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Accumu Vol.7-8

宮沢賢治生誕百年に寄せる 「雨ニモマケズ」入門

鹿屋体育大学教授/元京都コンピュータ学院講師 児玉 正幸

はじめに

宮沢賢治

1996年は宮沢賢治生誕百年に当たる。賢治の故郷花巻市(イーハトーブ)では,盛大な記念事業が企画されている。宮沢賢治学会イーハトーブセンター主催の宮沢賢治国際研究大会(1996年8月27日~8月29日)は,そのメインイベントであろう。

宮沢賢治は今でこそ,特異な童話作家,繊細かつ深遠な宗教詩人として,国民各層に広範に愛読されているが,生前に発表された作品はわずかに2点,詩集『春と修羅』の他に,童話『注文の多い料理店』が自費出版されただけであった。賢治が若い頃から書き溜めていた膨大な原稿の残りは全て,遺作(1) となった。

その上,公表された彼の作品は2点とも,生前は世間から完全に黙殺の憂き目に遭い,彼の特異な才能が見いだされることはなかった。賢治は生前,完全に無名の埋もれ木であった。彼の異才が発掘されたのは死後で,知っての通り,草野心平や高村光太郎といった日本詩壇の大御所たちがこぞって,『春と修羅』にキラキラと溢れ返る天与の詩才を激賞したのである。思想界では,哲学者の谷川徹三が,賢治の宗教思想の高さ,深さに驚嘆したのである。

時代精神が発酵熟成する過程の中で,その真価を見いだされた賢治は,生誕百年を俟たずして既に,国民的作家の地位を確固たるものにしている。賢治文学を愛好する年齢層は,実に幅が広い。それは,宮沢賢治学会イーハトーブセンターに参集する現会員の状況からも立証されよう。

昭和生まれの一定の世代以上になると,賢治と言えば,すかさず「雨ニモマケズ」を思い浮かべることであろう。それもそのはずで,終戦直後から昭和30年代まで,「雨ニモマケズ」が,文部省検定教科書の『中等国語』によく採択されたからである。お馴染みの「雨ニモマケズ」を,以下,抜粋してみよう。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病氣ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコワガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

(賢治『雨ニモマケズ手帳』,51~9頁)。

前記作品がかつて,中学生の国語の教科書の中によく引用されて,人口に膾炙したのである。「雨ニモマケズ」の最終行は,「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の熱い祈りの言葉で,感動的に結ばれている。

けれども,「雨ニモマケズ」はカタカナ書きで一見分かりやすそうな見栄え,朗読に適した口当たりの良さとは対照的に,いまもなお,中学生が理解するには余りにも難解な作品である。「雨ニモマケズ」は,平均的な中学生の常識的理解を超越した,思想性の極めて高い作品なのである。それというのも,その作品中には,敬虔な宗教詩人賢治の理想的人間像,聖なる「デクノボー」が謳い上げられているからである。従って,賢治が熱烈な法華経信徒であったという厳粛な事実に私たちが瞑目している限り,賢治の理想的人間像,聖なる「デクノボー」の実相は決して見えてはこない。

法華経に無縁の中学生が「雨ニモマケズ」を読めば,その反応は明らかに予測がつこう。圧倒的多数の中学生はこう語るであろう。私たちは社会に貢献する人間になりたい。そのためにこそ,いま一生懸命,学業に励んでいる。「ミンナニデクノボートヨバレ」るなんて,まっぴら御免だ,と。今も昔も中学生は日々,義務教育課程の中で,共同社会への貢献度の大小だけを人間の価値評価の物差しとする競争社会に速やかに適応できるように,薫陶を受けている。彼らが常識的社会人の予備軍として教育を受けている現状から判断すれば,彼らが,「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」などと,言うはずがあるまい。

