京都コンピュータ学園理事ロバート・B・クッシュナー先生(Prof. Robert B. Kushner)が, 日本時間2002年11月7日午前9時45分(米国時間11月6日午後6時45分), 病気療養中のテキサス州オースティンにて永眠されました。
クッシュナー先生(Prof. Robert B. Kushner:1924~2002)は,写真学,写真工学がご専門でした。第二次世界大戦中から戦後にかけての若き日には,アメリカ合衆国空軍において写真技師として,後には飛行テストの記録写真部門の統括を担当されました。その間,合衆国政府によるネバダ州での核実験の写真撮影という困難な業務にも従事されました。その後は,工業写真から風景写真,人物写真に至るまでの写真技術・写真工学の専門家として,さらには写真関連企業の経営にも携わってこられました。1971年からは母校ロチェスター工科大学において写真芸術・写真科学の教授に就任されました。以来20年の長きにわたって,後進の指導育成に尽力され,現在同大学がCG,グラフィックアート,写真工学の分野において,全米NO.1の地位を得るに至った,その礎を築かれたお一人であります。また先生は,1981年以来国連の写真技術指導員として,中国をはじめ世界各国で,写真技術者の養成にも携わってこられました。
先生は,1989年の本学ボストン校開校式典に参列されたのを機に,度々来日され,本学との関係を深められました。ロチェスター工科大学を退任された後は,同大学名誉教授に就任されるとともに,1993年より学校法人京都コンピュータ学園理事に就任されました。同時に鴨川校において写真学の授業を受け持たれ,若き学生に独立自尊という古き良きアメリカ精神を伝えることに心を砕かれました。
こうして先生は,本学とロチェスター工科大学との懸け橋として,余人に代え難い貴重な役割を果たされました。先生のご努力は,1996年のロチェスター工科大学と本学との姉妹校提携として実を結びます。そして1998年の,日本の専修学校から米国一流大学大学院への編入プログラムにつづき,2003年にスタートするロチェスター工科大学への学部編入プログラムという画期的なプロジェクトは,先生のご尽力なくしてはあり得ませんでした。
いま,先生の突然のご逝去は,私たち本学関係者にとりまして,大いなる悲しみです。
先生のご遺徳を顕彰し,ここに謹んで哀悼の念を捧げます。
学校葬では,故人の親友のパトリック・マクエリゴット牧師によるお祈り,ロチェスター工科大学元教授のジョセフ・ノガ先生,葬儀委員長・京都コンピュータ学院学院長 長谷川靖子,教職員代表による弔辞や,東京芸術大学教授でヴァイオリニストの浦川宜也先生による葬送曲演奏,アメリカ空軍のショーン・キャンプ中尉らによる「Flag Folding Ceremony」(星条旗を遺族に贈る儀式)が行われました。そして,来賓の皆様や学生・卒業生・教職員による献花で故人に別れを告げました。
生年月日: | 1924年11月14日 |
出身: | アメリカ合衆国 オハイオ州 |
ロチェスター工科大学(ニューヨーク州ロチェスター):学士・修士 アメリカン大学 (イリノイ州シカゴ):電気工学 アートセンタースクール(カリフォルニア州ロサンジェルス):写真学 アラバマ大学(ジョージア州アラバマ):写真学 アメリカ合衆国写真学プログラム教育資格取得 |
1938年9月~1942年6月 | チムケン商業高校(米国オハイオ州カントン):写真機材販売 |
1942年6月~1943年2月 | リパブリック鉄鋼コーポレーション(米国オハイオ州カントン):金属工業写真担当 |
1943年2月~1946年2月 | 米国空軍:航空,地上写真担当 |
1948年12月~1951年4月 | C. B.メイヤースタジオ(米国オハイオ州アクロン):人物・工業写真 写真工芸スタジオ(米国ウェストバージニア州ウィーリング):人物・工業写真 ロシェスタジオ(米国オハイオ州カントン):人物・工業写真 |
1951年4月~1955年4月 | 米国空軍(米国オハイオ州デイトン ライトパターソン空軍基地):写真撮影監督,航空テスト研究写真機材準備担当 |
1952年11月~1953年11月 | 米国政府(米国ネバダ州):核実験写真撮影(2,000枚) |
1955年4月~1957年1月 | ホーリクラフターズ電波・軍事電子工業会社,ネルソン技術事業部(米国イリノイ州シカゴ):写真技師,飛行機試験データ集積担当部長 |
1957年3月~1958年1月 | スタンダード写真撮影所(米国イリノイ州シカゴ):コンサルタント,写真販売開発 |
1958年3月~1968年4月 | ゼネラルアニリンフィルム会社(米国ニューヨーク州ビンガムトン):技術撮影部門技師,工業専門家 |
