――これは高校の古文の教科書にも載っている「大鏡」の中の有名な件です。ころは平安中期,天文博士でまた比類なき陰陽師である安倍晴明が「帝の退位を示ような天変があったが,事は既に終わってしまったようだ。」と叫びました。寛和2年6月22日(現行歴では986年8月5日)の夜,花山帝は藤原道兼(道長の兄)にだまされて退位・出家してしまうのですが,御所から花山寺に行く途中,晴明の家の前を通った時にその声を聞いたと記されています。帝の退位を示す天変とは,一体何だったのでしょう?安倍晴明は最近,漫画によって妖術使いのヒーローのように描かれていますが,約千年前京都に実在した人物です,天文博士とは星のことをよく知っている先生という呼び名ではなくれっきとした官職名なのです。彼の役目は天文現象を克明に記録し,日月食・彗星・流星など変わったことがあれば直ちに内裏へ奏上しなければならないのです。日食予報をサボったら責任は彼だけにとどまらず,太政官全体の問題にもなりかねません。それだけに「天変」には慎重になっていたはずです。また彼の知識は迷信深い貴族の間で暗躍することも出来たでしょう。
斎藤国治氏は木星がてんびん座α星(2.75等)へ犯を起こしたことだと述べられています。犯とは天体同士の異常接近ですが,食のように重なることではありません。実際に計算した結果,木星は8月上旬,てんびん座α星の約0.5度にあることがわかります。当日この二星は10時半ころ南西の空に沈むのでそれまではこの犯が見えたでしょう。晴明はこの天変を内裏へ急告しようとしたけど,すでに退位後のことで間に合わなかった・・・果たしてそうなのでしょうか?
大鏡のもう少し前を読んでみると,帝が御所を出ようとしたとき「有明の月のいみじう明りければ・・・月の顔にむら雲のかかりてから」出発したと書かれています。旧暦22日ですからほぼ下弦の月,月の出は真夜中の12時前,帝の夜行は多分1時か2時ころです。木星はすでに沈んでしまった後,なぜ晴明は3,4時間も経ってから奏上せねばと言ったのでしょうか?木星は12年弱で天球上を一周するので,この周期でてんびん座α星への犯を起こします。実際974年,962年,950年にも起こっています。晴明(921―1005)はこの時すでに60歳を越えて天文に熟知していたはず,12年前,24年前の犯について知らなかったとは考えにくい。いやこの度の犯も前もって予知していたかも知れません。他に天変の可能性はないものか?この日の他の惑星の位置を計算してみると,右図のようになります。土星はへびつかい座にあり,0時過ぎにすでに西に沈んでいます。火星はふたご座にあり2時過ぎに,また金星・水星はかに座にあり3時過ぎにならないと東の空に上ってきません。つまりこの時刻には五惑星とも地平線下ですから惑星の天変とは考えられません。では月はどうでしょうか。前述のようにこの日,月の出は0時前で夜明けまで見られます。その位置はおうし座,すばるの辺りです。栗田和実氏は23時ころから1時ころまで月がすばるの手前を通ったのですばるが隠された(すなわち食)ことを指摘されています。「すばる」は「すべる(統べる)」「すめらみこと」に通じる言葉です。天変がこれなら帝が御所(千本北大路あたり)を出て山科の花山寺に向かう途中,晴明の家(堀川一条あたり)の前を通り過ぎたころに良く合います。
そこで,筆者はこの夜の天変とは「前半夜の西空の木星」と「後半夜の東空に半月」の両方と考えて,晴明の人物像に独断的解釈を二つほど試みました。
●晴明は22日の日没後から10時半頃までに天体観測をしていた。雲がかかったり往来したりして観測条件は良くなかったけれど,木星の異常さに気がついて何度も辛抱強く測定した。データを整理し計算の結果,犯が起こったと確信できた時は,すでに夜半を過ぎ月も出ていた。ちょうどそのころ,すばるが月に隠されたのを見て,ことの重大さに驚き,思わず声を出した。そうならば晴明は。
・・・慎重な天文博士!
●ベテラン観測家の晴明はすでに数日前から木星の犯が起こることもすばるの食が起こることも予知していた。彼はこの二つの天変が22日の夜起こることを天皇に奏上すべきなのに,藤原の兼家・道兼父子に密告した。彼らは大喜びで,帝に退位を強く勧めた。帝も星のお告げならやむなしとしぶしぶ出家を決意した。晴明は予報が両方とも当たって,帝がすでに退位してしまってから,役目上の義務として報告に行こうとした。そうならば晴明は。
・・・このクーデターの加担者!
さて,真相はどちらに?
なおこの小文は2000年1月6日の読売新聞および,大阪市立科学館発行の月刊誌「うちゅう」6月号に載った記事に加筆したものです。
上記の肩書・経歴等はアキューム25号発刊当時のものです。