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Accumu Vol.14

相対論誕生百年と安倍晴明没後千年

京都情報大学院大学 教授 作花 一志

1.アインシュタイン百年

図1 ニュートンとアインシュタイン
図1 ニュートンとアインシュタイン

今から100年前,スイスの特許局に勤める26歳の無名の青年が書いた論文が,物理学だけでなくニュートン(1642-1727)以来の自然観を根底から書き換えてしまうとは誰も想像しなかったことだろう。 20世紀のすべてのサイエンスはこれらの論文によって大幅にステップアップした。彼の投じた一つの石(ein Stein)はSFの空間から,今や生活の空間へ波及していった。私たちは宇宙論やブラックホールだけでなく,カーナビやデジカメなど身近なものにいたるまで,さまざまな面でアインシュタイン(1879-1955)にお世話になっているのである。 2005年は世界物理年(World Year of Physics) となってアインシュタインの業績に対するさまざまなイベントが世界各地で開かれている。筆者が編集委員を務めている『天文教育(天文教育研究会会誌)』でもその特集を組んだ。そこに掲載された記事を参考にして,この小文を書き綴っている(図1)。

アインシュタインは,ニュートン以来まったく別物と考えられていた時間と空間を,そして物質とエネルギーを統一した。さらに光速一定の原理,重力は時空のゆがみというアイデアを提唱した。 1970年代のブラックホールや重力レンズの発見から今日まで続くほとんどの高エネルギー現象は相対性理論なしでは語れない。宇宙は神の言葉ではなく,彼の数式によってサイエンスとして論じられるようになった。彼は一般相対論を宇宙に適用するとき大きな仮定を導入したのだが,これが後々まで尾を引くことになった。

各天体は互いの重力によって引き合うので,そのままではいずれ宇宙は潰れてしまう。そこでこれを防ぐためには斥力が必要になる。重力は物体間(天体間)の距離が小さいほど強いが,逆にこの斥力は遠いほど強くなるようなものである。もちろんこんな力は地球上にも,当時知られていたあらゆる世界にも存在しない。この宇宙(斥)力と呼ばれた力の導入は不評であった。

しかし,1929年ハッブル(1889-1953)は銀河の観測によって宇宙の膨張を発見した。宇宙は広がっているのである。もはや自重で潰れるのを支えるものは要らない。その結果,アインシュタインは「宇宙力導入はわが生涯最大の誤り」という有名な言葉で自説を撤回する。アインシュタインでさえ過ちを起こすものだというたとえである,と十数年前の本には書いてあった。ところがアインシュタインの没後四半世紀を経て,とんでもない方向に展開する。なんと宇宙力が復活したのである,しかも2度にわたって。

その1は1981年「インフレーション説」の登場である。宇宙は誕生直後に一挙にすさまじく膨張したという説を日米の若い研究者がほぼ同時期に独立に提唱した。佐藤勝彦(東京大学教授)とアラン・グース(マサチューセッツ工科大学教授)である。インフレーションとは物価の高騰を示す言葉であるが,高騰といってもせいぜい千倍であろう。 100円ショップの品物が翌日に10万円に値上がりしたということだ。ところが宇宙のインフレーションはそんな生易しいものではない。何万倍? 何億倍? いやとてもそのような単位では表せない。実に10の40乗から50乗倍にも膨張するのだ。しかも10の―34乗(=0.000000000000000000000000000000001)秒間のうちに。佐藤によれば「宇宙は開闢のころ,“真空のエネルギー” に働く宇宙斥力によって加速度的な急激な膨脹を起こし,その急激な膨脹が終わるとき,“真空のエネルギー”が熱エネルギーとして解放され,今日の火の玉のエネルギーとなった。」という。すなわち宇宙力は宇宙の初期においては非常に重要な役割を果たしていたのであり,新たな宇宙創生理論の中で復活した。

図2 一般相対論(重力レンズ効果)
図2 一般相対論(重力レンズ効果)