戦後長らく,当該作品の深い宗教思想的背景が全く不問に付せられていたからこそ,「雨ニモマケズ」は,代わりに種々の教育的効果を託されて,文部省検定教科書『中等国語』に採択され続けたのである。深遠な宗教思想詩「雨ニモマケズ」の安直な教科書への採用が,中学生の間に誤読を招き,結果的に歪められた賢治像を国民の間に定着させることに一役買ったという事実は,否めない。特定の教育的効果を狙った当該作品の政治的利用は戦前に遡る。

かつて太平洋戦争中に,「雨ニモマケズ」は訓話のネタとして,軍国主義教育下の政治スローガン「滅私奉公」や「欲しがりません 勝つまでは」と結びつけられて,日本全国に広められた(2)。1941年12月8日,日本が米国に宣戦布告すると,大政翼賛会文化部は早速翌春には,朗読詩集『常盤樹』に「雨ニモマケズ」を掲載して,「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」お国のために戦い抜きましょうと,国民の志気を鼓舞したのである。

終戦後も,「雨ニモマケズ」は青少年向けの作品として推奨され,戦後の物不足の時代を乗り切るための国民の精神的カンフル剤として,その効能に着目されることもあった。一時期の文部省は当時の米の配給事情に鑑みて,ご丁寧にも敢えて「一日ニ玄米四合」を「一日ニ玄米三合」と書き換える(昭和22年発行の文部省編『中等国語-①』)ほどの肝煎りであった。戦後久しく,「雨ニモマケズ」は種々の思惑のもとに,『中等国語』の教科書に採択されたのである。

戦後は,大政翼賛会的解釈から解放されて,種々の賢治論が続いたが,従来の賢治研究の弱点は,仏教的視座からの作品解明の不十分さであろう。

けれども,近年,従前の賢治研究の盲点を埋める力作が徐々に発表されてきている(3)。誠に喜ばしい傾向である。私は仏教的視座(法華経日蓮主義)に立つ賢治研究の更なる継続的深化を期待しながら,以下,聖なる祈り「雨ニモマケズ」入門を執筆することにしよう。

①「雨ニモマケズ」誤読の一例

戦時中の大政翼賛会的賢治解釈や戦後の『中等国語』の教科書版「雨ニモマケズ」が歪められた賢治像を国民の間に定着させた典型的実例として,私たちは童話「イツモシズカニ」(4) を挙げることができる。児童文学者の岡本良雄は終戦直後に,「イツモシズカニ」を公表することにより,無謀な戦争続行という国策に利用される羽目になった賢治の「雨二モマケズ」を手厳しく批判したのである。その童話の中では,「雨ニモマケズ」はパロデイ ー化されて,次のような替え歌になっている。

雨ニマケ

風ニマケ

雪ニモ夏ノアツサニモマケル

丈夫ナカラダヲモタズ

欲ハアリ

トキニハイカリ

イツモシズカニワラッテイズ

一日ニ玄米四合ト

ミソトタクサンノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニイレ

ヨクミキキシワカラズ

ソシテワスレ

野原ノマツノカゲノ

大キナ金ピカノ御殿ニイテ

東ニ病気ノコドモアレバ

イッテ看病シテヤラズ

西ニツカレタ母アレバ

イッテソノイネノタバヲウバイ

南ニ死ニソウナ人アレバ

イッテハヤク死ネトイイ

北ニケンカヤソショウガアレバ

オモシロイカラモットヤレトイイ

ヒデリノトキハ……

広大無辺な慈悲をもつ仏様なら「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」こともできようが,世俗の凡下は,そう簡単には穏やかな悟り澄ました心境に近づけるものではない。生身の人間は日常,良識と社会常識を軸に生きる中で,自然発生する喜怒哀楽を素直に小出ししていくのが,精神衛生上からも良いことである。軍国主義教育下の政治スローガン「滅私奉公」や「欲しがりません 勝つまでは」が出回った頃に,当時の庶民が「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」時代の大きなうねりに呑み込まれ,無批判的に時流に迎合する事大主義の態度をとってしまったからこそ,大東亜戦争の荷担者になってしまった。と同時に,当時の庶民はまた,無意味な戦争の被害者にもなってしまった。仏様ならぬ庶民は今も昔も,「トキニハイカリ イツモシズカニワラッテイズ」「アラユルコトヲ ジブンノカンガエヲハッキリイイ」(「イツモシズカニ」,121~2頁),正しくないことには憤慨して,健全な市民社会の建設と維持のために大いに意欲を燃やすべきである。岡本良雄はそういう自戒の気持ちを込めて,「三吉」に上記の替え歌を朗読させたものと思われる。

