ちかごろ「ハイク」というカタカナ語がしきりに眼に入る。これは,私たち日本人の間で盛んに行なわれている俳句と区別して,外国人が彼らのことばで書く,俳句に類似した短詩を指すのだ。
歴史的にふり返れば,俳句という,世界に珍しい極めて短い詩に注目し,自分たちのことばでそれに似通ったものを書き始めたのは,フランス人だった。彼らはそれをハイカイ(俳諧)と呼んで熱心に作り,第1次大戦以後とくに盛んとなったが,第2次大戦以前に衰えてしまった。
第2次大戦が終ると,再び俳句が旧に倍して脚光を浴びることになった。今度は,戦勝国として日本を占領したアメリカ合衆国の人たちが主導した。それは1950年代,日本の文化や禅仏教への強い関心が合衆国に広まったことを背景にしている。当時つぎつぎと出版された俳句の英訳と解説の好著に親しんだ詩心のあるアメリカ人が,積極的に英語でハイクを書き出したのである。
そして1963年には,現地で最初のハイク誌「アメリカン・ハイク」が出た。以来,何十万,何百万と英語ハイクが書かれ,個人句集やアンソロジーも発行された。ハイク専門誌も,「ドラゴンフライ」(蜻蛉),「フロッグポンド」(蛙の池),「モダンハイク」,「シケイダ」(蝉),「インクストン」(硯)など続々と出ている。
アメリカ発行の英語辞書『ウェブスター第3新国際辞典』(1961年)や『ランダムハウス辞典』(1966年)では,外来語の英語としてHAIKUが記載され,日本独特の詩形として紹介されたが,1979年初版の『オックスフォード・アメリカ語辞典』になると,「日本の17音節の3行詩,及び,この形式をまねた英語の詩」とされ,はっきりとハイクなるものが日本を離れ,独立独歩していることを示している。
いま英語ハイクは,アメリカ合衆国のみならず,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,イギリスなど,英語圏全域で行なわれ,アメリカ俳句協会,俳句カナダという大きな団体をはじめ,各地に愛好者のグループがたくさん存在する。彼らハイク詩人(ハイキストと呼ばれたりする)に共通して感じられるのは,たんなる異国趣味の遊びではなく,英語ハイクを正真正銘の文学ジャンルにしようという情熱的関心と,それが彼ら自身の文化生活を豊かにするにちがいないという固い信念である。
日本文学研究家として著名なドナルド・キーン氏は,日本の伝統的な俳句をよく理解し評価する人だけに,長い間,英語で書かれた俳句を遊びにすぎないと思っていた。それが今や「ハイクはもはや遊びではありません。日本文学の中で一番外国人に影響を及ぼしたのは,間違いなく俳句だと私は考えています。俳句はもはや日本だけのものではなく,世界の俳句になったと思います。もうそろそろ西洋にもハイクの時代が始まるのではないかと密かに思っています。」と結論づけるに至った。(1)
私はこの頃,世界のハイク詩人たちと直接に交渉をもつ機会に恵まれている。「奥の細道300年」を記念して,山形県ほか東北6県が主催した「世界俳句大会」(1989年)では,世界中からハイクを集めて優秀作を選ぼうというわけで,英,独,仏,伊の4ヵ国語のいずれでもよしとして作品を募集することになった。
だが,企画と審査に参加した私の念頭に一つの危惧があった。1988年に日本航空ニューヨーク支店が,合衆国とカナダの在住者を対象に催したハイク・コンテストでは,宣伝がききすぎてか,応募数が8万句に達し,てんてこまいになったからである。中には,特選作の賞品(現地と東京間の往復航空券ほか)を目あてに,ふだんはハイクをやらない人までが,「海の向こうから日が昇る/チケットを送ってほしい!」のような珍句,迷句を寄せてくる始末だった。
そこで私たちは,まっとうなハイク詩人の,レベルの高い作品を集めようと,日ごろ交流のある世界各地のハイク団体や名のあるハイキストたちに呼びかける方法をとった。その結果,28ヵ国から2800余句が応募してきた。そのうち,英語で書かれているのは80%の約2300句,独語が200余句,仏語と伊語が各々百50句ほどだった。
大賞の外務大臣賞を受けた作品を挙げると,
苔の垂れる木々
鹿が入ってくる
ハンターの静寂の中へ(筆者訳・以下同)
Moss-hung trees
a deer moves into
the hunter's silence
作者はカナダの女流ハイキスト,ウィノナ・ベイカーさんである。
