J: 現代の日本において,詩というジャンルを広げようとしている詩人がいます。今日は,その詩人choriと共に詩について語り合いたいと思います。
僕とchoriが出会ったのは,2003年かな,当時choriが主宰していた「パオレ」という表現集団のイベントに僕が顔を出して,そこで知り合いになりました。最初にその名前を聞いたときは随分変わった名前だと思った。choriの由来を聞かせてくれよ。
C: うん。苗字は「千」なんだけど,中学のときかな,なんかの用で友だちにFAXを送ったとき,「千ヨリ」と書いたのが「チョリ」と読まれて,面白がられてさ。それからみんなチョリって呼ぶね。今でも。
J: なぜchoriは詩を書き始めたんだい?
C: 詩を書き始めたのは1999年だから14歳のとき。コードを2つしか知らないのにギターを弾いて,それにあわせて最初は即興で詩をつけて歌ってた。古いフォークとかブルースが好きやって。そのころたまたま飯田茂実さんの『一行物語集 世界は蜜でみたされる』って本を読んで「ああ,すげえなあ」と。「こんなすげえもんが書けたら目立つな」とか思って(笑)。ほら,詩はさ,ギターとかと違ってお金も時間もそうかからへんし,言葉さえあればできるわけですよ。それと,とりあえず目立ちたかったんよね。バンドをやっているヤツとかスポーツの上手いヤツはクラスに何人もいるけど,詩を書いてて,ましてや「詩人」と名乗ってるようなヤツはいなかった。で,詩人を名乗り詩を書き,発表しはじめた。今思えば,自己愛と虚栄心の肥大した思春期やったね(笑)。
J: 僕は,choriと実際に会って話してみて衝撃を受けた。だいたい「詩人」を名乗っている人間を見たのは初めてだったし,詩というジャンル自体を広めることに使命感を持っている人間を見たのは初めてだった。最初は大言壮語に聞こえた。
C: まあ,陽明学が好きやってんね。知行一致っていうのを常に掲げてたし,そのためにはまず大言壮語も吐かなあかんなと(笑)。有言実行,予告ホームランってかっこいいじゃん。
唐突やけど,おれ基本的にカレーライスとかラーメンは食べないんよね。ドライカレーとかは頼むけど,カレーは注文しない。別におれが注文せえへんくてもカレーは人気あるからメニューからなくならへんし,関わってる人間が失職したりしないでしょ。せやったら自分が注文する必要はないなあと。詩を選んだのも同じことで,これが音楽ならバンド組みたいと思うヤツは何人でもいるやろし,自分がやらへんでも別の誰かが支えていくだろうって思うし。でも詩は自分がやらなきゃダメだと思うわけですよ。
J: 面白い考えだよね。最初に会ったときにchoriの初期の作品を見せてもらった。言葉のセンスを感じたよ。
C: ありがとう。まあ,初期に書いていたような詩は技術的な水準でいえば月並みやったし,おもしろみもあんまりなかったけど。萩原朔太郎は「詩は生活の上に垂直に屹立する」って言うてはるけど,自分は「生活を踏んづけて強くなるのが詩」だと思う。当時書いてた詩はそういう意味でまだ肉体がついて来ていなかった感じがする。
J: 10代の頃に書いた詩は,大抵,空想的なものとか,観念的なものになってしまいやすいのだけれど,choriの詩には実際の経験が生のまま詰め込まれているように思えた。僕はそのことに驚いた。確かに言葉を制御する力は今と比べると弱いかもしれないけれど,凄くリアルな感情が言葉になろうとしている感じがした。酒を飲みながら,酔った頭で作品を読ませてもらっただけなので,あまり具体的な作品は思い出せないが,その印象は残っている。
で,そのとき僕が君に意味を尋ねた詩があった。8月をモティーフにした詩で,確か昭和天皇のことが大叔父さんと書いてあった。よく意味がわからなかったのでそのことを尋ねた(笑)。そうしたら書かれているのは本当のことだと教えられ,僕はビックリした。大正天皇が自分の曽祖父で,茶道のお家元の長男であるということ。この点は,やはり詩人choriの本質を語るうえで絶対に無視できないことだろうな。
もしかしたら,このことは「自分がやらなければダメだと思う」という使命感の源泉とも関係するかもしれない。
