私は高校生の時代,長谷川繁雄先生と靖子先生に和文研セミナーでご指導いただきました。和文研セミナーはいわば京都コンピュータ学院の前身。みなさんは私の後輩ということになりますね。繁雄先生の命日に,このような時間をいただいて光栄に思っております。
みなさんは年齢的にも,長谷川繁雄先生に会ったことはないでしょう。まずは繁雄先生の簡単な経歴をご紹介します。繁雄先生は1929年11月15日に兵庫県明石市でお生まれになりました。京都大学文学部に進まれ,最初はドイツ文学,そしてフランス文学,哲学を学ばれました。純粋に「文学」に向き合い,幅広く研鑽を積まれたといえます。当初は文学者になろうと思われていたそうですが,いろいろな経緯があり,もうひとつの夢である若い後進を育てたいという教育者の道に進まれ,1957年,奈良県吉野郡の川上第三中学校の先生になられました。当時の写真を拝見すると,格好はおしゃれですよね。
大学を出た後は,自らが理想とする教育の実践を目指したわけです。私が繁雄先生に「理想の教育とは?」とお尋ねしたところ,吉田松陰による「松下村塾」にあるとおっしゃっていました。この村塾出身の英才が明治維新を実現させたのはみなさんご存じの通りですね。具体的には「個々の才能を見つけ出し,育て上げるのが私の理想」と話されていました。このように「教育の革新」を目指されていたのですが,教育委員会など既 成の教育制度に縛られてかなわず,3年経った27歳のとき,中学校教諭を退職されました。自分の理想が実現できないと道をすぐ切り替え,目標実現に向かっていくという姿勢は素晴らしいと思います。
この後,靖子先生の出身である和歌山に移って「和歌山文化研究会(和文研セミナー)」を始められました。このときにつくられたのが「京大親学会」。創立の目的は,京都大学は偏差値が高く難関だから目指そうという意味・理由だったのではありません。京都大学は自由と革新に満ち溢れていて,純粋にやりたいことをやれるというアカデミックな大学。そのような大学に進めば勉強だけでなく人生も充実するのではないのかという理由だったと聞いています。京都大学に進み,充実した人生を切り拓くためにはまず,自分は何になりたいのか,何をしたいのか努力する目標を明確に考えようと15歳の高校生たちに強調されていましたね。私もよく相談に乗っていただきました。
当時は第二次世界大戦が終わり,大規模な予備校が出現した時代。大規模予備校は効率的な教育により全体的に偏差値を上げようということばかりを目指していたようですが,和文研セミナーは,これとは相反し,目が届く範囲の規模で個別に一人ひとりに対応していました。繁雄先生は「誰でも努力すればかなう」と言われていました。でも先生がおっしゃる「努力」とは夜遅くまで勉強する,テクニックを身につけるということで はなく,自分を高めようという強い意志を持つことだと強調されていました。
和文研セミナーは,和歌山県の最北部にある旧和歌山一中・桐蔭高校近くのお寺の境内の中にあり,桐蔭高校生用のバラックのような 塾。ここで繁雄先生が英語を,靖子先生が数学を教えていました。私は高校1年からこの塾に通いました。英語の時間には「エドガー・アラン・ポー」の「アッシャー家の崩壊」という,文学者が読んでも難しいとされる原本を渡されたのですよ。繁雄先生は,これに何が書いてあるか言いなさいと。当時私は中学で英語の文法の初歩程度しか学んでいなかったので,びっくりでした。なぜそんな難しい教材を準備したのかを後で聞いてみたところ,先生はそれをスラスラ訳すことを期待していたのではないといいます。繁雄先生の教育哲学として,何でも自分のレベルのワンランク上のものに挑戦することによって深く考える,そうすることによって自分の今のレベルを知ることができると強調されていました。
繁雄先生はまさしく「文学青年」でした。言葉をよく知っている,考えていることをちゃんとした日本語で相手に伝えられるという方。ドイツ文学,フランス文学,哲学のみならず音楽も堪能で,いつもピアノをひいていらっしゃいました。非常に教養のある方でしたね。ベルレーヌやランボーの詩などの本をよく読まれ,さらに反社会的なレイモン・ラディゲ,サルトルとボーヴォワールらの作品も好まれました。ここで別の話をしますと,パリ大学で優秀なサルトルとボーヴォワールは,公正でかつ平等な関係で結ばれていた理想のカップルだったそうです。私は,繁雄先生と靖子先生に重ね合わせています。
繁雄先生は詩を読んだりピアノをひいたりと,ちょっと弱々しいイメージを持たれたかもしれません。でも実は日本男児的なところがありまし た。いつも下駄をはき,腰には汚い手ぬぐいを提げ,義理と人情に厚い方でした。礼儀も正しいし,無責任なことをしたら大変怒りました。柔道も得意。青白い文学青年の中に一見矛盾するようなところを持ち合わせていると思われるかもしれませんが,繁雄先生の中ではちゃんと溶け合っていました。人間として,教育者として,あるいは男性として強烈な個性をお持ちの方でした。表現するなら「非常に強烈で人間味あふれる反骨の人」といったところでしょうか。
