2002年8月26日から9月4日にかけて,南アフリカ共和国・ヨハネスブルグにて,「国連持続可能な開発のための世界会議」が開催されました。期間中,世界中の首脳,市民,NGO,企業,マスメディア関係者,約6万5千人が集まり,地球環境の保全を踏まえた上での「持続可能な開発」の実現に向けて,解決されなければならない様々な問題についての会議が行われました。
8月21日から9月6日までの私の南アフリカ滞在は,今回の会議が南アフリカで開催されたことの意義を感じさせられた17日間でした。8月21日の早朝,私達は空港に降り立ちました。当初「南アフリカ=暑い」という短絡的なイメージがあったのですが,アフリカ大陸最南端の喜望峰に近いヨハネスブルグはまだ初春で肌寒く,街を歩く人々の中にはコートを羽織っている人もいました。ヨハネスブルグという土地は,金鉱発掘で栄えた南アフリカ第一の商工業都市で,移動中の車窓からは発掘中の鉱山やそれを加工する工場などがあちこちに見えました。
本会議場の近くには,アパルトヘイト(人種隔離政策)時代,黒人居住区であったソウェト地区やアレクサンドラ地区(かつてネルソン・マンデラ氏が居住していた)などのスラム街が,白人高級住宅街と隣接しており,アパルトヘイトが撤廃された今でも,多くの黒人の貧困層の人々がこの地区に密集して生活していました。世界の経済格差の縮図が,ここにあったのです。
私が滞在していたのは,セイント・セシアン大学というアメリカの大学を思わせるような広大な土地に建てられた大学の学生寮で,寮内にはコンピュータ室,娯楽室などがあり,窓からはフットボール場,サッカー場が見渡せました。毎日,そこから,車で本会議が行われるサントン(Sandton),NGOのネットワーク,イベント,ロビーイングなどが行われるナズレック(NASREC),そして様々な国やNGOのパビリオンがあるユブンドゥ村(Ubuntu Village)まで移動し,各自担当の会議を傍聴し,寮に帰ってきてから,自分の参加した会議と活動を仲間に報告するといった日々でした。
最初に行われた環境会議は,1972年,スウェーデンのストックホルムでの,「国連人権環境会議」で,このとき環境問題は国境を越えて考えていかなければならない問題として,環境国際協力のための組織UNEP(国連環境計画)が発足しました。UNEP本部はケニアのナイロビにあり,現在でも国連内で,環境問題の活動を継続して行っており,これまでオゾン層の保護,有害廃棄物の輸出監視,温暖化防止などの活動を主導してきました。その後,この会議の決議をもとに「人間環境宣言」が提出されました。
その20年後の1992年には,ブラジルのリオ・デ・ジャネイロでの国連環境開発会議(通称:リオサミット,地球サミット)が開かれました。このときに,持続可能な世界を築くための具体的なガイドラインである「アジェンダ21」が取り決められたのです。この「アジェンダ21」には,地球環境を守るための40分野にわたる1000を超える具体的な行動計画が盛り込まれており,同時にそれらが計画通り行われているかどうかを評価する国際機関も設置されることになりました。
「リオサミット」から10年後にあたる今回の会議のテーマは,先の「アジェンダ21」での具体的な取り決めをどう実現に結びつけていくかということでした。しかしながら実際のところ,この10年,世界は「アジェンダ21」の目標の達成はおろか,色々な面において状況は悪化しています。
地球温暖化問題については,「気候変動枠組み条約」における世界の炭素排出量は1992年と比較すると,9.1%も増加しています。この数値はEUやロシアでは減少している一方で,日本(+10.7%),アメリカ(+18.1%),オーストラリア(+28.8%)などの国々が増加させており,これが状況悪化の主因となっています。これが,今回の会議が「リオプラステン」ならぬ「リオマイナステン」と呼ばれる理由でもあります。
