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Accumu Vol.9

抽象の力

京都コンピュータ学院洛北校校長 牧野 澄夫

S君,元気ですか。これから少し,近頃私の頭の中にあって消えないものについて,君に話を聞いてもらいたいと思います。

それは「考える」ということです。一体,「考える」というのはどういうことなのでしょう。それは頭の中になにかしら観念が浮かぶことでしょうか。そうではないですね。どこからともなく,ある観念が突然,私の頭の中へはいり込むのは,ひらめきとか思いつきということ。それだけでは,考えたことにはなりません。それは,いってみれば,当の観念が現われるための場所として,私の頭を貸したようなものにすぎません。

「私が考える」というためには,その観念に向かって,私の働きかけが必要でしょう。ところで,この働きかけは無自覚的に行なわれることが多いために,上手な働きかけと,下手な働きかけを識別することは,とても難しいものです。それにしても,この働きかけの上手・下手を見分けることは,「考える」ための必須の条件といえるでしょう。

そして,この両者を比較,検討する上で,ポイントの一つが,「そこに抽象の働きがみとめられるかどうか」だというのが,私のこれから話したいと思っていることなのです。「賢いコンピュータ」という言葉が安易に使われることもありますが,本来,コンピュータに「抽象の働き」は難しいのではないでしょうか。その反面,人間にとっては,「抽象」という語はなじみのものであるだけに,いまさら「抽象」なんぞと思うかもしれませんが,まずは私の話を聞いてください。

1.「抽象的」とは?

私達は「抽象」という言葉と,「抽象的」という言葉の,いずれをよく使うでしょうか。「抽象」よりも「抽象的」という言葉を,日頃見聞きするのではありませんか。さらに,この「抽象的」は,たいてい(といってもいいと思いますが),よくない意味をこめて使われています。試みに,小型の国語辞典*1を開いてみます。

「抽象的」

①同類のもの一般を,頭の中で取り出して考える様子。

②物事の実際を離れ,言っている事の内容がはっきり分からない様子。

「抽象的な思考が出来る人」という時には,①の意味であり,これは悪くありません。しかし,それ以上によく使われるのは,「あいつの考えは抽象的だ」といった②の意味の方であり,他人を非難する際の決まり文句の一つです。

では「抽象的」の反意語である「具体的」はどうでしょう。

「具体的」

実際的で,細かい所まで取り上げる様子。

まさに,「具体的」は望ましいものであり,「抽象的」はうさんくさいもの,少なくとも,取り扱いが難しいものなのです。

なぜ「具体的」はよくて,「抽象的」はよくないのでしょう。「抽象的」が,象(かたち)をもたぬものを,頭の中でこねまわしたものであるのに対し,「具体的」は,まさに体(かたち)をそなえたものです。そこで,かたちをもつものこそ,手応えがあり,さらに,「実在」するものは,すべて(?)かたちをもつが故に,かたちをもつ「具体的」なものの方が,より「実在」に近いと考えられるのではないでしょうか。

2.「具体的」なものに対する幻想

考えてみれば,私達は「具体的」なものに対し,大きな幻想を抱いているようです。「具体的」なものこそ本物・真実であるとして,「具体的」なものをつかむため,種々の工夫をこらしています。

《1》マニュアル的思考。

「具体的」なものをつかむためには,まず「注視」することが必要であり,そのためには「部分的な切り取り」が有効です。いわば,狭い範囲に限定してスポットライトをあてるやり方です。こうして全体への関連を度外視して,一部分に光をあてるやり方の典型が,マニュアル的思考でしょう。

マニュアルには,まさしく「具体的」なものが表現されています。「複雑な機械を使うための,詳細な指図が書かれた本」であって,場面に応じて,それぞれ特定の命令が示されている。手引きなのです。文字通り,手を取って,お目当てのところまで導いてくれるもの。したがって,何の予備知識も持たない初学者・素人にも分かるはずのものなのです。ところが,ここに落とし穴があります。個々の事実に即した,「具体的」なこうした説明は,当然全体を示しません。そのため,いってみれば,目前の壁,また側面の壁は確かに触れることのできる「具体的」な実在でありながら,全体の見通しはきかない「一大迷路」になりかねないのです。

