京都御所の東側に隣接する閑静な住宅街。今年初めに増改築された茂山千五郎師のお宅を訪ねました。
木の香も漂う新しい階段を上がり,応接間に通され,しばし待つうち和服姿の千五郎師が登場されました。舞台で拝見する千五郎師と変わりなく,お元気そうで現代の狂言界になくてはならない存在感がありました。千五郎師にはお忙しい中,時間をさいていただき,お話を伺うことになりました。
植原 早速ですが,先日の茂山狂言会(2月5日,京都観世会館)を拝見させていただきました。いつもご盛会で結構でございますね。
千五郎 見ていただきましたか。ありがとうございます。茂山狂言会も私が褒美(芸術祭賞)をもろうた年から始めましたので,もう20年程前から続けて参りました。私と千之丞(千五郎師の弟)と2人が主としてやって参りましたが,私ももう年ですし,千之丞も年をとりましたので,今では主として若いものを中心にして,その中に私どもも出演さしてもろうてます。
植原 当日の演目「佐渡狐」は現在の政治家連中を目の当たりに見た感じがして,面白く拝見させていただきました。
千五郎 お奏者(茂山忠三郎師)の袖の下をいただく姿は役人さんの収賄・贈賄とさわがれる現今の姿を風刺したもので,今も昔も変わらんですな。
植原 「猿聟」は千五郎家ならではの演目ですね。猿の面に衣装と大勢の登場人物,いや登場猿ですか,数を揃えるのも大変ですね。また,あのお猿の「キャア,キャア」という鳴き声が,その仕草によって何を言っているのかわかるところが愉快ですね。
千五郎 人数物では「菌(くさびら)」なんかも面白い曲ですね。
植原 それから新作狂言「彦市ばなし」を久しぶりに拝見しました。過去2回大阪で見ましたが,出演者によってまた楽しさが変わりますね。
千五郎 あの「彦市ばなし」の初演の時は,武智鉄二先生の演出で,千之丞が彦市をやり,殿様を私が,そうして天狗の子を野村万作さん(和泉流狂言方)がやられました。それ以後チョイチョイやらせてもろうてます。本場の彦市は九州は熊本県の八代(やつしろ)で,原作者の木下順二さんがその八代のご出身で,また八代の殿様で松井さんという方が能楽に造詣が深く,ご自身も能を舞われ,そのご縁で八代へも「彦市ばなし」をやりに行きました。天狗の子はよく人が変わっておりましたが,彦市は私か千之丞がやり,あまり人は変わっておりませんし,天狗の子は正義(千五郎師の長男)がよくやっておりました。
植原 今回の天狗の子は先生のお孫さん逸平君が大変可愛くて,なかなか熱演でよかったですね。
千五郎 孫が初めてやりました。NHK(テレビドラマ「京ふたり」に出演)のお蔭で有名になりましたな。あれでなかなか芸事が好きですねん。
植原 先生から正義師,そうして逸平君と3代にわたり,また後継者も真吾さん千三郎さんなど大勢を立派に育てられて,もうご心配はいりませんね。
千五郎 いやいやまあ…。
植原 新作狂言の話が出たついでと言っては…。当時は他にも何番か新作狂言をやっておられましたね。
千五郎 木下先生の原作では,そうですね「二十二夜待」「瓜子姫とあまんじゃく」などの二~三番やりました。「彦市ばなし」をやった当時は色々と民話劇を狂言になおしてやりました。あなたもご存知でしょう。名古屋におられた西田三好さんという方を,亡くなりましたけど。
植原 存じております。中日新聞社におられた。
千五郎 あの方が「中日五流能」を毎年1回やられるときに,新作狂言を毎年違うのをやられた。毎年平岩弓枝さんに書いてもらわれたり,また京都におられた映画プロデューサーの与田さん,「雨月物語」の脚本を書かれた方に書いてもろたりして…。
植原 「濯ぎ川(すすぎがわ)」はどなたでしたか。
千五郎 あれは伊沢匡さんですよ。あの頃は毎年のように新作をやりましたが,この頃はあまりやりませんね。その新作をやらなくなったのは,おかしな話ですが,無形文化財になっている人(日本能楽会々員総合指定)が全部出演すると非課税で無税になったんです。それが新作をやったら税金が課税されましてね,それでやめられたらしいそうです。
植原 先生方は能楽界の今でいう「ニューウェーブ」でしたね。
