上野季夫先生が百歳の誕生日を迎えられた。まず心からお祝いを申し上げ,先生と私との交流に思いを馳せ,いくつかのエピソードを拾い上げた。まさに「邂逅」と「別離」が繰り返された50年の歳月であるが,そこにはKCG創立と発展の歴史の裏側のエピソード がちりばめられている。
私は昭和32年,父の突然の死に見舞われ,郷里・和歌山へ帰り,弟と妹の学費と自身の生活費捻出のため,貸医院業と私塾経営で働いていたが,もとより和歌山に定住する気はなく,京都へ戻り,研究生活を続けたいという思いは片時も脳裏から離れなかった。
昭和35年,かなりタイトなスケジュールではあったが,修士課程の研究生としての生活をスタートさせるため,宇宙物理学教室の上野季夫先生を訪ねた。しかしその時私は,長男を身ごもっており,他の学生のように充分な研究時間は取れないことを伝えようとした。上野先生は私を暖かく迎えてくださり,開口一番「あなたは輻射輸達論を専攻しますか。それともモデル大気にしますか」と。「あのー私,赤ちゃんが産まれるのです。それで…」。先生は一瞬,何のことか理解できなかったらしく,しばらく戸惑われた表情をなさって,それから慌てて「そうです。そうです。女の人は赤ちゃんを産むのです。どんどん産むのです」と,まるで大発見をしたかの如く叫ばれた。
先生は朝9 時に研究室に入られ,夜の9時すぎまで研究に集中されており,きわめて現実離れしていらっしゃった。先生が世俗の活を理解するのは,私たち学生が先生の難解な数学を理解するのと同じくらいの時間を要するのだった。研究室の仲間たちは「先生にとっては,世界中の人間が何故,輻射輸達論を研究しないのか,あるいは少なくとも関心を持たないのか不思議でたまらないのだろうね」と言い合っていた。
ある夏の日,そのころはエアコンの設備などなく,各研究室ではランニングシャツ一枚で研究するというのが普通であったが,先生が大学院生室の扉を開けて入ろうとして私の姿を認め,「あっ,これは失礼」と言うなり直ちにご自分の研究室へ戻られ,ジャケットを召されて再び入って来られた。「ご婦人がいらっしゃるのに云々」とのこと。長年のフランス留学で身につけられたフェミニズムのせいであったのかもしれない。そのころは京大に女子学生は少なく,なれない女子学生を迎えての珍光景は,他の研究室でも起こっていた。
さて,天文学で「理論」を専攻する以上,計算は必須である。私は工学部のKDC-1 を機械語プログラムで使用したが,その不便さに四苦八苦していた。昭和37年ごろから日本の学者に年間100時間,FORTRAN 大型機を米国メーカー側が無料開放するユニコンシステムがスタートした。カードデックを出し結果を受け取るのに1ヵ月という悪条件であったが,各学部の新進気鋭の学者の関心をそそっていた。
私たちの研究室でも,IBM7090の英文マニュアル4冊がそろえられていたが,研究者の机の上をたらい回しにされていた。そのうち1冊がFORTRAN のステートメントの解説(つまり文法書)である。当時は書店に行ってもコピュータ利用に関する解説書は1冊もなく,ステートメントの解説文を読んでも,全体がつかめず,すっかり学習は敬遠されていた。それに年間100時間しか利用に提供されず,また待ち時間が1ヵ月というのも魅力的でない「FORTRAN 研究会」を立ち上げたが,あまり関心をかきたてる効果が得られなかった。
昭和39年のある日,上野先生に呼ばれ研究室に行ったところ,「あと2週間後に南カリフォルニア大学のハリエット・カギワダさんが来られます。その時までモデル大気の計算プログラムをつくっておくように」と言われた。ハリエット氏は,上野先生と同じ輻射輸達論の学者であり,設備条件の良いアメリカでいち早くFORTRAN をマスターしていた。
上野先生の指示を受けて私は独学でマスターを決意した。プログラミングの解説書は何も入手できなかったので,まず彼女が計算処理プログラムを巻末につけているキャラバ博士,ベルマン博士,ハリエット氏共著の論文を読み,その内容に従って,彼女の計算プログラムをIBMマニュアルの文法書と一行一行対応させ,首っ引きで理解し,かくてFORTRAN プログラミングをマスターした。そのあと数日で,自分の研究テーマである大気モデルの計算プログラム(約2000行)を一気に作成,全部で10日足らずで完成した。
ハリエット氏とは,すれ違いでお会いすることができなかったが,その時のカードデックは後年,国産のコンパイラつきの大型計算機センターが東大で開幕した時も,何度も利用された。
上野先生の指示がなければ,こんなに短期間で仕上げられなかったと思う。
年月が経ち,研究が進むにつれ,家庭内のいざこざが次々と起こり,私は和歌山と京都2ヵ所の塾の仕事と育児と研究に加えて,そのトラブルで次第に疲れ果てていった。周囲の誰でもから,研究をやめるよう忠告された。解決できないトラブルを抱えてだんだんと頭痛がひどくなり,頭がガンガンして精神病院の周りを何度かさまよった。