その2は1998年,「宇宙の加速膨張」の発見である。宇宙の膨張は次第に遅くなると思われていたが,観測による結果は逆だった。宇宙は今も膨張速度を速め,もはや収縮することはない。ほんまかいなという疑念はその後払拭され,2003年2月には止めを刺す発表がなされた。宇宙の年齢は137億年,膨張の源は原因不明の「ダークエネルギー」だという(もっとも不明だからこそダーク・・・と言われているのだが)。インフレーションは宇宙初期だけではなく今も続いている。アインシュタインの死後半世紀にしてそのアイデアは見事に蘇ったのだ。今や宇宙力を含んだ方程式は宇宙論の標準モデルとなっている。 1919年に起こった皆既日食観測で,星の光が太陽の重力で曲げられる角度が相対性理論から予測される値と一致したことで,アインシュタインは一躍有名になったが,一般相対論を疑う科学者も少なくなかった。しかし今日,彼の先駆性はあらためて評価されている(図2)

図3 光電効果による作品(デジタルカメラ)
図3 光電効果による作品(デジタルカメラ)

金属に光が当たると電流が流れることは19世紀から知られていた。 20世紀になる前夜に電流の正体はマイナスの電気量を持つ微粒子である電子の流れであることがわかった。そして飛び出した電子の最大運動エネルギーは照射光の強さには無関係で,照射光の振動数と関係があること,飛び出した電子の数は照射光の強さに比例することが発見された。アインシュタインは1905年の論文で,光がエネルギー量子(光量子)から成るという仮説を提案し,これに基づいて光電効果を議論したのである。光の本性が粒子か波かについて,ニュートンは前者を,ホイヘンス(1629-1695)は後者を主張したが,19世紀には回折・干渉など,波動説でなければ説明できない現象の発見により,粒子説はほぼ否定されていた。しかしアインシュタインは光は波の性質だけでなく,粒子としての性質をも持つという新たな仮説を打ち立てた。その後,光量子は光子(フォトン)という名で呼ばれるようになった。光量子論で量子力学の幕開けに貢献したものの,量子力学の確率的解釈には反対し「神はサイコロをふりたまわず」という有名な言葉を残している。電子を応用した工業は今日の産業の主流をなし,その製品は私たちの周りに溢れている。太陽電池,レーザーポインター,さらにあなたがいつも使っているデジカメも光電効果を利用したものなのだ(図3)。CCDは外からの光を電気信号として記録する検出器で,写真乾板フィルムよりも数十倍も高感度のため,CCDを搭載したデジタルカメラが主流となり,写真もアナログの時代からデジタルの時代に移行している。

1921年アインシュタインがノーベル賞を受けたのは相対性理論ではなく光電効果の理論についての研究に対してであった。アインシュタインは何度もノーベル賞に推薦され続けていたが,ノーベル委員会の委員が相対性理論に批判的で,まだ検証不十分であるということで,結局は光電効果が受賞研究になったそうだ。

20世紀は物理学が急速に発展し,その成果をだれもが享受できるようになった時代である。量子力学,相対性理論という20世紀の物理学の二大分野を100年前に築き上げたアインシュタインは最大のパイオニアであることは間違いない。彼は原爆が広島・長崎に投下されたことを深く悔やみ,晩年は世界連邦設立を訴えるなど平和活動に打ち込んだ。時間と空間,質量とエネルギーを統一したアインシュタインが真に目指していたのは,世界の平和的統一だったようだ。

