前号の「ヒミコの日食」に続き,天文現象から歴史や文学を眺めてみます。 日本人が数百年間も慣れ親しんでいる昔話の中にも星は潜んでいます。ここでは浦島太郎とかぐや姫の抱えている謎に迫ってみましょう。昔話といわれている童話には庶民が本を読むようになった江戸時代に,書き直されているものが少なくありません。
むかしむかし,浦島は
助けた亀に連れられて
・・・・ (中略) ・・・・
中からぱっと白煙
たちまち太郎はお爺さん
浦島太郎が助けた亀に乗って龍宮城に行き,乙姫様と楽しく暮らし,お土産に玉手箱をもらい,帰ってみたら知らない人ばかり,開いた玉手箱から出た煙でた ちまち彼はお爺さんになってしまった…という童話は誰もが知っていますね。この話の出典は『御伽草子』という室町~江戸時代にできた物語集です。浦島太郎は 『御伽草子』では,その後,鶴になり蓬莱の山へ飛び去ったと結び,後日,亀とともに神として祀られたことになっています。浦島伝説はずっと古くからあり,その原 型は私たちがなじんでいるものとかなり異なっています。それを物語る奈良時代の文書は,なんと『万葉集』と『日本書紀』 です。『万葉集』では老いた彼はその場で死ぬことで終わっています。また『日本書 紀』では「雄略天皇二十二年秋七月」という年が書かれていますが,その記述は非常に短く,詳しくは別巻(ことまき)でということで 終わっています。重要なのはその別巻(参考文献)である『丹後国風土記』です。その原本は失われていますが,逸文(後世の 書物に引用された文章)として詳しく伝わっています。万葉仮名なので不明な箇所(*の部分など)もありますが,要点だけを現代文に訳してみます。
丹後の国,与謝の郡,日置の里,筒川の村に「筒川の嶼子(しまこ)」別名「水江の浦の嶼子」という容姿端麗で優雅な男がいました。ある日嶼子は,一人で大海に小船を浮かべて釣りをしていましたが,三日三晩しても全く釣れませんでした。ところがついに五色の大亀が釣れ,船上に上げて眺めていると眠くなっていつの間にか寝てしまいました。しばらくして目が覚めると,亀が美しい乙女に姿を変えていました。ここは陸から離れた海の上,「どこから来たのですか。」とたずねると,乙女は微笑みながら「あなたが一人で釣りをしていたのでお話ししたいと思い,天上仙家から風雲に乗って会いにきました。」と言います。そして天地日月の果てまで嶼子のそばにいたいとモーレツに求愛し,海の彼方にある蓬とこよ山の国へ誘います。初めは疑っていた嶼子も彼女の熱意(というより誘惑)に負けて,一緒に行くことにしました。嶼子は船をこぎ始めるとすぐに眠ってしまいました。
まもなく宝石をちりばめているように光り輝く大きな島に着きました。そこはこれまでに見たことがない景色でした。大変高くてきれいな宮殿があり,楼閣はすべて光り輝いているように見えます。二人は手を取り合ってゆっくりと歩んでいくと,一軒の立派な屋敷の門の前に着きました。乙女は「ここで待っていてください。」と言って中に入っていきました。門の前で待っていると,7人の子供がやってきて「この人は亀姫様のお婿さんになる人だ。」と語っています。そして,次に8人の子供がやってきて,また「亀姫のお婿さんはこの人だ。」と話しています。嶼子は乙女の名は亀姫で,この宮殿のお姫様だと知りました。しばらくして,乙女が出てきて「この7人の童は昴星で,8人の童は畢(ひつ)星ですから,ご心配なく。」と説明して門の中へ案内しました。
ここから先は私たちの知っている童話とほぼ同じですが,最後が違っています。嶼子は亀姫と結婚して,何不自由ない楽しい日々をすごしました。ところが3年経って故郷へ帰りたくなり,妻・亀姫にそのことを話すと,彼女は非常に悲しみ「永遠の誓いをしたのに,あなたは私一人を残して帰ってしまうのですね。」と涙を流します。しかしついに「私のことを忘れないで,また会いたいと思うのなら決してふたを開けてはなりません。」と言って玉匣(たまくしげ)を渡します。亀姫の両親に別れを告げ船に乗って目を閉じると,たちまちのうちに故郷の筒川に着きました。ところがそこにはかつての村の姿がなく,見たことのない景色ばかり,しばらく歩いて,村人に水江の浦の嶼子の家族のことを聞いてみました。すると不思議そうな顔をして「今から300年前に嶼子という者が,海に出たまま帰ってこなかったという話を年寄りから聞いたことがあるが,あなたはどうしてそんなことを急に尋ねるのですか?」という答です。嶼子は村を離れていたのは3年間だと思っていたのですが,実は300年も経っていたと知り,途方にくれてしまいました。さまよい歩くこと1か月,再び妻に会いたくなり,約束も忘れて持っていた玉匣のふたを開けてしまいました。すると中から芳(かぐわ)しいにおいが天に流れていってしまいました。ここで我に返って約束を思い出しましたが,すでに遅かったのです。彼は首をめぐらしてたたずみ,涙にむせび,うろうろ歩き回るばかりでした。