このことは,図解本についてもあてはまります。図解は,まさに「具体的」表現だからこそ,分かりにくいこともあるのです。

《2》近代自然科学の根本想定。*2

近代自然科学の根本的な考え方が,同じように部分切り取りだといわれます。20世紀の哲学者ホワイトヘッドの用語では,「シンプル・ロケーション」というこの考え方は,以下のようです。自然の各部分は,その周りから切り離しても,本来もっている性質を保持することができる。したがって,自然を精密に正確に,つまり「具体的」につかもうとするなら,より細かく分割し,その各細部を他から切り離して注視することが大切である。その時こそ,自然は「真実の姿」を現わすというわけです。

こうした考え方に対して,ホワイトヘッドは,次のように批判します。まず第一に,自然は固定したものではない。「自然は,進化してゆくプロセスから成る一つの構造体であり,現実(The reality)はプロセスである」。いま目前に見る「赤い色が現実(real)かどうか,と問うのはナンセンスである。赤い色は,現実が現実となる(realization)プロセス中の一成分なのだ」。*3

本来,プロセスの一部分を切り取ることはできません。可能な限りの細分化を目指す,シンプル・ロケーションは不可能なのです。急流の一部切り取りができるでしょうか。すくいあげた水の一滴に,急流のいきおいは見出されません。

3.抽象の力-①捨象

カントは『人間学』*4の中で,(思い切り現代的に言い換えてみますと)自分の受け取った感覚情報を自覚するためには,二つのやり方があるといいます。「一つは注視すること。もう一つは,自分が意識しているそうした情報から,あえて目をそらす(抽象する)ことである。後者は,注意を怠ることではなくて-それは放心とよばれる-認識能力の現実的な働きである」と。

感覚的な情報が,外部から,うむをいわせぬ強圧をもって,自己を押しつけてくる時でさえ,そうした情報からあえて目をそらす(抽象)ができるということは,注意能力よりもはるかに重要なものです。「なぜなら,それは思考能力の自由と,心の独立主権を証明するものだから」。

こうしてカントは抽象を「捨象すること」ととらえ,抽象の価値を高く評価するのです。普通は,目を凝らすことの方が,目をそらすことよりも大切だし,また難しいと考えるかもしれません。ところがカントは,人間の意識的活動としては,あえて目をそらすこと(抽象)の方が注視よりも重要だしまた難しいというのです。

カントは興味深い事例をもち出します。ここに結婚相手を探している男がいるとする。ある女性について,他の点では申し分ないが,ただ一つ,前歯が一本欠けている,あるいは顔に疣があり,それが気になってどうしても結婚に踏み切れない。もし,相手の顔の疣とか欠けている歯に目をつむることができたなら,良い結婚ができるのに・・・。

肝腎なところが良ければ,その他の欠点には目をつむることができることは,賢明なこと。したがって,こう言える。「多くの人は,抽象ができないばっかりに,不幸なのだ」と。さらに,「しかし,この抽象する能力は,練習によってのみ獲得可能な心の力である」。

捨象-あえて目をそらす-という意味での抽象は,広くいえば,「情報を自覚的にあえて捨てる」力と言えるのではないかと思います。捨てた方がよいと判断して,あえて情報を捨てること。現代の,この高度情報化社会においては,情報を取捨選択する力が大切だとよく言われます。しかし,実状は,情報をいかにして取ってくるか,は論じられても,いかにして情報を捨てるか,は考えられているでしょうか。物質をいかに捨てるか,が現在生態学上の大きな問題になっています。同様に情報の捨て方は,情報の取り方と並んで重要な問題ではないでしょうか。