1968年12月~1970年1月 | バトラー提携会社 オーディオビデオビジュアル製造会社(米国オハイオ州デイトン):副社長,写真撮影監督 |
1970年1月~1991年6月 | ストリックランド提携会社(米国オハイオ州デイトン):写真技師,製作部門代表,コンサルタント |
1971年9月~1991年6月 | ロチェスター工科大学(米国ニューヨーク州ロチェスター):写真技術,写真科学教授 |
1981年 | 国際連合 (中国派遣):第1回海外技術指導員 写真技術者養成,商業用スタジオ・写真実習室等設立 |
1982年 | 国際連合 (中国派遣):第2回海外技術指導員 |
1983年~1985年 | 国際連合 (中国派遣):第3回海外技術指導員 (以後も継続) |
1991年7月~ | ロチェスター工科大学(米国ニューヨーク州ロチェスター):名誉教授 |
1993年4月~ | 学校法人京都コンピュータ学園理事,京都コンピュータ学院ボストン校校長,京都コンピュータ学院鴨川校教員 |
私がまだ中学生だった頃,父が写真平板法とオフセット印刷法を説明してくれたおかげで,学校の科学祭で優勝したことがあります。父は彼の友人が所有していた施設に私を連れて行き,そこで原版からコピーを印刷するまでの全過程を私と一緒に行いました。その後私は,父と一緒に行った一つひとつの作業を思い出しながらポスターを用意し,発表に備えました。父の指導のおかげで,私は印刷の全過程を詳細に至るまで説明し,審査員の方々に深い感銘を与えることができたのです。
私が高校生の頃,父はボランティアで,近所のマリノールカトリック教会にあるマリノール出版所で,暗室での作業と出版準備の方法を新しい修道僧の方達に教授していました。父はよく私をそこに連れて行っては,他の修道僧の方達と一緒に写真平板法についてのより詳しい講義を聞かせてくれたものでした。そんな父のおかげで,マリノール出版所の方々は,私達がいつでもカメラや暗室をはじめとする全施設を自由に使えるよう配慮してくださいました。
マリノール出版所に自由に出入りできるようになった私は,早速高校で出版していた新聞を平板印刷に切り替え,それを私に任せてくれるよう,写真部の顧問を説得しました。商業用平版印刷に比べ,かなり低コストだったため,私達はその余ったお金を写真部の経費に充て,器具や備品を購入しました。しかしながら当時は,そのためにマリノール出版所から学校まで,父か写真部顧問の先生が,車で私達を送り迎えしなければなりませんでした。そこで父は,平版印刷に必要なすべての器材を,高校の部室にそろえ,物々交換でカメラ部品を集め,そして石版を露出するためのコピー版,ライトテーブル,真空枠の設計までも手伝ってくれたのです。私が熱心に質問すればするほど,彼はそれ以上の知識を私に与え,私を支えてくれました。
もちろん,私も写真学には興味がありましたので,父はカメラ,暗室での技術,そして人物写真技術を特に熱心に教えてくれました。そして私は父から受け継いだその技術を,学校のアルバム,地域新聞,地域奉仕団体で活用しました。私がマサチューセッツ工科大学に願書を提出した時,父から受け継いだこれらの能力は大いに認められ,国立グラフィックアート協議会から奨学金を受けるまでに至りました。
ロチェスター工科大学の教授であった父の想い出は,他の兄弟姉妹と異なり,残念ながら私の記憶にはありません。しかしながら,私の想い出の中の父は,生まれながらの教育者であり,学ぶ意欲のある者に彼のすべての知識をおしみなく捧げることのできた偉大な人物なのです。
When I was in junior high school, Dad helped me win first place in the school science fair with a project describing photolithography and offset printing. Dad took me to a friends facility where we performed all the steps of reproducing printed copies from an original. I was able to prepare a poster presentation using examples from each step that we had done together. From Dad’s instruction, I was able to impress the judges by explaining the whole process.