最後にアインシュタイン語録を掲載する。解釈は読者諸氏それぞれにお任せする。

●常識とは18歳までに獲得した偏見の塊です。

●私には特別な才能があったわけではありません。ただ単に詮索好きで,人より余計に長く問題を考えていただけです。

●星を注視しそこから学べ。

●重要なことは疑問をやめないこと,気高き探究心を決して失うことのないように。

●宗教と科学は互いに依存して調和するものだ。

●原子力時代において自由を保障する最善の方法が世界連邦なのだ 。

2. 晴明千年

ちょうど千年前の寛弘二年九月二十六日(1005年)に安倍晴明は 84歳の生涯を終えた。彼は当時の普通の人の倍以上も生きるパワーを持っていたのだ。

2003年の夏,京都文化博物館にて「安倍晴明と陰陽道展」が開かれ,大阪の阿倍王子神社と京都の晴明神社に伝わる有名な肖像座画に出会うことができた。 2つとも想像以上に大きくまた鮮やかに描かれていた。彼は40歳で初めて,「天文得業生」として記録に現れるが,これは優秀な天文生に与えられる称号である。 52歳で天文博士となってからは多忙な業務をこなしていたようだ。彼の本来の役目は天文現象を克明に記録し,日月食・彗星・流星など変わったことがあれば直ちに内裏へ奏上することで,「天変」に敏感な朝廷にとって重要な仕事であった。彼の前半生はなぞに包まれ,それだけにさまざまな逸話が語られている。しかし後半生の記録は意外に多く,藤原道長(966-1027)の『御堂関白記』や藤原實資(957-1046)の『小右記』に記載された文章から実像を探ることができる。晩年は道長の信任が厚く,80歳で従四位下,さらに82歳で大膳太夫・左京権太夫に任じられた。長保六年二月十九日(=1004年3月12日)癸酉の日曜日に84歳の晴明は道長のお伴で,新しく作られる法華三昧堂の土地探しのため宇治木幡に行ったと『御堂関白記』に記されている。当時の普通の人の倍以上も生きて,没年まで諸行事を行うなど現役として活動したのだから,一般にはマジシャンと映ったことだろう。

晴明が天文博士に任じられた天禄三年の十二月六日 (=973年1月13日)とその翌年の天禄四年一月九日(=973年2月14日),および天延二年十二月三日(=975年1月17日)に天変による天文密奏が行われている。密奏だから詳しいことはわからないが,それに見合う天変をPCで計算しながら探してみよう。天変として考えられるのはまず日食・月食だが,この年にわが国から見られる日月食はない。流星,彗星,新星の可能性も否定できないが,考えやすいのは惑星が離散集合していくようすである。972年12月2日,金星と火星がやぎ座に接近した後,一時離れるが翌年3月25日におひつじ座で再会している。また974年末から金星と木星が接近していて,翌年1月中旬には夜明け前に東南の空アンタレスの北に見られる。 10日には細い月も一緒に見えたはずだ。

図4 988年9月17日の天変。上が火星で下がレグルス。ステラナビゲータ(アストロアーツ)より作成。
図4 988年9月17日の天変。
上が火星で下がレグルス。
ステラナビゲータ(アストロアーツ)より作成。

永延二年八月(988年9月), 惑星(けいわくせい:火星)がしし座のレグルスに接近した(図4)。天皇・皇后ともに重い物忌みに入り,天台座主の尋禅(じんぜん)が熾盛光法(しじょうこうほう)を,安倍晴明が 惑星祭を執り行うことになった。しかし晴明は決められた日に行わなかったために,怠状(すなわち始末書)を召されたという話が『小右記』に載っているそうで,これは晴明の失敗談として語られている。ところがレグルスはほぼ黄道上にあるので,惑星と接近することは決して珍しくない。火星とは2年余の周期で出会い,988年9月17日の前にも986年10月12日,984年11月21日・・・にも接近している。晴明はこれらのことを承知していて, 惑星祭なんぞ要らないと思ったのではないか? しかしいくら幼帝とはいえ彼は勅命に反したのである。違勅に対して始末書だけとはずいぶん寛大な処置で,左遷降格されたようすもない。摂政・藤原兼家(929-990)が晴明を軽い処分にしたのには何か裏がありそうだ。