②「雨ニモマケズ」の宗教思想的背景

宮沢賢治

しかしながら,岡本良雄の社会常識に基づく「雨ニモマケズ」解釈は極めて恣意的で,その批判は全く的外れである。

なぜならば,賢治が『雨ニモマケズ手帳』に書き付けた「慾ハナク」(5行目)の「慾」とは,大乗仏教の説く十界(5)中の餓鬼界に対応する「貪欲(我執)」に他ならない。「おれはひとりの修羅なのだ」(6)。「春」(仏界の比喩)を目指して求道する賢治は,自己自身の中に潜む「修羅」について,26才の折処女出版した詩集『春と修羅』の中で,そのように告白している。法華経信徒の賢治はわが身に巣くう「貪欲(我執)」と戦うのであって,決して庶民の生活の向上に無関心なのではない。生活環境の改善と健全な市民社会の建設を志向する庶民の生活意欲に対して,賢治が敵対しているわけでは決してない。その証拠に,賢治は四年間に及ぶ花巻農学校の教職をなげうってまで,農民の生活向上のために捨て身の社会奉仕活動をしている(「羅須地人協会」時代〔1926~8年〕)。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(7)。この言葉が賢治の宗教的立脚点を雄弁に物語っていよう。賢治が,

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラツテヰル

(6~7行目)

のは,地獄界に対応する瞋恚(しんに)(怒り)の否定であって,仏道修行の一環なのである。「瞋恚を生ぜず」即ち,「不生瞋恚」(ふしょうしんに) とは,「不軽菩薩」(ふぎょうぼさつ)の修行方法なのである。「不軽菩薩」道とは,行者が「不生瞋恚」の仏道修行に励むのはもとより,よしんば「衆人或は杖木瓦石を以て之を打擲」(「常不軽菩薩品」『法華経』)される事態に陥っても,なおかつ万人の心に眠る仏性を信頼しきる修行方法である(8)

あるひは瓦石さてはまた

刀杖もって追れども

 (「追れども」は「迫れども」の誤記)

見よその四衆に具はれる

仏性なべて拝をなす

不 軽 菩 薩

(『雨ニモマケズ手帳』,121~2頁)

賢治にとって,その仏道修行を模範的に実践した人物が日蓮であった。忍辱行(にんにくぎょう)(侮辱を忍受して衆生を救済する利他行)に精励する日蓮を師と仰ぐ賢治は,純粋無私の行者なのである。

従って,「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰル」のは,煩悩の三毒(地獄界・餓鬼界・畜生界に対応する瞋り・貪り・愚かしさ)から解毒された状態を理想とする行者,賢治の到達目標であった。

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

(14・15行目)

というのも,身延山の松林に庵を結んだ日蓮を想起して,驥尾に付したいと願う,賢治の願望の発露であろう。賢治は実際に,法華経信仰の道を行じるために,下根子桜の寓居に「羅須地人協会」を設立して農民運動に挺身,肋膜炎で病臥するまでの2年5ヵ月間(1926年4月~1928年8月),そこで独居,自耕自炊生活をした。その後,衰弱した病身を抱えながらも法華経信仰に生きる賢治はなおかつ,「北上峡野ノ松林ニ朽チ 埋レンコトヲオモヒシモ 父母二共ニ許サズ」(9)(『同手帳』〔二頁〕)(父母二共ニ」は(父母共ニ」の誤記),と手帳に記して(1931年),松林の中の萱葺きの小屋で信仰を軸にした生活を願い続けた。賢治は,病床にあっても,身延山中の日蓮を追想しながら道を行じる理想の実現を希求した。涙の谷間を歩む旅僧,菩薩道に生きる賢治は,いわば,晩年の芭蕉さながら,「旅に病(やん)で 夢は枯れ野を 駆 け廻(めぐ)る」(10)状態であった。彼の願いが,