C: せやねえ。うちは家庭環境的に,ちっさい頃から大人社会で,物心ついたぐらいから大きな共同体の一員っていう意識を否応なく持たされるわけですよ。普通やったらまず家庭があって,それに守られるんやろうけど。おれの場合は家庭の代わりに社会があったわけですよ。純粋に個人という存在でいられる空間がなかった。生きているということ自体が既に政治的なエレメントを多分に含んでたし,ある程度パブリックな生き物であるという状況だったから。せやからかわからへんけど,あんまり物事を楽しむという感覚がなかったな。で,まあそういう鬱憤はやはり決壊するわけで(笑)。16歳のときに家を飛び出して,1年くらい家に帰らへんかった。昼はガソリンスタンドでバイトして,夜はチラシ配ったりとかしながら,家賃15000円の部屋で。もちろん仕送りなんかないし。それで高校は留年したわけだけど(笑)。
J: 僕の理解の範疇を超えている(笑)。けれど,choriにとって,どれだけ詩が大切な命綱だったのかだけは理解できる。僕は僕なりに詩と出会って救われたという感覚があるから,そのことだけはわかる。
それで詩というジャンルの状況だけれど,かなり厳しいよね。詩と一口に言うけれど,大きく分けると自由詩と定型詩に分けることができる。定型詩としては,短歌・俳句・漢詩があるわけだけれど,それぞれ独自に命脈を保っているといえるだろう。
それに対して,本来,詩の現在を担い,詩の未来を切り拓くべき自由詩が問題だね。
C: ジョナは自由詩の代表として「現代詩」を挙げると思うけど,「現代詩」と呼ばれる詩の世界はもうほとんど血が回っていないからね。命に別状のない動脈硬化状態とでもいうか。いちばんタチが悪い。たとえば「新進気鋭の若手詩人特集」なんか組んでもさ,結局精神論というか,お互いの詩論しか語らないでしょ,老いも若きも。たしかに詩作は己の孤独と向き合う作業なんかもしらんけどさ,結局どんな対談も「徹子の部屋」のつまらない版でしかなくって,みんな自分のことしか考えてない。「詩」のことを考えているようで,ほんとうは誰も「詩」のことなんか考えてない。
J: なるほど。僕は「現代詩」の作品が読まれないことに問題を感じるね。なんというのかな,言葉の実験と称する破壊をしきりに行っているのだけれど,既視感のある作品ばかり読まされる感じがしている。むしろ詩の未来の可能性は,HIPHOPのラップの言葉などにあるように思う。
C: それはひとつあるね。ラップっていうか,HIPHOP的なアティテュード。おれは3年くらい前に東京のSSWSってイベントでラッパーと対戦したとき思った。日本のHIPHOPは文化としての歴史はまだ10年ちょっとだけど,日本語で韻を踏むっていうことの必然性や可能性にすごく注意を払っている動きがあるし,それこそ「SDP」とか「ECD」みたいな第1世代は最初1音や2音で脚韻を踏んでたけど,最近は「メテオ」みたいにとにかく多く踏もうとしたり,「降神」みたく膠着語ならではの変則的な押韻,あと「カルデラビスタ」や「FOLK」みたくフリースタイルでも安定して踏めるMCも増えてきてる。
ここ数年で,日本のHIPHOPはアンダーグラウンドとメインストリームの二極化が進んでいる,っていうか定着しつつあって。どんな分野でも言えることだけど,前の世代の営みをリスペクトすることが重要。それは言うまでもないけど,過去に囚われすぎるとその延長線上でしか展開できないことになってしまう。その点,最近は「さんぴん」とか「マス対コア」などに囚われてない若い世代も台頭してるし,そういう自由な感じがいい。世代的には上のほうだけど,「タカツキ」さんとか,もはやラップっていうよりポエトリー・リーディングだし(笑)。
J: ここ2年ほど,イベントで何人ものラッパーと出会ったけど,彼らの繰り出す言葉の衝撃力には驚かされることが多い。そうだな,京都のラプタ君,東京のINHA君,兵庫の神門君とか,みんな20歳そこそこなのだけれど,本当に詩の未来を感じさせてくれるMCだね。それから,choriの処女詩集「chori」にも詩の未来を感じるよ。とてもポップな言葉の集まりだ。アーティストの谷竜一君が詩集「chori」を指して「これは自分の詩集だ」という発言をしているけれども,確かにchoriの詩の言葉たちは,誰かに届き,その誰かの言葉になることを願っているようにも思える。