4.抽象の力-②一般化

「具体的」なものは「個別的」なものでもあります。私達はまた「個別的」なものに固執する傾向をもつともいえると思います。

ところで,なぜ私達は「個別的」なものを特によろこぶのか。まず,「個別的」なものはまた「特殊的」なものでもあります。つまり,他と違う点をもつことです。これについては,アリストテレスに「違いを知りたがるのが人間だ」という言葉があります。つまり,人間は知ることを望む,そしてその知の要求は,特に視覚において明らかだと彼はいいます。ところで,何を見たがるかというと,物事の間の違いをこそ人間は見たがるのだと。とするなら,「特殊的」なもの,つまり「個別的」なものを私達がよろこぶのは当然のなりゆきでしょう。

しかし,後世の哲学者ベーコンは,私達には,二つの知能があると言います。つまり,「違いを見つける鋭い知能」と,「類似を見つける高翔的で見渡してゆく知能」*5。私達がものを知るためには,違いを見つける=「個別」をとらえる働きと,違いを越えた一般をみとめる=「抽象」の働きの両者が必要なのです。

「個別的」なものについて,ジョン・ロック*6はこんなことを言っています。

この世に存在する事物はすべて個別的なものである。とすれば,それらの事物を表わす言葉も,(意味の上で)当然個別的でなければならないと考えられるかもしれない。ところが現実は逆で,言葉の大多数は一般名辞である。

なぜそうなるのか。その疑問に対して,ロックは次のような説明をしました。

《1》まず,個(別)物の一つ一つが,それぞれ異なる名をもつことは不可能である。私達が日々出会う個物の一々に,それぞれ異なる名をつけることは人間の能力を越えている。羊の群れの一頭毎に別々の名をつけたりはしないのだ。

《2》もし,個物の一々に異なる名をつけることが可能であったとしても,それは無益である。本来,言葉は他人に自分の考えを伝えるために存在する。すべての事物は個物であるというので,それらの一つ一つを表わす言葉の方も一々別にするとしよう。その際に当然予想される,「私だけが知っており,他人は知らない個物」,を表わす言葉にどんな意味があるだろうか。

《3》さらに,右記のことが可能だとしても,そもそも,個物の一々に異なる名をつけることは,知識の進歩に役立つものではない。知識というものは,たとえ個物に基づくとしても,一般的な視野(広く見ること general view)によって,広がってゆくのだから。もし私達が一々の個物に異なる名をつけたとしても,あくまでもそれらは,すべて私達が出会って既に見知った個物であり,未知の個物には適用できないのではないか。ある人はその事情をCatという言葉を使って説明します。Catはany cat を意味するのだ。その語はある特定の猫を指すのではない,どの猫にもあてはまるものだと。

ロックは,このようにして,「個別的」なものを越えて一般化に向かうことの意義を,言葉の働きに即して説明しています。これこそ,抽象の働きではありませんか。

また,最近読んだ本*7の中には,こんなことが書かれていました。「それぞれの状況で身につけた知識は,いろいろな文脈,場面と密接につながっているので,この拘束から離れてはなかなか転用ができない。抽象化とはこの束縛から解放して,一般性のある高次な知識,メタ認識に変えること」であると。まさに,「個別的」で「特殊的」なものを越えて一般化を目指す「抽象」の働きが必要なのです。

この項の終りに一つ考えてもらいたいことがあります。それは「略語」です。よく知られているように,特にコンピュータに関する話には略語が多用されていますね。この略語は,抽象でしょうか? こうした略語は,一般化を目指す力をもっているのでしょうか?

