「ああ,お久しぶりです。何年ぶりですかねぇ」。京都山科にあるテクノブレーン開発室を訪ねると,芦達さんは,人なつっこい笑顔で迎えてくれた。
芦達さんは,1988年に京都コンピュータ学院情報工学科(現コンピュータ工学科)を卒業。学院に残ってもっと勉強したい,研究を続けたいと考え,本学院情報科学研究所の研究員となった。研究の傍ら,C言語や当時まだ概念さえも曖昧だったAPI(Windowsプログラミング)を担当する教員としても活躍した。研究員時代の代表作にはテキストエディタ「SE3」が挙げられる。当時発売されていたすべてのパソコンで利用可能なエディタで,フリーウェアの名作として語り継がれているソフトだ。読者の中でも,「SE3」を使ったことのある人は少なくないはずである。
本学院を辞した後は,フリーとなり,受注されたパソコンゲームソフトの開発などを手掛けていたが,1994年有限会社テクノブレーンを設立した。1998年には念願の自社製品『ぼくは航空管制官』を発売。現在は株式会社とし,本学院卒業生5名を含む,10名の社員とともに,年商1億4000万円を売り上げる会社に育て上げた。
『ぼくは航空管制官』,通称『ぼく管』シリーズは,現在累計で17万部を売り上げる大ヒット商品である。パソコンゲームソフトのマーケットは,プレイステーションなどのゲームソフトとは異なり,1万部でヒット商品と言われる非常に限定されたものである。17万部は驚異的な売上と,一躍ゲームソフト業界にテクノブレーンの名はとどろいた。
「ぼく管シリーズは,私の趣味を商売にしたんですよ」。芦達さんは,無類の飛行機マニアなのである。広島出身の彼は,少年時代,暇さえあれば広島空港に飛行機を見に行っていたという。「でも,飛んでみたいとか,パイロットになりたいとかではなく,飛行機が離発着する飛行場そのものの動きというか,景色が好きでしてね」。ゲームをよりリアルにするため,どうしても航空管制現場の取材がしたい。こう考えた芦達さんは,コネも知り合いもない航空業界に,単身飛び込んだ。どうせやるなら,正攻法で行こう。そう決心し,空港の管制室の取材許可をもらうため,運輸省航空局の戸を叩いた。無論相手になどされるわけがない。そこで今度は,管制官を養成する航空大学校へ行ってみた。運輸省であっさり断られた顛末を含め,ゲームソフトの構想を説明。やはり,良い返事はもらえなかったが,応対してくれた教官は,運輸省航空局まで直接訪ねた熱意は認めてくれたのだろう,思いがけず財団法人の航空交通管制協会を訪ねてみては,とアドバイスしてくれた。今まで聞いたこともない協会だったので,半信半疑,協会を訪ねる。
そこで,応対してくれたのが専務理事の増子さんであった。ゲームの構想を話すと,黙って聞いていた増子さんは切り出す。「飛行機がお好きそうですが,どうしてですか」。芦達さんは,少年時代の広島空港でのマニアぶりを熱心に語った。増子さんはニッコリ微笑みながら,「そうですか,あの頃の空港をあなたは知っているのですか。その頃,私が広島空港の空港長だったんですよ」
縁とは偶然である。増子さんは,協会として,そのソフトを監修するよう働きかけることを約束してくれた。「空港と言えば,一般にパイロットやスチュワーデスというイメージだろうが,空港の裏方として安全を一手に担う管制官の仕事も知ってもらういい機会だ。監修する価値はある。頑張っていいものを作ってください」。この協会は,運輸省の外郭団体であり,航空局のOBも多数いる。この協会の監修はまさに,渡りに船であった。以後の取材はまさに順風満帆。他のメーカーには真似のできない完成度の高いシミュレーションゲームが出来上った。航空会社ともつながりが持てるようになり,フライトシミュレーションゲーム『休日は飛行機に乗って』なども発売することとなった。これは現在,マイクロソフトのフライトシミュレーターと人気を二分するソフトとなっている。
「マイクロソフトといえば,おこがましいんですが,うちは喧嘩を売っているようなところがありまして‥」。テクノブレーンのパソコンゲームのパッケージには《ADM》,《Pegasase3D》というロゴマークが付いている。これは,マイクロソフト製のDirectX,Direct3Dに当たるものだ。パソコンゲームの開発やユーザーがゲームを楽しむときにも,欠かすことのできないライブラリーで,ほとんどのパソコンゲームに採用されている。「DirectXはバグだらけで,PCによっては,買ったソフトが動かないことがあるんですよ。」自信たっぷりに芦達さんが言うのにはわけがある。
実は,『DirectX2開発マニュアル』(ソフトバンク刊1996年9月5日初版発行)の著者でもあるのだ。DirectXに関する研究書など全く皆無だった時に,出版社から執筆依頼がきたので,マイクロソフト本社の開発者に直接聞きながら執筆したんですと当時を振り返る。「ソフトバンクを通じて,マイクロソフト本社に掛け合ってもらい,情報提供していただいたお蔭で本は完成したんですが,皮肉にも知れば知るほど,自前のDirectX,Direct3Dが欲しくなって,ADM,Pegasase3Dを開発したんです」。ADM,Pegasase3Dを使って開発したゲームソフトは自分のパソコンにインストールした時,システム関連の設定を変えることなくスムーズに動く特徴があるという。DirectXは,Windows OSと一体となっているため,場合によっては,ユーザーの意図に反してシステムの設定を変えてゲームが始まる場合があるので,ゲームを楽しんだ後,トラブルの原因になることがあるというわけだ。今,芦達さんは,各ゲームメーカーに開発用として,ADM,Pegasase3Dを売り込み中で,徐々に採用が広がっているという。
「ADMの開発には,学院でSE3を開発した時のノウハウが非常に活きているんです。こんなソフトが開発できたのは,京都コンピュータ学院のお蔭ですし,また社員の半分は,ぼくを慕って来てくれた教え子です。ほんとうに京コンには感謝しています」
「今はどうか分かりませんが,ぼくの学生時代,専門学校生ということにコンプレックスが蔓延していたように思います。なんか大学より下というか,自分でもそんな風に思い込んでいたように思うんです。でも実際はそうじゃない。専門学校出身者だけでも,世界を相手に仕事ができる,京都にあるちっぽけな会社でも,あんな大きなマイクロソフトに対抗できるようなソフトを作ることができる。そんな証明にぼくの会社がなればと頑張っています」
どんなに会社が有名になろうとも京都を出るつもりはない。革新の街,伝統の街,ベンチャーを生み出す土壌のある街など,様々に形容される京都にとことんこだわり,何ものにも臆することなくチャレンジスピリッツを発揮してやっていきます。芦達さんは,力強く語ってくれた。今後の活躍に期待したい。