和歌や俳句では古くから,秋の交尾期の鹿が紅葉に配して詠まれ,雄が雌を呼ぶ哀愁ある鳴声を愛でてきた。だが,右のハイクは狩猟の対象としての鹿で,俳句では冬の季題となる。芭蕉をはじめ「静寂」をうたった俳人は多いが,これは次の瞬間一発の銃声で破られる,危うい静寂であり,不安な緊張を表現して特異である。
海に鴨発砲直前かも知れず 山口誓子
の俳句に一脈通じる,新しい味わいの句だ。
選考の際,「苔の垂れる木々」とは?といぶかる向きもあったが,英語でhanging mossと呼ぶ地衣類(岩や木につく苔の一種)が存在する。かつて私は,アメリカ,ミシシッピー州の田園の木立に,ぼうぼうと垂れ下がる実物の写真を見たことがある。日本の深山の松・樅などに着生して垂れ下がる「さるおがせ」,「さがり苔」の種類なのだが,もっと丈長く繁茂し,いかにもカナダの広大な森林の幽寂さにふさわしいものであった。
昨年10月には,愛媛県での第5回国民文化祭のイベントとして,「国際ハイク大会」が催され,この時は使用言語を英,独,仏,伊の4ヵ国語のほか中国語も加えて広く募集した。その結果,38ヵ国から総数約7千句が寄せられ,見事1位の栄冠を獲得したのが,次の英語ハイクであった。
ダルコ・プラザニン
嵐のあと
少年が空を拭きとる
テーブルから
after the storm
a boy wiping the sky
from the tables
英国人と日本人から成る4人の英語ハイク選者(筆者もその1人)が,そろってこの句を推した。作者はユーゴスラヴィアの人で,母国語ならぬ英語ではるばる投句してきたのである。
ちょっと謎めいた句だが,一読してぴんとこなくとも,くり返し読むうちにイメージが浮かび上ってこよう。ヨーロッパの町角でよく見かける風景だが,飲食店が舗道や中庭にまでテーブルを並べている。野天だから雨が降ればテーブルの上は水びたしになり,雨上りの空が映っている。給仕の少年が雑巾でそこをつぎつぎに拭いていく。すると青い空や雲もいっしょに魔法のように消えてしまう。
台風一過の爽やかな大気と町のたたずまいを,従来の俳句にはない新鮮な角度から,ウィットをもってうたっている。
プラザニン氏へ往復航空券を同封した招待状を送ったら,松山市の発表会場に現れた。ジャンパー姿の素朴な中年男で,会話の英語はカタコトだった。
アメリカ合衆国で発行されている各種のハイク誌を覗いてみると,ハイクのほかにセンリュウ(川柳),レンガ(連歌),ハイブン(俳文)なども盛んに作られているのに気づく。とくにセンリュウはハイクといっしょに区別なしで載せている場合が多い。
ウェイン・ハミルトン
社長-
ドアは開けて
心は閉じて
the boss
open door
closed mind
シンディ・グエンサマ
廊下に出て
いっしょに笑っている
彼女の弁護士と彼の弁護士
laughing together
out in the hallway
her lawyer and his
ゲーリー・ゲイ
オゾン層に穴
ぼくの禿穴…
日焼けして
Hole in the ozone
my bald spot…
sunburned
これらの句は滑稽に辛辣な社会諷刺や皮肉がない交ぜされて,川柳とみなすことができる。しかし次のような句もセンリュウとして発表されている。
アレクシス・ロテラ
継母-
またも私は呼ばれる
「彼女」と
Mother-in-law-
again I'm referred to
as SHE
同上
彼を忘れようと
ジャガイモを
突き刺す
Trying to forget him
stabbing
the potatoes
ジョージ・スウィード
不幸な妻
ぼくの自転車は
水溜りを突っきる
Unhappy wife
I pedal my bike
through puddles
これらの句は「まじめなセンリュウ」と呼ぶものに属し,「読者と自然とを結びつけるのではなく,人間関係に気づかせ,人の心への洞察を示す」(2)ジャンルとされる。こうしたセンリュウをハイクと並行して盛んに作り,ハイク誌が同等に掲載しているのが現状である。英語ハイクの幅の広さ,作り手の実験的で自由な態度,新しい表現の地平を拓こうとする意欲の強さに私は打たれる。まさに世界にはハイクの時代が始まっているのである。
(1)第5回国民文化祭(1990年)の「国際ハイク大会」記念講演
(2)ヴァン・デン・フーヴェル編『ハイク・アンソロジー』付録参照