そして次の歌を詠みました。
常世べに 雲たちわたる 水の江の
浦嶼の子が 言持ちわたる
遙か彼方の芳音の中から亀姫の歌が,
大和辺に 風吹き上げて 雲放れ
退き居りともよ 吾を忘らすな
嶼子は恋慕に耐えきれずに歌います。
子らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば
常世の浜の 波の音聞こゆ
これについて後世の人はこう歌いました,
水の江の 浦嶼の子が 玉くしげ
開けずありせば またも会はましを
常世べに 雲立ちわたる たゆ***
雲はつかめと 我ぞ悲しき
物語はここで終わっています。
まず主人公の名嶼子についている「子」とは小野妹子,蘇我馬子など,身分の高い人につけられる称号であり,浦島は決して貧しい漁師ではありません。むしろその地の豪族だったのかもしれません。丹後の国,与謝の郡,日置の里,筒川の村とは京都府与謝郡伊根町筒川であり,現在そこには彼を祭神とする浦嶋(宇良)神社があります。創建は平安初期の天長二年(825)で,この話が伝わっているそうです。次に亀は子供にいじめられ,嶼子に助けられたのではありません。この亀は蓬山の仙女で,嶼子を誘いに来たのです。その蓬山と筒川との往来は眠っているうちに瞬間移動しています。
最も重要な箇所は彼を出迎えた子供です。昴星と畢星は言うまでもなく,散開星団プレアデスとヒアデスで,それぞれ410光年,140光年の距離にあります。なんと蓬山(=とこよ國)とは宇宙の彼方にあったのです。彼は海の彼方の大きな島または海底にあるという龍宮城に行ったのではないのです!
最後は白髪のお爺さんになったのか,死んだのか,それとも亀姫のところへ戻ったのかわかりません。諸々の解釈があるそうです。ところでこの話の前文に「筒川の嶼子は日下部首(くさかべのおびと)たちの先祖であり,この話は旧宰,伊預部馬養連(いよべのうまかいむらじ)の記したものと相違するものではない。」という断り書きがあります。伊預部馬養連(657~702?)という人物は持統天皇(645~703:在位 686~697)の時代に説話収集の役目(撰族である日下部首が,その話を買おうとやって来て曰く
かつてワシより何代か前,先祖の一人に海へ出たまま行方不明になった者がいると聞いているが,彼がそうかもしれん。たとえ違ってもこの話を伊預部馬養連のところへ持ちこめば,面白おかしく書いてくれるだろう。どうせあの馬養連はあることないことを都の公家たちに吹聴しているのだから,こういうネタには喜んで飛びついてくるはず。今,天下の実力者である藤原不比等は特に歴史好きで,役人学者を集めて『日本書紀』というすごい歴史書を書かせているらしい。今こそ筒川の知名度を上げ,日下部の名を後世に残す絶好の機会じゃ。あの嶼子という男を他の豪族に取られぬよう用心せねばならん。
そしてその通りになりました。いや日下部首と伊預部馬養連が脚色したかもしれません。
なお,二人の会話で嶼子は自分のことを「僕」と,亀姫は相手のことを「君」と言っています。僕・君の呼び方は意外に古くから使われているようです。
「今は昔,竹取の翁といふ者ありけり」で始まる『竹取物語』は,竹の中から生まれたかぐや姫がお爺さんお婆さんに富をもたらし,十五夜の月に還っていくという誰もが知っているお話ですね。しかし実はこれ,童話でもSFでもなく反権力風刺小説なのです。原本は残っておらず,成立年・作者とも不明ですが『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」という文章があることから平安初期の作品であることは確かです。問題はかぐや姫に求婚する5人の公達で,そのうちの3 人,阿倍御主人(あべのみうし)(635 -703:右大臣),大伴御行(おおとものみゆき)(646 -701:大納言),石上麻呂(いそのかみのまろ)(640 -717:左大臣)は古代律令制が成立した飛鳥朝廷の高官です。阿倍御主人の子孫には安倍晴明がいるし,大伴御行はもちろん大伴氏で,石上麻呂は物部氏の末裔です。また石作皇子(いしづくりのみこ)のモデルは多治比嶋(624 -701:左大臣),車持皇子(くらもちのみこ)のモデルはなんと藤原不比等(659 -720:右大臣)であることが,江戸時代からの研究でほぼ確定しています。かぐや姫はこの5人の公達にプロポーズを受ける条件として,噂にしか聞いたことがなく,手に入れるのは非常に困難な珍しい宝物を持ってくるように伝えます。