図5 関連系図
図5 関連系図

時の帝,一条天皇(在位:986-1011)はその2年前に7歳で即位した(図5)。もちろん自分の意思ではなく外祖父・藤原兼家に擁立されたのである。ころは平安中期,戦争も死刑もなく一見平和な時代だった。しかし,他氏を排斥し,朝廷の高位高官を独占した藤原氏は陰謀による仲間同士の骨肉の争いをうち広げていく。そして「乱」にも「変」にもよらず,象徴天皇制を完成し摂関政治を確立していった総仕上げが「花山帝退位事件」であった(とは筆者の憶測だが)。この事件の企画・総指揮をする藤原兼家は娘の詮子が円融天皇との間に産んだ懐仁(やすひと)親王を帝位に就けるため,まだ19歳の花山天皇(在位:984-986)を退位させようと企てる。彼には道隆,道兼,道綱,道長という息子がいて,ここで暗躍するのは次男道兼である。そのころ寵愛していた女御をなくし失意の底にあった帝に,一緒に出家しましょうと道兼は勧める。夜半,帝を御所から連れ出し,東山の花山寺(元慶寺:山科区北花山に現存)に着くが,いざ髪を剃る直前になって両親と最後の別れをするからといって寺を抜け出しそのまま帰って来なかった。すでに頭を丸めてしまった花山法皇,その時になってやっとだまされたことに気づいたけれど,もはや遅し。翌朝7歳の懐仁親王は即位して一条天皇となり,兼家は念願の外祖父となり,摂政に就任する。これが事件のあらすじである。兼家の没後,道隆さらに道兼が継ぐが,2人ともまもなく病没して,やがて世は四男道長の時代に移っていく。一条天皇の皇后である定子(道隆の娘)には清少納言が,中宮である彰子(道長の娘)には紫式部が仕えていた。さらに和泉式部,伊勢大輔などを加え,あまたの才女たちが活躍する時代となった。華やかな王朝文化が栄える前夜には上記のような陰惨な事件があったのだ。この花山帝退位事件の顛末は『大鏡』の中で見ることができ,そこにはなんと安倍晴明が登場しているのである。

「帝おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが,すでになりにけりと見ゆるかな。」

これは高校の古文の教科書にも載っている有名な文章である。寛和二年六月二十二日(986年7月31日)の深夜,安倍晴明は「帝の退位を示すような天変があったが,事は既に終わってしまったようだ。」と叫んだ。この夜,花山帝は退位・出家してしまうのだが,御所から花山寺に行く途中,晴明の家の前を通った時にその声を聞いたと記されている。帝の退位を示す天変とは,一体何だったのか?

この天変について斎藤国治氏は木星がてんびん座α星へ犯(=異常接近)を起こしたことだと述べている。実際に計算した結果,木星は7月末に,てんびん座α星の約0.5°北にあることがわかる。当日この2星は午後10時半ころ南西の空に沈むまではこの犯が見えたはずだ。晴明はこの天変を内裏へ急告しようとしたけれど,すでに退位後のことで間に合わなかった…果たしてそうなのだろうか?

大鏡の上記の文章のもう少し前を読んでみると,帝が御所を出ようとしたときには「有明の月のいみじう明りければ・・・月の顔にむら雲のかかりて」から出発したと書かれている。旧暦22日だからほぼ下弦の月,月の出は真夜中の12時前,帝の夜行は多分1時か2時ころであろう。木星はすでに沈んでしまった後,なぜ晴明は3~4時間も経ってから奏上せねばと言ったのだろうか?

