夢の内容を他人に伝えるということは,たいへん困難なことである。人が昨夜みた夢を説明する時に,普通はもちろん言語で,状況,景色,形,色などを説明していく。どんな部屋で,誰がでてきて,何をしゃべって,どんな気分がしたか…。しかし,夢というものは,そのように色や形のはっきりとしたものだけではない。
わたしは,時々,夢の内容を無理に言語化し,他人に伝えようとした時,どうも納得いかない気持ちになることがある。物質的ではない夢,エネルギーのかたまりのような夢の様子を言語化したときである。抽象的なエネルギーをどのようにして説明していくのか。あの世に行ったような不思議な感覚の夢をみたとしても,もしそこに色も形もなければ,それを「あの世のような夢」と言葉で表現してもやはりそれは説明しきれていないのだ。「あの世」という言語の記号でしかないからである。
音楽はそのような時,とても便利な芸術である。美術や文学は表現されるものを概念へと置きかえていく芸術であるのに対し,音楽は感覚的で直接的だといえる。エネルギーそのものへ近づいていけるのだ。わたしは音楽というものの存在を,異次元に通じるための媒体として受けとめている。もちろん,現在この世にあふれた記号化された音楽のことではない。「言語にならない夢」のような,すべての記号から解体された音の集合体である。
ここでデジタルな方法論というものは,使い方次第で,音を解体し,わたしたちを異次元に一歩近づけることにもなるし,音を記号化し言語化することにもなる。
わたしがデジタルな方法論において最も大切にしているのは,「永遠なる偶然性」である。偶然性というものは音の進行の常識(今までの音楽の経験において,自分で勝手に思い込んでいただけだが)からわたしを解放してくれる。つまり,頭の中に無意識に育まれていた音楽の記号を解体するために,わたしはテクノロジーを使っている。限られたレコーディングシステムからでも,毎日,必ず自分では思いもつかなかった音の響きを与えてくれる。ここで大切なのがアイディアを待つばかりではなく,与えかえしてあげるということである。自分だけのシステムをつくり,どんな音にも興味を持って,解体し,アイディアを投げかえしていく。すると,なぜか,どんなにシンプルなシステムでも,まるで機材が人格を持った音楽家でもあるかのように,違った音のイメージをつくり続けてくれるはずだ。この「解体のキャッチボール」を続けていくうちに,記号的な表現から少しずつ解放され,「言語にならない夢」に近づいていく。音楽の常識から,エネルギーのかたまりへと変化していくのだ。
一方,テクノロジーのつかい方を誤ると,すべてを記号化し,言語へと置きかえてしまう。これは,音楽の常識や,過去の経験から抜けだせない時によくあることである。テクノロジーからアイディアをもらうことばかり考えて,ソフトに振り回されたあげく,アイディアに行き詰まると,新しいソフトやシンセサイザーを買いに行くというタイプの人たちである。デジタル機器(ソフト,シンセサイザー,ミキサー,エフェクターなど,すべて)というものは,製作された地点では未完成のものであり,それをマニュアルどおりに音をだしていれば音楽の常識から抜けだせる可能性はない。挑戦と解体,自分だけの音の解釈があって,はじめてデジタルな方法論の価値が生まれる。
神,死,無,空,夢…すべては言語という記号と化した地点で本質から離れていく。しかし,音楽はそれそのものに近づくための媒体となる可能性があり,その手助けとしてテクノロジーというものは大きな役割をもっているわけだが,その長所を使うか,短所を使うかによって,まったく違った結果に繋がるわけである。
上記の肩書・経歴等はアキューム12号発刊当時のものです。