石作皇子は天竺にある「仏の御石の鉢」を持参ということでしたが,大和国十市郡の山寺にあった古い鉢を持って行って,見破られてしまいました。車持皇子は「蓬莱の玉の枝(根が銀,茎が金,実が真珠の木の枝)」の偽物を秘密の工房で千日かけて作らせ持って行きます。翁はすっかり信用してかぐや姫ピンチ,そこへ報酬を支払われていない職人がやってきて嘘がばれ,なんともお粗末な結末。腹いせにその職人たちを後で滅多打ちにしています。阿倍御主人は唐土にある「火鼠の裘(かわごろも)(燃えないとされる布)」を唐の商人から高値で購入しましたが,それは燃えてしまって贋物だと分かりました。大伴御行は「龍の首の珠」を探しに,財をはたき行き先もわからず船出しますが,大嵐に遭い,さらに重病にかかったため諦めてしまいました。石上麻呂にいたっては「燕の産んだ子安貝」を取るために籠に乗って大炊寮の小屋の屋根に上ったところ,燕の糞をつかんで転落して腰を打ち,命を落としてしまいました。このうち車持皇子が最も悪く書かれています。
かぐや姫はこの5人に無理難題を吹っ掛け退散させ,この左右大臣を含む高位高官たちの失敗を嘲笑っています。さらに帝からの入内命令にも従わず,最後には武力にも屈せず,故郷の月へ帰ってしまうというたくましい女性です。決してなよなよしいお姫様ではありません。彼女は天上で罪を犯し地上に遣られ,それが許され月へ戻るわけですが,これは左遷追放されたけど後年恩赦か何かで都に戻られた公家のようです。そういえば光源氏も一時左遷されていますね。
この物語の最後に重要な文章があります。
月へ還っていくかぐや姫は帝に不死の薬と天の羽衣,帝を慕う心を綴った文を贈りました。しかし帝は「かぐや姫のいないこの世で不老不死を得ても意味が無い。」と,それを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じました。それからその山は「不死の山」(富士の山)と呼ばれ,その山頂からは常に煙が上がるようになりました。
実際,平安時代には富士山は常時煙を吹いていたことが知られています。
かぐや姫を入内させようとし,月へ還ってしまってからも未練心を抱いている帝とは誰でしょうか?この5人が都にいた時の天皇は天武,持統,文武ですが,持統は女帝だから除かれ,天武在位期に不比等はまだ若輩で表舞台には現れていない,従って文武(在位697 -707年)しかありえません。かぐや姫が月へ還ってしまった日はこの在位期間の中秋の名月(旧8月15日)であることが推定できます。文武天皇は父・草壁皇子が若死にしたので14歳で即位しますが,お祖母さんの持統上皇(645 -703)が実権を握っている間は,光り輝くとはいえ,どこのだれかわからない田舎娘を宮中に迎え入れるなんてもっての他だったでしょう。この帝は707年7月に24歳で亡くなっているので,問題の宵は703年(大宝三年)~706年(慶雲三年)の中秋の名月となります。結局,703年9月30日,704年9月18日,705年9月7日,706年9月26日,この4つに絞られ,没年直前の中秋の名月である706年9月26日(日) が最有力候補となりそうです。
『竹取物語』の舞台はどこでしょうか?京都府南部(長岡京市,八幡市,京田辺市),奈良県広陵町,富士市などの候補がありますが,飛鳥藤原京に近いことから広陵町が有力です。
最後に『竹取物語』の作者は誰か?空海,源順,紀貫之,紀長谷雄…多数の候補者が上がっていますが,藤原不比等を嘲笑っているからには,藤原氏に恨みがあり,仏教・道教・漢籍・和歌などに精通し,もちろん文才もある人でしょう。そこで紀貫之(866? -945?)が最有力候補になっているそうです。紀氏は古来の名族で,彼は『古今和歌集』の編者,『土佐日記』の作者としては有名ですが,位は従五位上–木工権頭(いわば営繕課長)という冷や飯食いだったそうです。そういえば彼のいとこの紀友則の有名な歌「久方のひかりのどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ」(百人一首)は「桜の花が散るのを悲しんでいるというより,桜の後に藤(原)の季節になることを嫌がっている」ように思えますね。
文献
丹後国風土記逸文 については
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits5.html など
竹取物語 については
http://ja.wikisource.org/wiki/竹取物語 など