図6 星はすばる(ダイニックアストロパーク天究館提供)
図6 星はすばる
(ダイニックアストロパーク天究館提供)

木星は12年弱で天球上を一周するので,ほぼ黄道上にあるてんびん座α星とはこの周期で犯を起こし,それほど珍しい天象ではない。晴明はこの時すでに65歳で天文に熟知していたはず,12年前,24年前の犯について知らなかったとは考えにくい。いやこの度の犯も前もって知っていただろう。では他に天変の可能性はないものか? 深夜1時か2時ころには木星・土星はすでに沈み, 水星・金星・火星はまだ東の地平線下である。彼がこのとき見たものは惑星現象ではないようだ。では月は? 前述のようにこの日,月の出は12時前で翌朝までおうし座のすばるのあたりに見られる。栗田和実氏は午後11時ころから翌日1時ころまで起こった月のすばるの前面通過を指摘している。これなら帝が御所を出て山科の花山寺に向かう途中,晴明の家の前を通り過ぎたころによく合う。すばるといえば枕草子の一節「ほしはすばる・・・」を想い出すが,星の伝承が少ないわが国でも古代から親しまれてきた星である(図6)

そこで筆者は次のような独断的解釈を試みた。

その天変が「前半夜の西空の木星」であれ「後半夜の東空の半月」であれ,べテラン観測家の晴明はすでに数日前からそのことを知っていた。彼はこの2つの天変が22日の夜,起こることを天皇に奏上すべきなのに,藤原兼家に密告した。彼は大喜びで,帝に退位を強く勧めた。帝も星のお告げならやむなしとしぶしぶ出家を決意した。晴明は予報が両方とも当たって,帝がすでに退位してしまってから, 役目上の義務として報告に行こうとした。すなわち晴明はこのクーデターの加担者ではないか! そうならば2年後の彼の不始末の結果も理解できる。晴明に義理のある兼家は2年前の返礼として軽い処分ですませたのでは・・・と考えるのは筆者の思い過ごしだろうか。

京都の堀川一条を上って西側,晴明の旧宅跡と言われるところに「晴明神社」がある。この神社なぜか東向きで(ほとんどの神社は南向きだが)五芒星のマークが特徴的だ。 晴明を祭った神社は京都以外にも茨城県・神奈川県・静岡県・愛知県・福井県・大阪府・岡山県など各地にあり,晴明伝承の地は全国津々浦々に多数ある。彼は『大鏡』『三代実録』『続日本紀』などの史書,『今昔物語』『宇治拾遺物語』『日本霊異記』などの物語,歌舞伎・義太夫などの芸能,さらに歌川豊国や葛飾北斎の浮世画などによって,千年間も人々を惹きつけ語り継がれてきた。そして数年前からは,小説,漫画,TVドラマ,映画,舞台などのヒーローとして一躍有名になった。しかし筆者には晴明は豊富な天文知識を生かし,藤原兼家・道長など権力者に利用されたりまた利用したりして,長寿を全うした天文博士というのが実像のように思える。

参考文献

矢野 健太郎 『アインシュタイン伝』 新潮選書 1968

佐藤 勝彦 『アキューム』 No.12 p.64 2003

福江 純 『天文教育』 Vol.17 No.1 p.2 2005

小暮 智一 『天文教育』 Vol.17 No.2 p.2 2005

佐藤 勝彦 『天文教育』 Vol.17 No.3 p.2 2005

若松 謙一 『天文教育』 Vol.17 No.4 p.10 2005

綾仁 一哉 『天文教育』 Vol.17 No.5 p.2 2005

斎藤 国冶 『古天文学』 恒星社厚生閣 1989

栗田 和実 『天界』 Vol.873 p.1 1998

夢枕 獏 『陰陽師』 文春文庫 1991

京都文化博物館 『安倍晴明と陰陽道展』 読売新聞社 2003

作花 一志 『アキューム』 No.12 p.70 2003

臼井 正 http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Abeno/Seimei.htm

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作花 一志
Kazuyuki Sakka
  • 京都情報大学院大学教授
  • 京都大学大学院理学研究科宇宙物理学専攻博士課程修了(宇宙物理学専攻)
  • 京都大学理学博士
    専門分野は古典文学,統計解析学。
  • 元京都大学理学部・総合人間学部講師,元京都コンピュータ学院鴨川校校長,元天文教育普及研究会編集委員長。

上記の肩書・経歴等はアキューム25号発刊当時のものです。