5.抽象の力-③「可能的」なものを考える

「具体的」なものはまた,「現実的」なものとも考えられます。そして,私達には「現実的」なものへの偏執も大いにみとめられるように思えます。絵画でいえば,ハイパーリアリズム(悪口を言えば,写真のような絵)への好みです。さらには,流行のヴァーチャル・リアリティさえ,力点は,ヴァーチャル(虚としての性質),リアリティ(現実性),のいずれに置かれているのか疑わしいものです。

ここで少しアメリカ人哲学者ウィリアム・ジェームズの言葉に耳を傾けてください。「なぜ宇宙はこのようなものかと不思議に思うためには,それと異なる状態の概念がなければならない。彼(動物)は世界をただそのままに受け容れ,決してそれを不思議だとは思わない」*8。動物にとっては,目前の現実が世界のすべてです。これに対し,人間だけが「現実」と「可能的な世界(そうであることも可能と考えられる世界)」の両方を持つことができるというのです。

この「可能的」なものを考えることも抽象の働きです。ここでは,言葉が大きな役割を果たすといわれます。こうした抽象の力を鮮やかに示した事例(ゴールトシュタインによる)*9を一つあげます。

不幸にして,人生の途上で言葉を失うのを失語症といいますが,多くの失語症の患者は,その行動において健康人と大差はないそうです。ところが,「より抽象的な思考が要求される問題に直面すると,つまり,現実性よりも単なる可能性を考えなければならない時には,とたんに大きな困難を経験する」ことがあるそうです。たとえば,右手の麻痺したある患者は,「私は右手を使って書くことができる」という言葉を口にすることができなかったということです。医者が何度も言ってみせても,その言葉を繰り返すのを拒否した。ところが「私は左手を使って書くことができる」は易々と言えたと。

なぜ「右手」という言葉は使えなかったか。ゴールトシュタインによれば,「右手」という言葉を使うためには,「単に想像されただけの『可能的な』もの,具体的な状況の中には与えられていないものにアプローチする能力」が必要となる。ところが,この患者にはこのことができない。「彼には,抽象的なものをつかむことができないから」。「彼は具体的な領域でのみ,生き,行動することが可能なのだ」。

6.システム・エンジニアの場合

システム・エンジニアが,システム設計を行なう時,設計の上流工程において,システムの要求定義の確定という作業が必要となります。システム設計の教科書でおなじみのその作業を簡単に書くと,

《1》システム・エンジニアは,まず,ユーザの諸要求をききとります。その時に必要な作業は,ユーザの提示する諸要求を取捨選択することです。要求のすべてを実現することは,不可能であったり,あるいは不適当であったりするのです。システムの大きさを考えあわせ,割愛すべきものを選び出して,捨てることが第一の作業となるのです。[捨象]

《2》次に,選び出した諸要求を分類・整理します。単に目前の事態に即応するだけでなく,同種の事態のすべてに対応できるように,諸要求を一般化する必要があるのです。[一般化]

《3》さらに,もう一度ユーザのところに戻って,ユーザが最初もち出さなかった要求を,システム・エンジニアの方で,付け加えることも必要になります。つまり,ユーザの「現実の要求」に対する「可能的な要求(実際には要求されていないが,将来その必要性が予想されるもの)」を考える働きです。[可能的なものを考える]

システム・エンジニアは,こうして日々,前に記した抽象の三つの働きを使っているのです。その意味で,「複雑な現象を理解してゆく課程において,人間の理解力の助けとなる最も強力な道具は,抽象(abstraction)である」(ホーア)*10という言葉は,大いに説得力をもつものではありませんか。

7.抽象のハシゴ*11

ここまで,「具体的」に対する「抽象的」を考えてきました。しかし,そもそも純粋に「具体的」なものなどあるのでしょうか。アメリカの言語学者ハヤカワは,そんなものは存在しない,すべては「抽象」の働きを受けていると言います。そして,抽象には様々の度合いがあり,低い程度から高いものへ,いわば抽象のハシゴを考えることができると述べています。

彼は,ベッシーという名の牝牛を例にとります。まず,最も抽象度の低い,その意味で,最も「具体的」と思えるのは,「高速で動く原子の集まりとしての牝牛」(レベルⅠ)でしょう。しかしこのレベルでは,原子の組み合せは一瞬毎に変化しており,その限り,実体というよりプロセスです。*12