千五郎 そうでした。当時,武智先生が劇場で能楽を新しい形でやってみようと,新様式ですか,色々考えられて,それに私どもも参加させてもらいました。一番最初にやったのが,東京で円形劇場でしたか。
植原 能や狂言は能楽堂で,舞台があって橋掛りがあって,客席は正面だけ。それが円型劇場で四方八方から見られる…。
千五郎 前に山本安英さんがやっておられた「夕鶴」を能様式でやろうということで,円形劇場で「夕鶴」をやりました。それはもう皆さんびっくりするような企画でしたな。つまりナレーターを入れて,それを関西オペラの女性がやってくれましてね。團(伊玖磨)先生の作曲でしたね。それに当時の片山博太郎さん(観世流シテ方・現片山九郎右衛門)が「通」をやって,千之丞が「与兵」をして,私と野村万之丞(和泉流狂言方)が「うんず」と「そうず」をやりました。それが最初でした。
植原 「夕鶴」は私も見ました。舞台が新様式で照明を使われ,大変美しく,最後の幕切れ千之丞師の空に向かって「通」と叫ばれる声が今も印象に残っております。
千五郎 それにもう一つ,岩田豊雄さん(作家・獅子文六さん)の「東は東」を私がしました。これも狂言風に,私が中国人,女優の万代峯子さんと千之丞とでやったんです。能のお囃子の代わりに雅楽を入れましてね,それがまたなかなか評判が良かったんです。この「東は東」が武智さんと一緒にやった最初です。その後,観世寿夫君(先代)なり栄夫君(観世流シテ方)なりが野村君らと一緒に加わっていろんなことをやりましたな。その中に,武智先生が東京の日生劇場のコケラ落とし,それが武智歌舞伎ですな。扇雀(現中村雁次郎)さん,富十郎さん,雷藏(市川)さん,猿之助さん,仁左衛門(片岡)さんなどが出られました。その時に武智さんから依頼があって,私と千之丞と栄夫君が1ヵ月間出演したんですわ。そうしたら能楽協会から叱られたんですわ。派手に日生劇場のコケラ落としに出演したもんだから,それやったら協会から「脱会してやってもらえませんか」と。
植原 能・狂言という古典芸能の人達がよそ者と一緒に舞台に出ることはけしからんというわけですか。格式を重んじるところですから苦々しく思われていたんでしょうな。
千五郎 一緒に出演したらあかんという不文律みたいなものがあったんでしょう。
植原 武智先生の新しい演劇活動というか,当時は演劇革命でしたね,先生方もそれに参加された意図はどこらへんにあったんです。
千五郎 これはね,我々は従来の能・狂言をやっている者として,これからは時代も変わっていくだろう。それに対応していくには,自分達のもっている技能というか技術というか,そういうものを利用して,また発表することによって,新しい分野が開けるし,また勉強になるし,芝居をやろうではないかと武智先生からお話がありましてね。それで私は参加したんです。
植原 能楽界は古い殻に閉じ込もり,しきたりを守り,厳しかったと思いますが,異端視されたわけですね。
千五郎 それで能楽協会を退会してやってほしいと言うてこられたんですよ。その時,うちの父(故千作師)が「息子達がそのようなものに出演するのは私の責任ですから,私も協会を辞めます」と責任を感じましてね。そうしたら,「それやったら,そんなことしなくてもよい」と,うやむやのうちに終わったんですが。その時,マスコミの方が色々と「能楽協会が古い殻に閉じ込もって」とか色々と新聞記者やジャーナリストの方々が書き立て,能楽界の古い体質でそのようなことを言うと…。そんなことを言うてる時代ではないと…。色々書いていただいたことで,うやむやのうちにやってもよいということになったんですわ。
植原 先代(故千作師)はご理解があった。
千五郎 父がやってもかまへんと,能楽協会が言うてきたら,「私が許したんやから,私も協会を出ます」と言うてくれましてね。何がいかんのやと私は言いたいです。能・狂言だけが,他の芸能の人と共演したり,他の分野の人に手伝いに来てもらったり,洋楽の伴奏で能を舞ったりするのが何がいかんのやと。
