私は,高等学校卒業後,1976年に京都コンピュータ学院(現洛北校)の情報工学科(全日制3年)に入学しました。当時描いていたコンピュータのイメージは,大型冷蔵庫のような大きな筐体に沢山の小さなランプが取り付けられ,それが規則正しく点滅し,どんな計算でも瞬時に答えを出してくれるSF世界そのままの万能機械で,まさに憧れでした。そのコンピュータが学べるということで,学院への進学を決めました。学院では,その当時より大型コンピュータをはじめ全ての実習機器が学生に開放され,自由に利用できる環境でした。校舎は,夜遅くまで学生たちが自由実習を行うなど活気に溢れていて,課題提出締切り前になると,カード・パンチ機の順番待ちをしたことなど,懐かしい思い出となっています。
学院卒業を前にした時期に,学院の教職員の方から学校に残らないかと誘いを受け,学院長先生と直接お話ができる機会を作っていただきました。今でも覚えていますが,夜の8時頃に洛北校舎に赴くと,先生は,将来,学院をどのように発展させたいかというビジョンを,一学生の私に対して約1時間にわたって熱心に語られました。私は,すっかりあがっていたと思います。唯一,話の終わりに,「学院でどんなことでもやりたいと思います」と言ったことと,それに対して先生が,「がんばりなさい」と言ってくださったことは,鮮明に覚えています。私は就職活動において,ソフト会社から内定をいただいていましたが,学院に残りたい旨をご理解いただき,結局,学院でお世話になることになりました。
入校と同時に,私は,浄土寺校舎に配属となりました。当時は,学校法人の認可を受ける直前の時期で,私の最初の仕事は,学校法人の認可申請書類の作成をお手伝いするというものでした。その頃は,まだワープロもなく,申請書類は,手書きでも構わないとされていました。しかし,先生は,全ての申請書類作成を活字印刷で行うようにと指示されました。その時は,なぜそのようなことにこだわるのか,私はわかりませんでした。最近,業務の関係で,私が作成に加わった当時の書類を見る機会があり,きれいに印刷されたその書類を見て,初めてその意味がわかったような気がしました。20年,30年と後世に伝えていくべき文書だったからこそ,先生は,印刷にこだわられたのだと思います。
また先生は,細部をとても大切にされる方でした。印刷原稿を先生に確認していただく際には,修正箇所が1mmずれていても,鋭く指摘されました。当時は,私も若く,なぜこんな細かいことにこだわるのかと,その過酷なまでの厳しい姿勢に疑問さえ抱きました。しかし,今となって思うのは,そうした姿勢は,理想の学校を創るという先生の強い意志の現れであったということです。先生は,よく教職員を前に壮大なビジョンを話されることがありました。それが,単なる大言壮語に終わらず,現実の学校創造につながったのは,そのビジョンを細部に至るまで現実化されたからだろうと思います。全くの無から,新しい学校を創造するという大事業を先生が成し遂げられたのは,徹底して細部にこだわる姿勢にも,その秘密の一端があったのではないかと私は思っています。
1980年代に入り,学院は急激な成長期に入りました。それにつれて,私たち教職員の業務も多忙となっていき,週に2~3日は深夜に及ぶこともありました。そうしたなかで,陣頭指揮をとられ,常に学院の発展を考え,理想の学校創造に全人生を捧げておられた先生の姿は,学院教職員の手本でありました。また,仕事のうえで注意を受けることは度々ありましたが,注意をする方法も,論理だてて説得するという姿勢を常に持たれていました。そのため,注意も一言で終わらず,そこから延々と話が始まるということも度々ありました。当時の教職員は若い方が多く,私と同様に学院や大学を卒業と同時に教職員となった方がほとんどでした。そのため,悪く言えば学生気分のままで,社会人としての常識不足な点があったようにも思います。今から思えば,先生は,仕事を通じて,私たち教職員に対して,社会人として,また学院人としての教育をされていたのでしょう。
また当時,先生が仕事場としておられた高木町教室に,書類などを届けに行くと,玄関先まで出迎え,「ご苦労さん。ご苦労さん。」と声をかけてくださることも度々ありました。普段から,飾り気はなく,いつでもストレートな方でした。私生活では,TシャツにGパンというラフなスタイルを好まれていたようです。仕事は,今から考えてもかなりハードなものでしたが,私が曲がりなりにも頑張ることができたのは,先生のお人柄に惹かれていたからだろうと思います。そのため,先生との離別は,私にとって辛いものでした。
1986年,これまで超人的な仕事ぶりで私たちを引っ張ってくださっていた先生が,突如入院されました。7月1日,上司から他の教職員とともに,先生の容態も知らされないまま,お見舞いにいくよう指示を受けました。入院先である浜松の病院に着くと,その日は,車のなかで一晩を過ごしました。翌日の午後,「学院長が,危篤なのですぐに病室に来るように」と呼ばれました。私はわが耳を疑いました。まさか先生が,そのように深刻な病状であるとは思いもしなかったのです。あまりの突然の言葉に,動転した私たちは,病室でその事実と向き合わされました。言葉のない別れでした。
私にとって,学院長先生は人生の師でした。高校卒業以来,今日に至るまでの私の人生を導いてくださった唯一の師でありました。先生がご逝去された後も,時々先生の言葉を思い出し,ふとその深い意味に思い当たる瞬間があります。ずいぶん私も学院長には鍛えていただいたと,今では,その当時を懐かしく思います。
私は日々齢を重ねていきますが,私の中で,先生は情熱と超人的な仕事ぶりで,理想の学校創りに邁進されていた頃のお姿のままで,今でも私を叱咤激励してくださっています。