C: せやねえ。あんまり自分の言葉という意識はないかもしれない。自分という存在は,リアルな言葉の媒介ではあるけれど,言葉によって自分という存在を探求しようとか,表現しようっていうつもりはないし。自己とか自我を表現するって意識の強い詩人は多いけどさ,おれの場合はそういうのはないなあ。自分の思いついた言葉であろうが,他人が思いついた言葉であろうが,詩も言葉も,感情ももっと循環するべきものやと思うんよね。そもそも,言葉なんて人類の共有財産であって,誰かがつくりだしたものじゃないんやから。詩を書くってことは選択することやねん。たとえば,日記だって正確に言えばフィクションでしょ。書かれたことがすべて事実に即していても,切り取る視線は無限にあるだろうし,その何億倍もの書かれなかった事実がある。詩人っていうのはアレンジャーなんよ。作曲家は言葉,演奏者は読者やリスナーであって。詩に限らずだけど,いい書き手ほど自分の中に時代の空気を入れることができるんやと思うよ。
J: なるほどアレンジャーか。choriの凄いところは,そうやってできた詩の言葉がどれもchoriの言葉にしか見えないところだな。
C: まあ自分のポジションを規定してるからね。それに,そう思ってもらうことができなければプロじゃないでしょ。詩というのはグレートアマチュアリズムの文化だとは思うけど,アマチュアであってもプロの仕事ができなきゃ意味がないと思う。
J: choriの場合は,様々なイベントをオーガナイズしているよね。その際に気をつけていることなどはあるかい?
C: たとえば,イベントをオーガナイズするからにはお客さんをたくさん呼びたい,っていうか呼ばなきゃいけない。どうすれば採算ベースにのせられるか,ペイラインをどこでつくるか,有効なアライアンスはとか,そんなことを常に考えてる。詩は売れないと誰もが思ってるし,詩人では飯が食えないと誰もが決め付けてしまってるでしょ。そんな現状に風穴を開けるためにやってる。仮にニッチではあっても,詩っていうマーケットをメインストリームの中にまず確立したいし,ゆくゆくは能力のある人間が詩で食っていける仕組みをつくりたい。もっと言えば,おれにとって詩を書くことは別に目的やないからね。あくまで「詩」「詩人」という文化やシーンを堂々と成立させるための手段でしかない。
J: 詩を手段だと言い切ることには,僕の場合は,やはり抵抗感がある。まあ,動機が何であろうと作品さえよければいいのであって,特に反論はしないけれどさ。
C: 語ってるときりがないな(笑)。イベントといえば,ジョナと一緒にやってたKSWSについても言及しといたほうがええよな?まず少し説明がいるよね。KSWS(KYOTO SPOKEN WORDS SLAM)は,SPOKEN WORDSのイベントで,つまり,言葉による表現っていうとラップやポエトリー・リーディング,コントやスタンダップ・コメディ,アジテーション(演説)なんかがあるけど,そういう一切を包含した総称として「SPOKEN WORDS」っていうんよね。
日本における初めての継続的なイベントは,2003年2月に新宿ではじまった「SHINJUKU SPOKEN WORDS SLAM(SSWS)」。5分以内で,2人(組)の表現者がパフォーマンスしあって,観客とか審査員にアピールして勝敗が決まるのね。それをトーナメント形式で繰り返してチャンピオンが決まる。いわば「言葉の総合格闘技」という感じ。
J: そしてKSWSはSSWSの姉妹イベントとして,詩人choriが主宰者となって,2005年6月に始動した。夜中に始まって翌朝までの徹夜のイベント。他にスタッフとして,HIPHOPユニット5W1HのMCダフ君,京大大学院でクラブミュージックについて研究している石黒君,それから詩人choriのマネージャーにして,レーベル社長の水野君という面々。
