員が血相を変えて飛んできて,車の撤去は所有者とのトラブルを避けるために許可を持った業者が行うので作業を中止してほしいと言ってきたのです。その許可を持った業者はその日にやってきて作業するとのことでしたが,同じ石巻市の職員でありながら,その車撤去の情報は避難所の本部の職員には伝わっていなかったのです。
このような非常時には情報がいかに大切かということを思い知らされることは,この他にも多々ありました。
まず,炊き出しの情報です。渡波小学校の炊き出しは毎日行っているのですが,近くの渡波駅や支所などでも,単発的な炊き出しが行われていました。芸能人などが行う炊き出しはニュースにもなるので,意外とどこで炊き出しが行われるといった情報が伝わるのですが,そのほかの炊き出しの情報は,被災者自身が歩いて,見聞きしないと伝わりません。せっかくの炊き出しを行ったのにもかかわらず,人が集まらなかったり,突発的な炊き出しにより,渡波小のような定期的な炊き出しが余ってしまうことがあったのです。
また,義援金に関しても金額が独り歩きして,その金額が一人当たりなのか,一戸当たりなのかというのを,炊き出しをもらいに来たお母さんたち3人が議論していたこともありました。義援金の第1次分配に関しては,石巻市のWebサイトなどを見ればすぐにわかったはずなのですが,インターネットを含めた情報インフラが災害時には機能しないため「人的被害…死亡者,行方不明者一人につき35万円。住家被害…全壊,全焼の住家一戸につき35万円。大規模半壊,半壊,半焼の住家一戸につき18万円」といった大切な情報さえも被災者に伝わらないという事態に陥ってしまったのです。このようなことから,災害時の情報伝達を改めて見直す必要性を感じました。
私は,渡波小学校での活動以外でも,避難所となっていた葬祭所「ほたる」の1階の泥かきも行いました。この「ほたる」の2階には当時20名が避難していましたが,震災直後には250名が避難していたそうです。1階の壁には,天井まであと約40センチに迫る水位に達した津波の跡がはっきりと残っていました。災害直後には,葬儀用の白装束や足袋で寒さをしのいだということです。この避難所の特筆すべきところは,厳格なルールが決められて,しっかりした組織で避難所を運営していたことです。トイレなども担当者を決めて使用していたため,仮設トイレが入った後も,土足禁止にするなど,他の避難所とは違ってとても清潔でした。また,避難者同士の仲がいいのです。聞いてみると,震災前は面識がなかった人が多かったようです。また,ここの避難所の人たちは明るいのです。泥かき終了時に夜,お邪魔して一緒にお酒を飲む機会を設けてもらったのですが,その楽しかったこと。被災地で楽しい思い出ができるとは思いもしませんでした。
一方,避難者同士がいがみ合っているといった避難所もあったようで,渡波小学校でも子どもが蹴ったボールが車に当たったという些細なことから,親同士の喧嘩に発展したり,ちょっとした言い争いで,警察が呼ばれるということもありました。
もちろん,避難所の規模などにもよりますが,こういった非常時のコミュニティのあり方,組織のあり方,その組織をまとめるリーダーの力量が大きな差をもたらすことをつくづく感じました。
5月5日に渡波小の近くにある大宮神社でお祭りがありました。瓦礫や流されてきた車に囲まれた状況でのお祭りでしたが,ボランティアの人たちも参加して,盛大なお祭りになりました。しかし,その日,御神輿が担がれることはありませんでした。津波の際,御神輿につかまって一命を取り留めたおばさんが,「来年のお祭りには是非御神輿を担ぎに来てください」と言ってくれました。
ボランティアに参加した1週間でも目に見えるように日々瓦礫が片付き,家の片付けが進んでいました。今後,数年かかるでしょうが,着実に復興へと前進していくはずです。来年の5月5日,大宮神社のお祭りでは,大きく前進した石巻の姿を見せてほしいと期待しています。