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Accumu Vol.4

バートランドラッセル 教育論を読んで

京都コンピュータ学院洛北校校長 牧野 澄夫

バートランド・ラッセル

現代は高度情報化社会といわれている生涯学習という言葉が大流行カルチャーセンターは大はやり情報を求める人情報を提供する人でごったがえしまさに現代は情報の氾濫する時代昔に比べて情報量が格段に増加した時代といわれる

本当だろうか意味付与されたデータが情報だとして本当に情報量は増えたのだろうか確かに現在我々はテレビを通して世界のニュースを見ることができる昨年我々は湾岸戦争を見たしかしその反面毎朝の空模様の持つ意味を今我々はどれだけ知っているか早朝の空気の輝き朝露の匂いは我々にとってもはや情報でなくなってしまったのではないか失う情報があって新たに得た情報がある――それにしても数量化するならやはり情報量は増加したというべきか

ところで情報の質はどうだろう我々は情報の質の向上を獲得したといえるのだろうか(ここで情報の質という時ノイズのない音声情報はノイズの入ったものに比べて良質の情報だというようなことではない)問題は意味付与されたデータの質の向上即ち我々が意味の与え方また与えられた意味のつかみ方において進歩したかどうかである例えばコンピュータグラフィックスはある意味で単なる図示を越えて意味付与の新しい方式を提供し得るのかもしれないが一般的に現在我々は過去の時代よりも良質の情報つまりより「意味深い」より多角的よりシステマティックな情報を取り扱えるようになったのかどうかである高度情報化社会が高度に浅薄な情報の受け渡し社会になったら大変だ

つまり情報には「石に刻んで保存すべき」ものもあるということ当然のことながらトランザクションファイル上の情報がすべてではないのだ新聞の日曜版に掲載された遠藤周作氏のエッセイを切り抜きながらこんなことを考えた

バートランド・ラッセル

以上を前置きに一冊本を紹介したいパートランドラッセル著「ラッセル教育論」(安藤貞雄訳 岩波文庫570円)ラッセル(1872-1970)はイギリスの有名な数学者哲学者社会運動家彼は20年代から30年代にかけて自分の子供の教育からついには理想の学校教育を目指して自ら私立学校を経営するに至った従って1926年に出版されたこの本も教育学者教師評論家の本とは異なる彼自身の言によれば「私の所見は私自身の子供のことでいろいろ思い悩んだ末に得られたものであるだからそれは現実離れしたものでも理論一辺倒なものでもないので私の結論に賛成か反対かは別として同じような悩みをかかえている他の親たちの考えを明確にするのに役立つのではないかと思っている」

まず一つラッセルの文章を紹介してみようイギリスの有名なパブリックスクールにおける教育を取り上げて「この教育の生み出す所産は精力的で禁欲的で肉体的には健康であるゆるぎない信念を持ち曲がったことが大きらいで自分はこの世で重大な使命を持っていると確信している人間になるはずであった」――もう一度ゆっくり読み返してほしい一つ一つの性質は文句のつけようのない立派なものなのにそれらが皆集まった時何と傲慢な人間ができ上がることか 実際彼は続けて「こうした成果は驚くほど見事に達成されたその成果の犠牲にされたのは知性であった」この素晴らしく痛快な皮肉はどうだ晩年の写真を見ると彼は猛禽類を連想させる鋭いすべてを見通す目を持っていた

と同時に彼はイギリス人特有のあの平衡感覚に富んだ思考を随所に見せるそして「生後1年間は決してしかってはいけない」といった具体的ハウトゥ的提案から始めて少年期までの性格の教育青年期の知性の教育を論じ教育の最終目標「おとなの男女が経験から学ぶことができるようにする」状態へと我々を誘導してゆく

最後にもう一つラッセルの文章を引用しよう「おとなの男女が経験から学ぶ」ことができるようになる為に最も大切なものは知性であり「それは正確にはすでに獲得された知識よりも知識を獲得する能力をさすことは明らかであるしかしこの才能はピアニストや曲芸師の才能と同様訓練なしに得られるとは考えられないもちろん知性を鍛えないような仕方で情報を伝えることは可能である可能なだけではないそれは容易なことで現にしばしば行なわれている」

「知性を鍛えないような仕方で情報を伝えること」これこそ今の日本でどこにでも見られる教育形態ではないのか予備校でそして「すぐに役に立つ専門学校教育」において

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牧野 澄夫
Sumio Makino
  • 京都大学大学院文学研究科博士課程修了
  • 専門は「西洋哲学史」
  • 京都コンピュータ学院副学院長京都コンピュータ学院京都駅校前校長

上記の肩書経歴等はアキューム15号発刊当時のものです