植原 お父さん(故千作師)のお話が出ましたので,茂山家を歴史的に遡って,聞くところによりますと井伊家のお抱え狂言師であったとか。
千五郎 違うんですよ。よくそのように言われますが。ルーツはね,私どもは大藏流狂言方です。この大藏流の家元も幕府が江戸に開かれるまでは京都に居たのです。徳川の世になって能楽の主な家元は観世(流)の家元も,もちろん一緒に狂言の家元も江戸へ行ったんです。その時に家元の弟子に茂山家というのがあったんです。それが一緒に行かずに京都に残りました。京都で狂言を,大体御所のお抱えではありませんが,禁裏にお出入りする狂言師やったんです。それが,あることから茂山家の後を継ぐ者はやっぱり東京の家元で書生に入って修業をして,京都へ帰ってきて狂言をしていたんです。その修業から帰って,つまりお礼奉公みたいな形で,東京へ行ったときに江戸城で能があったんです。その時に「枕物狂」という狂言を小川さんという大藏流の長老の狂言師がやられた。その時に私の曽祖父が後見をしてました。その時,途中で小川さんが具合が悪くなって狂言ができなくなったので,後見をしていた曽祖父がその後を演じた。それを当時の井伊大老がご覧になって,えらく感心されて,それで今日から茂山千五郎をお抱えにするということで抱えてもらったんです。それが,私の曽祖父です。それで井伊家に抱えられて2,3年して井伊大老は桜田門で殺されたんです。だから,あくまで御所のお出入りの狂言をしていながら,その間だけ井伊家から給料もらっていたということになります。私が12代目ですから,9代目の人がずっーと京都に住んでいたから,それから井伊家のお抱え狂言師ということになった。
植原 井伊家には立派な能面やら能装束が多く伝わっておりますが,先生の方には。
千五郎 別にこれといって伝わっておりません。井伊家からいただいたのは扇子くらいです。それと書簡,お手紙をいただいており,それが残っております。井伊大老という方は能や狂言がお好きでして,また学者さんでしたそうです。ご自身で狂言は演じられてませんが,新しい狂言・新作狂言を二番作っておられます。その一つが「狸の腹鼓」と,それから「鬼ヶ宿」です。
植原 私も「鬼ヶ宿」は一度拝見したことがあります。
千五郎 「鬼ヶ宿」は井伊大老が私の家のためにお作りになった。私の曽祖父が型付けとか謡の節付けなどをやり,曽祖父が初めて演じました。それと「狸の腹鼓」は私の家でしかやっておりません。
植原 大藏流の上演曲目には入っておりますが,この二番は他の家ではできないんですか。
千五郎 台本が私の家にしかありませんし,私どもとゆかりのある曲ですから。井伊家の殿様は市長さん(彦根市)ですね,あの方は長唄がお好きで,先代の方はものすごく能がお好きでした。ご自身もどんどん能を舞われ,うちの祖父がやっぱりよく東京へご挨拶に行っておりました。
植原 江戸幕府の頃の井伊家は喜多流の方が多かったと聞きましたが,やはり喜多流ですか。
千五郎 いや,その殿様は観世流ですわ。それも先代の梅若万三郎さんに習うておられました。大体彦根の井伊家は喜多流でしたが。
植原 現在,狂言方には大藏流と和泉流と二つの流儀がありますね。
千五郎 もう一つ鷺流というのがあったんです。この鷺流というのは明治維新以後絶えましたな,地方に少し残ってはおりますが。
植原 鷺流は地方と言われましたが,江戸(東京)ではなく九州とかどこかですか。
千五郎 東京です。流儀は和泉流より古いですよ。大藏流が一番古い。和泉流の家元は江戸ではなかった,名古屋ですわ。尾張家のお抱えの家元ですね。それで和泉流の和泉さんではなくて山脇和泉というのが本当なんです。いつの間にか和泉になったんですけど,もともとは山脇和泉というのが和泉流です。鷺流というのは,徳川家2代目秀忠公の時にできたんですが,「鷺の舞」が上手な狂言師やったわけですな。明治維新までは主に江戸でやっていたのは大藏流と鷺流ですわ。和泉流は名古屋で,鷺流もなかなか勢力があったんです。
植原 鷺流もそうだと思いますが,明治維新によって能・狂言に携わる人達も大変だったでしょうね。