C: あ,今,永平寺で修行してる高橋正英もいたよ(笑)。KSWSは毎月最大16名の出場者を募集して,予選トーナメントで優勝者を決めて,さらに4ヶ月に1度,各予選の優勝者と準優勝者,それにベスト4からの推薦枠を入れて8人によるチャンピオン・トーナメントを開催してて。東京みたいな良くも悪くもお客さんの絶対数が多い地域じゃなくって,京都という場所でイベントとしてどれだけ成立するのか,まあ一種の賭けやったね。SSWSやったら「タカツキ」さん(SMRYTRPS/SUIKA)とか「エムラスタ」(Romancrew),「なのるなもない」(降神),「ダメレコ」や「JUNK BEAT TOKYO」や「ZZ」勢,そしてなにより「漢」(MSC)みたいな一線級のラッパーの参戦があったし,メジャーデビューした「コーヒーカラー」みたいなミュージシャンも出たりしてた。一方で詩人の「小林大吾」さんや「マスイジュウ」みたいに「SSWS発」といえるような新しいアーティストが巣立っていって,同じような状況がKSWSでも生じたらいいなあって。
J: 実際に始まってみると,本当に面白い表現者たちが集まったよね。さっき名前の出た神門君やラプタ君もKSWSの常連だった。詩人,ラッパー,シンガー,芸人,本当にあらゆるジャンルの言葉の表現者が集まった。
C: まさしく我が意を得たり,だよね。凄い才能を持った表現者がいても,なかなか世の中に出られるチャンスは少ない。才能を持った表現者が世の中に出る機会をつくりたいと常々思っているんだけれど,KSWSは一人ひとりの表現者,つまり点と点をつないで面として押し出すことを狙いのひとつとしていた。
J: ラッパーとか詩人とか異分野の表現者たちがKSWSという場で交流し,刺激しあっていたね。ここで生まれたネットワークは貴重だと思う。徹夜のイベントで,酒も入るイベントだったのに,喧嘩とかなかったのが僕には奇跡に思える。あっ,おれとお前は喧嘩したこともあったか(笑)。アメリカのビート詩人ジャック・ケルワックが,ビートニクのBEATはbeatitude(至福)に由来すると言っているけれど,KSWSは正に至福の時だったよ。
C: いや,お客さんが倒れて救急車で運ばれたりとか,スタッフが突如失踪したりとかあったやん!(笑)まあ,それはさておき,KSWSは投資だったよね。だいぶ無理もしたけど,とにかくまず場をつくることがなにより必要だったし。SPOKEN WORDSという媒介を通して,あらゆる言葉に関わるアーティストに投資する行為だった。実際,それまで絶対にお互いの存在すら知らなかったやろうし,そのままいけば一生接点のなかったであろう詩人とラッパーの交流とかさ,芸人とレゲエのDJが仲良くなっちゃったり,その後いろいろと派生したりしてるし,そういう意味では爪あとを残せた感じやなあ。
J: KSWSに続いて,横浜(YSWS),大阪(OSWS)とSPOKEN WORDSのシーンも広がりを見せてきた。この文化が日本に根付くまでにはまだ時間がかかるだろうけれど,関西にその種を撒いたことは確実だよな。現在,KSWSは純粋に経済的な理由から一旦休止の状態にあるけれども復活してほしいという声も多いね。多くの人に愛されたイベントだよな。それが嬉しい。経済的負担をはじめとして,イベント運営には苦労が多い。それをあえて背負おうとするchoriの姿に僕は深く共感した。表現者に対する愛を感じるんだ。
C: っていうか,KSWSだけだよ,おれが身銭切ってやったイベントなんて(笑)。それだけ損得勘定を超えた使命感っていうか,もう,DIY(Do IT Yourself)精神だよね。おれがやらなきゃ誰がやる,と。まあ,愛するから責任が生ずるわけとちゃうからね。まず責任があって,行動することを通して愛が生まれるんよ。おれはそういう愛しか信じられない。義務感であり,責任感が重要やと思うねん。公共意識って言ってもいいと思うけど。とにかく,なんとかして言葉による表現のシーンを広げたいしマーケットをつくりたい。詩にしてもね,たとえばコラボレーションでも歌詞提供でもいいけど,メジャーなマーケットに関わっていけばいろいろ楽なんだけどさ,下手にやったら結局「詩」に還元されないでしょ。おれは「銀色夏生」さんも「326」さんも大好きやけど,彼らはベースを詩に置いてないから,いくら商業的に成功しても本質的に詩や詩人に還元されないわけ。もちろん,彼らはそういう売り方をしてるんやからまったく問題ないんやけども。おれ個人としては,負け戦に加担して逆転させることに意義を感じるんよ(笑)。何度も言うけどそれで最終的に一部の詩人でもいいから詩で生活をしていけるようにしたいわけですよ。