そんなある日,私が担当したゼミ発表の翌日,「昨日の発表はすごかったね」「まるで尼将軍(北条政子)か巴御前(木曽義仲の妻)かというふうで」と教授たちから言われ,少し気分が明るくなり,上野先生の研究室へ行くと「あなたには指導者は必要ない。あなたは研究においても人生においても,ひとりで切り拓いて進んでいく人だ」と評された。長い間,研究室から遠のいていた私であった。先生は研究を断念せざるを得ない状況に追い詰められ悩んでいる私を察知された。しかし直接的なアドバイスはなさらず,どんな困難にでも立ち向かって行ける私の本性の自覚を促された。私は,どんなアドバイスよりうれしく,先生のご指摘により,そのような力が自分に内在しているのに目覚めた。
昭和40年12月,ついに国産大型コンピュータが東大と日立の協力で完成した。上野先生の指示で完成した私のモデル大気計算プログラムは膨大な計算量であり,多くの数値解析の手法が使われていたことから,この東大大型計算機のテストランには格好の資料であった。そのため,開発者の東大・森口教授に乞われて,他の領域の計算機チャレンジャーの若い研究生たち6,7人とともに,連日のテストランに加わった。最後に森口教授が「これからは計算機利用者が続出していくだろうが,あなた方は西部開拓者の精神で対応していってほしい」と述べられた。この言葉は,私の開拓魂を刺激した。
コンピュータ利用により,高速計算とデータの多量処理が可能になったため,今まで敬遠されていた数理科学の手法が全専門領域で活性化していった。しかしコンピュータ・プログラミングと同様,数理科学の手法は独学に委ねられていた。
私は「FORTRAN 研究会」を「京都ソフトウェア研究会」と改称し,センター利用中に知り合った各専門学部のコンピュータ利用パイオニアたちに協力を呼び掛け,ソフトウェアと種々のアプリケーションの講習会を,新しいコンピュータ利用を志す京大,関西各大学の研究者を対象に開催した。この講習会は,自分でも驚くほど一大センセーションを巻き起こした。
しかし「出る杭は打たれる」のことわざの通り,私に対する予期せぬバッシングがあちこちで発生した。専門学部タテ割の時代,コンピュータの登場は全専門学部を横断する共通学問のデビューであった。私の講習会は従来のタテ割専門分化の教育に対するアンチテーゼであった。
このようなころ,ある日,スタンフォード大学の行動心理学教室より,データ4000枚に基づく統計解析,多変量解析の計算依頼が京都ソフトウェア研究会に持ち込まれた。私は金銭報酬は受け取らないこと,共同研究者として参加することを約束して引き受けた。
前半の処理が終わったころ,驚いたことに計算機運用室長の指令で,私の計算機使用にストップがかかった。自らの営利事業のために大学の計算機を悪用している疑いだという。そして計算機運営委員会にかけられたが,「営利目的という証拠が無い」という先生方の意見で,使用許可が下りた。ところが2,3回の利用で,またストップがかかる。再び運営委員会の審議対象となったが「本人が論文に発表すると言う以上,信じるしかない」という先生方の意見で使用許可に。また2,3回の利用で…。運営委員会は月に1回しか開かれないので,その間,本来ならば翌日の結果渡しが,2,3週間は確実に遅れてしまう。
このようなことが3,4度繰り返され,明らかに私に対する「嫌がらせ」だと思わざるを得ない状況で,事実上の計算機センターからの私の締め出しに困り果ててしまった。そのころ,理学部の近辺で,ばったりと上野先生に出会った。計算機センターでの窮状を話したところ,先生は「あなたが画期的な講習会を立ち上げたことも,計算機センターでのセンセーショナルな反響も知っています。あなたは虎の尾を踏んだわけだ。私があなたと共に運用室長に面会しに行きますから,私の前で潔白ですと誓いなさい」と言われた。
数日後,先生と一緒に室長室を訪れた。先生は改めて私の方を向き語り掛けた。「あなたが今やっている仕事は,論文になる仕事ですね」「はい」「営利目的の使用ではありませんね」「はい」。そこで今度は先生が運用室長の方に向き直って語った。「ということですが,この証言でよろしいですね」。
先生はいつも純粋で,世の中はストレートに事が運ぶと信じていらっしゃる。私は常々,先生のおそばで感じている,あまりにもピュアなお心と,私への暖かい思いやりに心打たれて,泣いてしまった。その時,あろうことか運用室長がケラケラと笑い出し,それが止まらない。よほど私を忌々しく思っていたのだろう。さんざん笑った後,満足した表情でお世辞たらしく上野先生に向かって「はい,結構です。センターを使ってください」と言う。「じゃあ,これでいいですね」と上野先生。先生には,俗世間でコンプレックスを持つ人間が権力を握った時にみられる「いじめ」「嫌がらせ」の構造はご理解できないのだ。(しかし私はなぜ,こんなところで涙を見せてしまったのか。口惜しい!)