また,世界の経済格差はますます広がり,1992年に12億人と推定されていた貧困層は,2000年には15億人に増加しました。現在,地球上の限られた資源の約5分の4を,地球全人口のわずか5分の1にあたる先進国(日本,アメリカ,西ヨーロッパ等)の人々が使っているという現状があります。現在の世界人口は約62億人ですから,残りの約48億人の人々が地球資源の5分の1を分け合っているということになります。その中には,1日1ドル以下で暮らす12億人の人々も含まれています。これらの資源の不平等な分配が,貧困,経済,そして衛生などあらゆる問題の根底となっているのです。急速な経済成長を遂げた国の陰には,一部の富裕層の人々のために資源を搾取され,毎日の生活を脅かされている貧困層が存在するのです。このように,現在,不均衡に分配されている資源を,均等にかつ公正に分配するためにはどうしたらいいのかを話し合うのが今回の会議の目的でした。
今回の会議での焦点は,「持続可能な開発」を社会,経済,環境の三つの側面からいかに実現に結びつけるかということであり,具体的なテーマは次の五つでした。
1. W=water(水)
2. E=energy (エネルギー)
3. H=health(健康)
4. A=agriculture(農業)
5. B=biodiversity(生物多様性)
これらの問題について,いかに具体的な目標設定,タイムフレーム,実施方法,財源,組織,モニタリングと報告,強制,遵守などの行動計画を取り決めることができるかどうかが,この会議の成功失敗の分岐点になるといわれていました。
この中でも,特に今回の会議で重要な課題であったのが,水の問題です。現在,地球上の約10億人の人々が清潔な飲み水を得ることができていません。その原因は人口の増加だけでなく,近代化,つまり都市化と工業化という二つの点にあると言われています。農業用水より都市用水,工業用水の需要のほうがはるかに速いスピードで伸びているのです。この会議での水に関する各国の最終的な合意は「2015年までに,安全な飲み水と十分な衛生環境を得られない人々の数を半減させる」というものでした。
この合意に最後まで反対し続けていたのが,アメリカ合衆国でした。その理由は,アメリカをはじめとする欧米諸国の一部企業が水不足をビジネスチャンスと捉え,水資源を独占しようとして「水の民営化」を推し進めていたからです。これは世界の多くの地域の水不足をさらに悪化させることになります。人間の生命維持に必要不可欠である水を商品化するということは,貧困層の人々に水を与えない構造を作りだし,間接的な殺人を犯すシステムをつくることになります。また,同じく水を必要とする人間以外の生命体に対しても,地球環境よりも経済,つまり自然保護よりお金が大事だという論理でその存続を危険に晒してしまうことになります。このためアメリカは,OPEC諸国,カナダ,日本そして大企業によるロビー活動からの強い反発を受け,完全に孤立しました。そして最終的には,譲歩せざるを得なくなりました。
また,世界会議の開会式がNASRECで行われた8月26日と同じ日,ヨハネスブルグの街で,市民による大きなデモ行進が行われました。これには,地域住民やローカルNGOだけでなく,世界中から集まっていたNGOの人々も参加し,全長1キロメートル以上にも及ぶ大規模なものとなりました。行程はアレクサンドラのスラム街を出発し,世界の首脳達の会議場であるサントンの前を通って,再びアレクサンドラに戻ってくるというものでした。この時の彼らの「No Privatization for Water!(水の民営化反対!)」という叫び声は,まるで,この会議に参加すらできず,貧困に苦しんでいる世界中の多くの人々の声を代弁しているかのように聞こえました。この声が各国の首脳達に届いたのかどうかはわかりませんが,水問題は,他の問題と比較すると,より具体的な決議を得ることができました。この「2015年までに,安全な飲み水と十分な衛生環境を得られない人々の数を半減させる」という決議を,代表者が国に持ち帰り,自国でどれだけ包括的かつ効果的な法案を作成し,実践に移せるかというのが,これからの課題だと思います。
具体的なタイムフレームと実施目的が比較的明確に示された水問題とは反対に,ほとんど進展が見られなかったのが,エネルギー問題でした。これは,アメリカが,水問題で譲歩する代わりに,エネルギー問題では全く妥協しなかったからです。エネルギー問題の最終合意は「太陽,風力,波力発電などの再生可能なエネルギーを各地域,各国が自主的に促進する」という,あいまいなものとなってしまいました。ここには,具体的な目標年もなく,各国のエネルギー供給量の何パーセントを再生可能なエネルギーに変換するかという数値も記載されず,また地球温暖化の原因となっている原子力発電や石炭,石油,天然ガスなどの化石燃料などを規制するための記述も省かれてしまいました。