東ニ病氣ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコワガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

(16~23行目)

という次第になるのは,賢治の信仰からして,当然の帰結であった。当該部分を詩的作品として味わう限り,中村稔が指摘する(11)ように,確かに東西南北の対偶法や,「病気ノコドモ」,「ツカレタ母」,「死ニサウナ人」と続く観念の並列には,少々鼻をつく作為が感じられて,「春と修羅」に溢れ返る天性の詩人のナイーブな感性が影を潜めている。「雨ニモマケズ」では既に,「春と修羅」の「詩人の魂は振幅をとめてしまっているのである」(12)。その通りである。だが,これは詩ではない。晩年の宮沢賢治が病床で密かに手帳に書き残した僅か30行の「雨ニモマケズ」(1931年11月3日付)は,他人に読ませるものではなくて,自戒用の祈りの言葉なのである。

対句は仏典の特色の一つである。東西南北の対偶法は「病老死生(生老病死)」の四苦に対応している。賢治は四苦を積極的に引き受ける「不軽菩薩」道を憧憬する立場から,行道に通じる「行ツテ」をここに3回リフレインしたものと思われる。賢治がまた,

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

(24~5行目)

続けるのは,彼自らが「グスコーブドリ」(『グスコーブドリの伝記』)のように東北地方の農村(岩手県花巻)を活動拠点とする,農民の心の友であり,夏の干魃と冷害対策に心を砕く農業技術者でもあったからである。一度は覚悟の遺書をしたためたほどの不治の病の中にあってもなお,「法を先とし 父母を次とし 近縁を三とし 農村を最后の目標として 只猛進せよ」(13)(1931年10月29日付)(『同手帳』,45~6頁),と自己を鼓舞する賢治の究極的理想像は,「デクノボー」即ち,現代の「不軽菩薩」であった。賢治が「雨二モマケズ」を,

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

(26~30行目)

と締めくくるのも,賢治の生活の機軸となっている法華経日蓮主義の視座に立てば,理の当然であろう。

快楽もほしからず

名もほしからず

いまはただ

下賤の廢躯を

法華経に捧げ奉りて

一塵をも点じ

許されては

父母の下僕となりて

その億千の恩にも酬へ得ん

病苦必死のねがひ

この外になし

(1931年10月28日付)

(『同手帳』,37~40頁)

病床でそのように手帳に草した賢治は,その2年後に,幽冥,境を異にした。享年37才であった。

以上の簡略な分析から,「雨ニモマケズ」の宗教思想的背景が多少でも透視できた者には,戦後の文部省検定教科書によく採択された「雨ニモマケズ」を中学生に理解させようとする試みがいかに無謀にして無思慮な判断であったかが,理解されよう。

ことほど左様に,童話作家賢治の文学は,法華経の素養なくしては決して理解されない。それでもなおかつ,賢治の法華経文学に疑念を持つ向きには,次の賢治の覚え書きを熟読玩味して頂きたい。

   ◎高知尾師ノ奨メニヨリ

  1. 法華文学ノ創作

       名ヲアラハサズ,

       報ヲウケズ,

       貢高ノ心ヲ離レ,

  2. 

     奉 安

     妙 法 蓮 華 経 全 品

     立正大師滅后七百七拾年

     (『同手帳』,135~6頁)

       *

     筆ヲトルヤマヅ道場観

     奏請ヲ行ヒ所縁

     仏意ニ契フヲ念ジ

     然ル後ニ全力之ニ従フベシ

 

     断ジテ教化ノ考タルベカラズ!