千五郎 鷺流は家元がどこかへ行ってしまわれた。そら,ああいう幕府や大名に抱えられた能楽師や狂言師は全部禄をはがれたから,それが路頭に迷われたわけですから,私ども茂山家でも先々代,祖父の時代に禄を離れたし,その時は曽祖父もいましたし,相当な苦労をしたそうですよ。私どもの先々代の千五郎ですね,それも一時は非常に困って,鹿鳴館時代というような,文明開化の世の中では狂言ははやらん,それどこやなかった。それでも明治10年頃からぼちぼち能や謡が復活してきて,また狂言師になったわけですな。昭和の戦後の混乱した一時期も同じで,戦後のキャバレー全盛期,そら狂言なんかはやりませんよね。その時分,祖父は京都駅の切符切り,今の改札係をやっていたなんて話も聞いております。
植原 そんな一時期もあって,随分苦労されたんですね。ところで話を変えて,先生はおいくつから稽古を始められましたか。
千五郎 京都では昔からお稽古事は大体六つ(才)の6月6日から始めるというのが関西の芸事のしきたりになっています。私らはその家に生まれましたので,それまで(6才まで)待ってくれませんね。数え年で6才,私は4才から始めました。大体,狂言のお稽古は「猿に始まり狐に終わる」と言います。「靭猿(うつぼざる)」という曲があります。その猿の役が重要な役で,舞を舞います。その役にはセリフがありません。その猿が「猿に始まり」ですね。「狐に終わる」の狐は「釣狐(つりぎつね)」の曲です。その猿よりセリフがあって,ちょっとした所作もあるということで,「以呂波(いろは)」という曲が,子供に相応しいと,その「以呂波」から始めます。
植原 先生は「以呂波」から以降,何番くらい演じてこられましたか。
千五郎 私どもの流儀には大体180曲くらいあります。その他に武智さんや伊沢さんらが作られた新作を入れますと,現行で今演じている曲が190くらいあります。そのうち私が演じてない曲は1,2曲ですね。この2曲はあまり好きでない曲,また今の人達が見られてもわけのわからんような曲で,そういう曲は演じません。皆さんからやれやれと言われているのですが。それから,例えば「末広がり」つまり扇を買いに太郎冠者が都へ行き,スッパにだまされて,「末広がり」やといって傘を売り付けられて帰ってくる。そういうパターンの狂言が「宝の辻」とか五,六番ありますが,鎧を買ってこいとか,傘を買ってこいとか,つまり都へ買いに行っても他の物をだまされて買ってくるという狂言があります。その中でも「末広がり」が一番良いのですが,この類型的な曲は私はあまりやっておりません。
植原 先生のお人柄ですね。能や謡でも難しい曲で重習(おもならい)という曲がありますが,私も先生の「枕物狂」や「木六駄」,それから先代の千作先生の「庵の梅」も拝見しました。
千五郎 狂言では重習が三番あります。その上に極重習が三番あります。極重習というのは「釣狐」「花子」と「狸の腹鼓」の3曲です。重習というのは結局のところ年寄りの狂言ですわ。皆,百年(ももとせ)に及ぶという100才近いお爺さんとかお婆さんが出てくる狂言ですね。それがわりと難しい狂言ですね。
植原 能もそうですね。「卒都婆小町(そとばこまち)」とか「姥捨(おばすて)」とか老女者が重習ですね。
千五郎 今言われた「庵の梅」は老尼の許へ近所の若い女房連が集まってきて,歌をよんだり,昔を思い出して,梅の花を眺めて一杯飲んだりする,これが「庵の梅」ですね。また,「枕物狂」というのがあります。100才のお爺さんが16才くらいの娘さんに恋をして,ひじ鉄砲をくらって,泣き叫ぶという狂言で,最後には孫が取り持ってやるという,これが「枕物狂」です。もう一つ「比丘貞(びくさだ)」という狂言,この3番が重習です。「比丘貞」はお金持ちのお婆さんのところへ孫が名前を付けてもらいに行く。元服すると名乗りがあるんです。そのために,お婆さんに名前を付けてもらうと,たくさんの引出物をくださるだろうと親と2人で行くんですが,引出物も何もくれないといった狂言。
植原 ところで,先生の一番好きな曲といいますか,役はどんなものですか。