以下「目で見る牝牛」(レベルⅡ),「ベッシー」と名付けた牝牛(レベルⅢ),「牝牛」(レベルⅣ),「家畜」(レベルⅤ),「農場資産」(レベルⅥ),「資産」(レベルⅦ)「富」(レベルⅧ),と,次々に抽象度が上がってゆくといいます。

まさに,私達は,こうした抽象のハシゴを作って,ものを考えているのです。

では冒頭で述べた悪い意味での「抽象」とは一体何なのでしょう。ハヤカワによれば,それはハシゴのどこかの横木での「立ち止まり」なのです。一般には,高いレベルでの「立ち止まり」を指して,「抽象的だ」と避難されますが,実は,低いレベルでの「立ち止まり」も同様にまずいことなのです。私達が目指すべきは,高いレベルの抽象と低いレベルの抽象間をうまく昇り降りすることだと,彼は言います。

さらにこのハシゴの比喩を続けます。小さな,横木の数の少ないハシゴと,大きな,横木の数も多いハシゴを較べてみてください。後者の方が,見る段階が多くなるためにより多様な見方ができ,さらに,より遠くまで,より広く見渡すことができるのです。したがって,横木を増やしてより大きなハシゴを作ること,つまり「新しい抽象の発明」は「一つの大きな前進である」ということになります。

おわりに

これまで,主に,道具としての言葉を介在させた抽象について考えてきました。ところで,20世紀は映像技術がめざましい発達をとげたため,「映像の世紀」ともよばれます。今後は,マルチメディアに代表されるような,映像を使った思考つまり「映像的思考」が,言葉を使う「言語的思考」と並んで,重要な課題になるでしょう。メディア・リテラシーという言葉も,こうした「映像的思考」の視野のなかで取り上げられるべきものと思います。

S君,だからこそ,21世紀は君たちの時代なのです。「言葉」だけでなく「映像」をも使って,考える(抽象する)ことのできる,言葉の真の意味で「ホモ・サピエンス(叡智をもつ人)」の誕生が,強く待ち望まれているのです。

【注】

*1 『新明解国語辞典』第四版(三省堂)。

*2 藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』(岩波新書)Ⅱ,1 「近代自然科学の根本想定」を参照のこと。

*3 ホワイトヘッド著上田・村上訳『科学と近代世界』(河出書房新社)第四章-十八世紀」。訳文は少し変えている場合があります。(以下の翻訳も同じ)。

*4 カント著坂田徳男訳『人間学』(岩波文庫)Ⅱ,1「認識能力について」。

*5 ベーコン著桂寿一訳『ノヴム・オルガヌム』(岩波文庫)アフォリズムⅠ,55。

*6 ジョン・ロック著大槻春彦訳『人間知性論』(岩波文庫)第三巻「ことばについて」。

*7 梶田正巳『勉強力をつける』(ちくま新書)。第4章「ネットワーク型認識への接近」。

*8 ウィリアム・ジェームズ著今田寛訳『心理学』(岩波文庫)第22章「推理」。

*9 カッシーラー著宮城音弥訳『人間』(岩波文庫)Ⅰ,5「事実と理想」。

*10 ホーア著川合慧訳「データ構造化序論」冒頭の言葉(『構造化プログラミング』サイエンス社に所収) なお,この節については,学院の李先生に教えてもらいました。

*11 ハヤカワ著大久保忠利訳『思考と行動における言語』(岩波書店)Ⅱ,10「われわれはどうやって知るか』。

*12 2「近代自然科学の根本想定」の項を参照のこと

この著者の他の記事を読む
牧野 澄夫
Sumio Makino
  • 京都大学大学院文学研究科博士課程修了
  • 専門は「西洋哲学史」
  • 京都コンピュータ学院副学院長,京都コンピュータ学院京都駅校前校長

上記の肩書・経歴等はアキューム15号発刊当時のものです。