私は京大計算機センターにすっかり嫌気がさし,京大同様,全国共同利用である大阪大の利用を試みたが,「長谷川さんは京大で問題になっている人だから」と使用許可が下りず,このことから私は全国大学共同利用センターから事実上の締め出しに遭ったことを認めざるを得なくなった。
一方,京都ソフトウェア研究会は,私へのバッシングがいろいろあったとはいえ,関西一円に名が轟き,企業からの出張講習の依頼や,システム開発の依頼が続出した。その反響の大きさを傍観していた夫(故・長谷川繁雄)は,そこに未来を読み,高卒者に対するコンピュータ技術専門家の育成を決意し,私の全面協力を求めた。宇宙物理研究か,コンピュータ教育の普及と創造か,二者択一を迫られたのだ
後者の前途には,未開拓の,しかし無限の可能性を秘めたフィールドが横たわっていた。それは日本の教育を大きく変える「教育改革」「教育創造」のフィールドであった。そこにはコンピュータ社会の到来を暗示する暁光が,ほのかに輝いていた。宇宙物理の研究は私でなくても,次々と研究者が現れ,成果を上げていくだろう。しかしこの新しいフィールドは,私でなければ切り拓けない。私が宇宙物理研究から生み出す価値より,もっと大きな社会的価値を生み出していけるだろう。自分でなければできないという意義ある人生を発見し,そこに自己の存在理由(レゾンデートル)をかけて情熱的に進むのは,私にとってむしろ必然であった。
私は,その方向性にこそ時代の要請があり,その道を生きることに自分の意義を見出し,夫とともに全国初のコンピュータ技術専門学校設立に着手した。
かくて生まれた日本初のコンピュータ教育機関・京都コンピュータ学院は,コンピュータ教育のパイオニアとして,後続する各大学情報教育部門を牽引しつつ,その後のコンピュータの急激な進化に即応して,先駆的,革新的教育を実践していった。
その後十数年の歳月が経ち,先生は京大から南カリフォルニア大学,そして金沢工業大学へとご転任された。先生の金工大退職後,私は新設した京都コンピュータ学院情報科学研究所の初代所長として先生をお迎えした。久々の再会である。先生は学院内で,国際ワークショップを度々開催され,またボストン校設立にもご尽力くださるなど,学院の国際化に大いに貢献された。
上野先生は,一道に徹した人の中に見られる本質を見抜く目と,純粋な魂を持たれていた。俗界を超越し,真理探究にひたむきに打ち込んだ人生の中で培われた魂は,限りなく透明に輝く純度の高い宝石の如くであった。
かつて私は高校時代,宇宙の美にあこがれ,数学のエレガンスに魅せられ科学者の道を決意したのであったが, 宇宙物理学の中でもきわめて数学的な分野を専攻された上野先生は,数学のエレガンスの化身そのものであったと思う。
一昨年(2009年),私の後輩で,上野先生の愛弟子として成長された向井苑生・近畿大教授と2人で横浜に先生をお訪ねした。先生の長身の背筋はすらりと伸びたままであり,端麗なお顔には何のかげりもなかった。
こうして上野先生と私との,研究以外の交流を思い出して,いくつかのエピソードを書いていると,あまりにも鮮明に,その時の先生の表情やお姿の細部に至るまで,私の脳裏に残っていたことに気づかされ,あらためて先生の,私の人生への影響を確認した。
先生は私が苦悩に打ちのめされそうになった時「あなたはひとりで道を切り拓き進んで行く人だ」と評され,私自身に内在するポテンシャルに,私を目覚めさせてくださった。私はこれまでの多難な人生航路で何度,このお言葉をリフレインしたことだろう。苦境から立ち上がり,新しい教育創造に向かうたびに,このお言葉は,陰の力として私を支え,それによって私は自信とエネルギーを与えられたのだ。
そして何よりも,先生の強い指示がなければ,私のコンピュータ利用はずっと遅れており,日本最初のコンピュータ専門学校の設立は実現していなかっただろう。コンピュータ夜明けの時代にパイオニアとなったからこそ,パイオニア精神に目覚め,その道を一路邁進できたのである。この時に火がつけられたパイオニア精神は,京都コンピュータ学院のアイデンティティとして成熟していった。
先生は私のキャリアパスのターニングポイントで重要な役割を演じつつ,誰よりも暖かい心で接してくださった。創造者の前に道はなく,創造者は常に孤高を余儀なくされる。しかし先生の暖かいお心は,私の心の故郷であり,今なお郷愁を禁じ得ない。
京都コンピュータ学院の米田貞一郎先生は一昨年(2009年)百歳を迎えられたが,米田先生ともども,上野先生のご長寿を心からお祝いし,なお一層のご健康を京都コンピュータ学院教職員一同とともにお祈りする次第である。