千五郎 そうですね。別に,好きな狂言というのはないこともないのですけれども,大体が太郎冠者が出てきて活躍する狂言ですね。例えば,「棒縛り」とか「素袍落」とか「木六駄」といった曲が好きですね。自分ではそういった曲が好きですが,人からは「あんたの大名が良いで」と言われます。本当のところは太郎冠者が好きです。
植原 狂言といえば能と付きものですが,能の中に間狂言(あいきょうげん)というのがありますね。
千五郎 あのね,狂言師の仕事というのは,もちろん独立した一番の狂言,それと能の間狂言というのが重要な仕事です。例えば,能のシテ(主役)が出てきますね。「道成寺」やったら,白拍子(シテ)に鐘のもとで見事に舞を舞えと言う坊さんの役ですね。それとか,「井筒」という能であれば,前半と後半の間に井筒の物語をワキ(脇方)にしてやる。このように間にする間狂言。もう一つ大事なことは「三番三(さんばそう)」を舞うことですね。間狂言の中では「屋島」の「那須の語り」などが難しいですね。他には「船弁慶」の船頭の役とかが難しい。つまり,能の芝居の中に入って一つの役をする。前・後半のツナギの役としてワキに説明をする。道成寺の間,あれは鐘が落ちた時に大騒ぎして,色々なことをします。それが我々の役で,いろんなことがあります。
植原 最近,先生のお社中の中にも外国の方もおられますし,また女性の方も増えてますが,その辺はいかがですか。
千五郎 なかなか外国の方も熱心で,上手にやられますな。日本に長くおられる方で,日本語も上手ですし,日本の古典芸能を理解してくださるのはありがたいことです。
植原 先生や千之丞先生方は随分と狂言の普及に貢献されましたね。大変なご努力だったと思うんですが。
千五郎 お蔭さまでね,こんな小さな芸能で,能楽の中の一つを担う役柄の芸能ですけれど,それじゃいかんと一所懸命やってきました。見てもらって,そうして,満足して帰ってもらえるような狂言をやろうと心がけてやっておりますうちに,だんだん狂言も世の中から認めてもらえるようになりましてね。
植原 先生には芸術院会員,そうして人間国宝と,芸能人として最高の栄誉,誠におめでとうございます。
千五郎 ありがとうございます。私などがと思っておりましたが,頂戴することができて喜んでおります。恥じないようにこれからも頑張らなあきませんね。この間も移動芸術祭で五島列島(長崎県)へ行っておりましたら,皇居の園遊会のご招待を受けまして,びっくりしたんですけど,夜行に乗って出席させていただきました。陛下とは人間国宝になったときと芸術院会員になったときにもお話を賜りました。園遊会では「いつまでも元気で頑張ってください。今日は良く来てくれました」とお言葉をいただきました。他に宇宙飛行士の毛利さんとかオリンピックのメダリストの方達とご一緒でした。また,高円宮様から「あなたの狂言は舞台に出られただけで非常に楽しい」と言っていただきました。私の狂言をよく知っておられますよ。
植原 海外公演なども。
千五郎 海外もよく行きました。今年の4月にもまたアメリカへ行きます。ニューヨークのメトロポリタン美術館で公演します。能の観世流の家元と梅若六郎さんらとご一緒させていただきます。
植原 最後に,先生の今後の抱負を伺えたらと思うのですが。
千五郎 そうですね,茂山家には昔から家訓といいますか,「豆腐のような狂言を」というのが伝わっておりましてね。お豆腐っていうのは,料理の仕方によって如何様にでも変わりますわね。それで,どんな人の食卓にものぼって親しまれています。そんなお豆腐にあやかって,私どもも,どんな場合にでもその場に応じて,人々から望まれるような狂言をしろ,お豆腐のようにどんな人からも親しまれる狂言をしろというのがこの教えなんです。私もこの教えに従って狂言を続けていきたいと思っております。それから,今後の抱負というたら,次の世代を育てることでしょうな。若い人達が,育っていく姿を見るのが何より一番嬉しいことですわ。
植原 今日は本当に長時間にわたり,色々貴重なお話を伺いありがとうございました。どうか今後もお身体に気をつけられ,良い舞台を見せていただけることを祈念いたします。