ブラジルをはじめ,多くの中堅国家が積極的にエネルギー問題に取り組んでいる中,これに最後まで強く反対し続けたのが,またもや世界第一のエネルギー消費国であるアメリカ合衆国でした。アメリカ合衆国は地球温暖化防止のための「京都議定書」からも離脱しており,環境問題を真剣に考えているとは思えない態度が各国の首脳陣やNGOの人々の顰蹙(ひんしゅく)を買っていました。
9月4日,本会議の最終日,各国の首脳が最終演説をする中,アメリカの代表として会議に参加していたパウエル国務長官が演説した時のことは,今でも忘れられません。
彼の名が呼ばれ,演説台に上がった瞬間に湧き上がったブーイング。それと共に,最後方のNGO団体のために用意された席の上に,何枚も掲げられた抗議メッセージ入りのプラカード。アメリカの行動とはあまりにも掛け離れている演説に,会場全体から湧き上がる足踏みの音。そして,演説の後,起こるはずの拍手はなく,会場全体に広がる静寂。そして静かに演説台を降りるパウエル氏の後ろ姿はもはや,世界のリーダーと呼ばれ,最大の経済力,軍事力を持つ国の代表のそれとは思えませんでした。そこに,私が今までに見たことがなかった,アメリカという国の一面を見たような気がしました。世界中から非難を受け,孤立する国,アメリカという姿を。
環境問題とは産業大国,経済大国こそが真剣に取り組まなければならない問題なのです。経済力がある国ほど,他国への影響力は大きく,それだけ環境問題への責任も大きいと思います。大国の環境への影響は,小国のそれとは,比較にならないのです。限りある資源を分配しようとする時,他者を顧みず自分の経済的利益のみを追求すれば,その犠牲になるものが必ず生まれます。グローバリゼーションが進む世界で,一部の経済先進国が資源を独占してしまえば,その裏でお金も資源もない国の人々の生活は,自ずと脅かされるのです。
2003年3月16日から,京都を中心とした関西地区で第三回世界水フォーラムが開催されました。ここで世界中の政府関係者や企業,環境NGO,市民団体が集まり,水問題や将来の水資源のあり方について話し合いました。明治時代には琵琶湖疎水を造成し,日本で初めて水力発電所を建設した場所としても知られている京都。この地で世界中の人々が,水資源について話し合ったことは,大変意義深いことだと思います。
経済大国と呼ばれる日本。日本に住む私達が環境問題に対してできることは,一人ひとりが資源の問題,環境問題を真剣に捉え,それぞれの生活や仕事の中で,何ができるかを考え,実際にできることから行動していけばよいのです。つまり,とても簡単なことなのです。そして,その私達の小さな心がけの積み重ねが,資源の不均衡な分配を軽減し,地球のどこかに住む誰かの命を救うことにつながるのではないでしょうか。
①「身近な環境から,世界での環境に対する情報まで」ペオ・エクベリ著 (2002)
http://www.kankyo-web.net/feature/backno/f_fd007.html
②「持続可能な開発に関する世界首脳会議について」外務省 (2002)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/wssd/kaigi.html
③「リオサミットから10年―今こそ,実行する意思が問われている」北沢洋子著 (2002/7)
月刊オルタ アジア太平洋資料センター(PARC)
④「ワールドウォッチ研究所 地球環境データブック2002クリストファー・フレイヴィン編著 (2002)
家の光協会
⑤「水は誰のものか?」佐久間智子著 (2002)
People Tree.
⑥Summit Report Card - Blueprint to save Earth - (September 5, 2002 Local Newspaper in S. Africa.)
The Star (2002)
⑦Human Development Report 2002 Deepening Democracy in a Fragmented World. Oxford University Press. New York.
UNDP (2002)
⑧第3回世界水フォーラムとは
http://www.kkr.mlit.go.jp/water/yokoso.html