J: 現代の社会では,詩は少数の人間以外は見向きもしないジャンルだよな。詩で生活を成り立たせている詩人なんてゼロに等しい。その状況のなかで,choriのやろうとしていることは一種の革命だよね。choriの名刺には,一言「詩があるじゃないか」と書かれている。choriの革命は,今,どんな風に進行しているんだい。
C: とりあえず,今年に関していえばなにより「詩人・chori」としてのブランドマーケティングやね。ブランドとしてのロイヤリティを今まで以上に高めへんとあかん。せやし,ひとつには効果的かつ恒常的なメディア露出が重要になってくるし,パブはしっかり打っていきたいなと。KSWSの再開もあるし,継続的に主宰してるイベント「温故ニュウスタイル」,花形朗読詩人会「ENTA!」,狂言とのコラボレーションユニット「chori/童司」をはじめ,とにかくあらゆる方面で必死こいて実績を,数字を残していかなきゃいけない。休んでる暇なんてないよ。もちろん,飲酒喫煙活動も盛大に続けるけど(笑)。
J: なるほど。Like a Rolling Stoneだな。
C: あはは(笑)。今の社会において,詩に対するニーズっていうのは顕在化してないのね。「詩や詩集を読みたい」「リーディングを聴きたい」って思う人は少ないわけ。その状況にどう切り込むかってとこなんだけど,とりあえずはニーズよりもウォンツをつくるしかないんよ。さっき言ったロイヤリティっていうのもそこに通じるんやけど。漠然と詩を読みたいっていうより,例えば「326」の詩を読みたいっていうほうが強いよね。そのために,なにかしら強烈なものを呈示しなくちゃいけない。インパクトでもいいし共感でもいいし,あるいはマスメディアで取り上げられてるからでもいいし。入口は問わない。とにかく,詩の世界を広めるためには強烈かつしっかりと詩に足のついた存在が出現することが絶対的に必要やね。
J: うん,詩を読みたいと思う人は少ないかもしれないけれど,choriを読みたい,choriを観たい,choriと会いたい,そういう欲求に火をつけることはできるかもしれない。
choriの信念はおそらく世界を変えるだろう。転がり続けよう。
C: イエス。義のなき信念は無に等しい。なにはともあれ動きつづけるのみ。ありとあらゆる人間,出来事,観象にピース。
詩人。1984年11月10日京都市生まれ,B型。
中学生時代の1999年から詩人として活動しはじめ,「第1回詩学最優秀新人賞」をはじめ大小多数の賞を獲得。ライヴ(ポエトリー・リーディング)も活発に行い,近年は年間約70本のステージを数える。詩人という立場を超えて関西の音楽シーン,アートシーンと深く関わっており,自身のインスタレーション個展,演劇の上演,サイファー(路上でのフリースタイルラップ)主宰,大蔵流狂言師・茂山童司とのユニット(chori/童司)など幅広く活躍する。プロデューサー,オーガナイザーとしてのキャリアも長く,詩人とラッパーのトーナメント「KYOTO SPOKEN WORDS SLAM(KSWS)」,朗読詩人団体「花形朗読詩人会ENTA!」の主宰などと前後し,2005年にはPIKADON PROJECT(黒田征太郎,近藤等則,荒木経惟,安藤忠雄が提唱)の京都ディレクターを若干20歳で務めた。2006年より「ソフィア 京都新聞文化会議」メンバー。2006年4月,自身のレーベルであるvoice torch labelより1st ALBUM「REDEMPTION SONGS」をリリース。8月,青幻舎より第一詩集「chori」刊行。好調に売上を伸ばしている。
詩と音楽と酒とたばこをこよなく愛する。その人懐っこさと情熱のゆえか彼の周囲には多くの人間が集まり,「しかたないなあ」といった態で愛してもらっている。
京都コンピュータ学院教職員。1964年生まれ,B型。早稲田大学法学部卒。同志社大学大学院法学研究科修了。2003年に詩集「行李」を出版。2005年,京都市文化芸術振興条例策定協議会委員を務める。京都コンピュータ学院軽音楽部顧問。
現在, KCGの学生とともに,ROCK × SPOKEN WORDSというコンセプトのロックバンド「Lib Apathy」で活動。