     タゞ純真ニ法楽スベシ。

     タノム所オノレガ小才ニ非レ。

     タゞ諸仏菩薩ノ冥助ニヨレ。

     (『同手帳』,139~140頁)

(1)賢治は永眠する一両日前に,遺稿の取扱いに関して,父政次郎と母イチ,弟の清六にそれぞれ遺言している。父に対しては,「原稿は私の迷いの跡ですから,適当に処分してください」,と言い残した。それに反して,母に対しては,「この童話は,ありがたいほとけさんの教えを,いっしょけんめいに書いたものだんすじゃ。だからいつかは,きっと,みんなでよろこんで読むようになるんすじゃ」,と自分の信念を述べ(「年譜」『校本 宮澤賢治全集』第14巻,筑摩書房,715頁),弟に対しては,「この原稿はみなおまえにやるから,若し小さい本屋からでも出し度いところがあれば発表してもいい」,と賢治は出版の望みを託した(「兄賢治の生涯」『兄のトランク』〔ちくま文庫〕,265頁)。

賢治が家族3人に託した遺言の相反する三様の内容に,「デクノボー」(不軽菩薩)を希求しながらもそれになりきれない人生の旅僧,青黒き「修羅」道を歩み続けた賢治の真っ正直な求道一筋の姿が,滲み出ていよう。

(2)西田良子「雨ニモマケズ論」『宮澤賢治論』桜楓社,昭和56年,166頁。

(3)「<雨ニモマケズ>」を初めて仏教的視座から解釈したのは,佐藤勝治(『宮沢賢治入門』十字屋書店)。その後,八重樫昊編(『宮沢賢治と法華経』普通社)や分銅惇作(『宮沢賢治の文学と法華経』水書房)を経て,最近では,岡屋昭雄(『宮澤賢治論-賢治作品をどう読むか-』桜楓社)や龍門寺文蔵(『「雨ニモマケズ」の根本思想』大蔵出版),小松小衛(『雨ニモマケズ-宮沢賢治の世界-』保育社)が同視座に立つ。

(4)岡本良雄「イツモシズカニ」『らくだい横町-岡本良雄著作集-』フレーベル館,昭和45年,98~122頁。

(5)六道(地獄〔瞋恚〕界・餓鬼〔貪欲〕界・畜生〔愚痴〕界・修羅〔嫉妬・闘争〕界・人間〔平和〕界・天上〔喜悦〕界)輪廻に四界(声聞〔導師のもとに開悟する人〕界・縁覚〔ひとり深山幽谷に籠もって自利行に励み,開悟する人〕界・菩薩〔衆生救済の利他行に励む求道者〕界・仏〔永遠の生命に融合した開悟の人〕界)を付加する十界思想は,大乗仏教の天台教学に淵源する。天台宗では,法華経の一切成仏思想に則り,十界の各々に十界を有する(十界互具)と説く(『摩訶止観』)。十の意識界が相即不離の関係にあって,人間の意識は絶えず十界を駆け巡っていると考えた宗教者に,天台大師智ギと日蓮がいた。

(6)「春と修羅」『前掲全集』第2巻,21頁。

(7)「農民芸術概論綱要」『同上』第12巻(上),9頁。

(8)この不軽菩薩道をデクノボー道と同一視する根拠として,『雨ニモマケズ手帳』手記の戯曲「木偶坊」メモ(71~4頁)(「土偶坊」は「木偶坊」の誤記)と「不軽菩薩」の草稿(121~4頁)を参照。

(9)『前掲全集』第12巻(上),27頁。

(10)日本古典文學大系『芭蕉句集』岩波書店,1962年,216頁。

(11)中村稔「<雨ニモマケズ>について」『宮澤賢治』筑摩書房,1972年,193~4頁。

(12)「同上」,195頁。

(13)『前掲全集』第12巻(上),42頁。

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上記の肩書・経歴等はアキューム7・8号発刊当時のものです。