繁雄先生の教育理念は▽人とのつながりを非常に大切にする~当時高校生だった私たちからも学ぼうとする姿勢,対等な関係で学生と接しようとする▽学校経営は商売でない~経済的に厳しかった私の友人には「授業料はいらないし学校に来なさい」と言っていたほど▽目の届く範囲の規模での個別対応~試験,面談をしたうえで受け入れる。それが先生の主義▽一人ひとりの才能を見いだし開花させる原則を貫く―などでした。
当時の日本人としては進んだ考えをお持ちの文学青年と宇宙物理学者の女性の二人がやっていた和文研セミナー。塾としてはある意味古くさかったかもしれませんが,松下村塾のように,礼儀を重視するなど非常にきっちりしていたと思います。お二人からは,「師」とは決して絶対的存在ではなく先生と生徒の関係は平等ではあるけれども敬う気持ちがないとうまくいかないということを学びましたね。
「京大親学会」の目標のひとつとして繁雄先生は「まず京都を知りなさい。京大を単なる大学としてみてはいけませんよ」とおっしゃっていました。高校三年生のときには,京都の平安予備校の夏季セミナーに参加するように言われ,百万遍にある知恩寺の塔頭に寄宿しながら通うことになりました。ところが繁雄先生は「予備校には午前中だけ行けばよい。それよりも京都を知りなさい」とし,午後からはカメラを提げた先生と一緒に嵐山へ行ったり,ボートに乗ったりしたのですよ。「和歌山の同級生は必死で受験勉強しているのにいいのかな」と心配に思ったこともありましたが,先生の「社会勉強をしっかりしなさい」という言葉に従いました。そして私は翌年春,無事,京大に合格できました。
私が京大に入ったころの日本は,戦後の発展途上,激動の時代でした。安保闘争では学生が社会の改革のリーダー。早稲田,中央など私立大学を皮切りに,東京大学など国立も含め日本のほとんどの大学で紛争が繰り広げられ,1968,69年がピークとなりました。学生が機動隊と衝突し,東京大学の安田講堂での闘争では入学試験も中止されたほど。しかしその後,大学紛争は終焉,成熟期,転換期を迎えました。繁雄先生が学校創立にご尽力されたのはこのころ。コンピュータが次代の中心になっていくと見抜かれていたこともあったのでしょう。1963年にできたFORTRAN研究会を母体に,69年には39歳の若さで京都コンピュータ学院を設立,いまの洛北校の場所に開学しました。
繁雄先生と靖子先生は,教育の理念として「テクニックではなく,学問的な性格を重視しましょう」「理論をおろそかにせず,本格的な教育をしましょう」を掲げられました。具体的には▽コンピュータ技術は非常に移り変わりが激しい。その進歩・発展に対応できるようフレキシブルな教育をしよう▽イマジネーションのある能力を身につけさせよう▽計算機がすべてではなく,人格の形成を重視し,人間力のある人材を育てよう―ということですね。「教える側から学ぶ側への一方通行ではなく,学生さん一人ひとりの個性を重視し対話型の教育を進めていきたい。施設は学校が責任を持って保証する。志を持った学生たちのやる気に最大限にこたえていきたい」。まさにお二人の理想の実現だったといえます。
人生を振り返ると,私には三人の師がいます。今まで紹介してきた「男の先生」繁雄先生,桐蔭高校・京都大学理学部宇宙物理学教室の先輩である靖子先生,そして京都大学でめぐり会った上野季夫先生(元理学部教授)。上野先生は1911年2月26日生まれで来年百歳。京都コンピュータ学院でも以前,情報科学研究所の所長を務められていました。上野先生のご専門は宇宙物理学の「星の大気における放射伝達方程式の解法」。宇宙物理学の中でも当時は地味な分野とされていましたが,今,地球温暖化の問題で脚光を浴びている学問分野となりました。
京都コンピュータ学院設立後,私も一時期,教壇に立っていたこともあるのですよ。その後私は1975年に金沢工業大学へ赴任することになり,京都コンピュータ学院とはしばらくの間,疎遠になっていました。そうしたら約10年後のある日,訃報を聞いて大変驚きました。茫然としました。半年ほどお会いしていなかったので,大きな悔やみもありました。なぜ疎遠にしてしまったのだろうと。
私は若いころ,繁雄先生と靖子先生と出会えたことが大きな財産です。繁雄先生は今でもみなさんに「技術ばかりに偏らない幅広い教養を持った創造的な人間になれ」と語り掛けていることでしょう。
閑堂忌日本初のコンピュータ教育機関・KCG の創立者であり,初代学院長の長谷川繁雄先生。ユートピアとしての学校創造にまい進,KCG 創立後も自ら教壇に立ち,同時に専門の文学の研究に励んでこられた。長谷川繁雄先生のリーダーシップによりKCGは大きく発展,コンピュータ技術・知識を身につけた多くの卒業生を世に送り出し,日本の高度情報化社会を支えるに至った。しかし1986 年7月2日,56 歳で永眠。KCG ではこの日を「閑堂忌」と名付け,KCG 関係者一同が長谷川繁雄先生の遺徳をしのび,先生の精神と情熱をあらためて思い起こす日として,墓参や記念講話など,さまざまな行事を開いている。 「閑堂」とは,先生の学生時代の恩師である禅僧・持田閑堂氏から,そのお名前を号として授けられた。「世俗から離れ,瞑想にふける閑静な空間」の意味。 |