While I was in high school, Dad volunteered to help the Maryknoll Catholic mission by training a new brother (monk) to handle all the darkroom and prepress operations at the Maryknoll Press. Dad brought me with him to Maryknoll, and I learned more about photolithography, along with the brother he was teaching. To thank Dad, the Maryknoll Press gave us full access to their facility including process camera and darkroom.
With access to the Maryknoll Press facility, I convinced the advisor for my high school newspaper to let me lithograph the paper. Compared to a commercial lithographer, the newspaper would save money, and the payment would go to the photo club for buying equipment and supplies. Unfortunately, Dad or the school advisor had to do the driving. So after a while, Dad helped me piece together everything I needed to lithograph school publications at my high school. He traded favors to assemble a process camera from bartered parts. He also helped me design and build a copy board, a light table, and a vacuum frame for exposing litho plates. In summary, he taught me well, and then supported me extensively when I responded with enthusiasm.
Of course, I was also interested in photography. So Dad taught me camera and darkroom techniques and portrait photography in particular. I used what I learned to work for the school yearbook, our community newspaper, and a community service organization. When I applied to MIT, the activities I did with teaching and support from Dad made the difference in being admitted, and helped me win a scholarship from the National Council on the Graphic Arts.
Unlike my siblings, I do not have the childhood memories of Dad being a professor at RIT. But when I remember my father, it is clear that he was a natural born teacher, and that he gave generously of himself to those who wanted to learn.
衆知を集めた私の父,クッシュを想う時,印象深い光景は,案外思い出しやすいものです。いつもカメラを手に,私の知る誰よりも多くのロールを使ってシャッターを切る父は,写真学を教授する時,必ず釣り用ベストを着用し,またダクトテープを携帯しない日はありませんでした。しかし,その外見の本当の意味を物語るのは,彼の私生活でした。父が,ありあわせの材料でとてもおいしいワッフルを作ることをあなたはご存知だったでしょうか。また,帰宅が遅くなった家族の一員が夕食を逃した時は,よく最高のチーズトーストサンドイッチとトマトスープを作ってくれていたことも…。
特に印象に残っているのは,特別の場合,急な来賓,また甘いものが欲しくなったときに備え,父が常に手作りチョコレートをどこかに隠し持っていたことです。そのチョコレートの味を思い出すと同時に,私は父がそれを購入する場面をも鮮明に思い出します。それは,父の生まれ故郷であるオハイオ州カントンにある小さなお店「ベン・ヘギーズ」で,そこでは父の小さい頃から糖菓子を製造していました。私が最後に訪れたのはもうかなり昔のことで,それがいつだったかも思い出せませんが,父に連れられ,ベン・ヘギーズ菓子店を訪れたことはまるで昨日のように覚えています。
私にとっての幼い頃のオハイオ旅行は,祖母の家を訪れるためのものでした。遠い日々のその古い家の中に,私の最も愛すべき父との思い出が詰まっています。私達が祖母を訪れたのは,たいてい祝日か家族行事の日で,遠方から来た人々が家を埋め尽くしていました。そんな時,父は誰よりも早く起床し,家をこっそり抜け出して,街角のパン屋さんに出かけ,焼きたての小型の甘い丸パンを,袋いっぱい購入してきました。それ以来,それは私の大好物となりました。私にはこのささやかな出来事が,父の生涯を物語っているように感じられるのです。父は,常に「行動者」でした。生徒,食事を必要とする者,汚れた食器いっぱいの流し台など,何びとの,何事の面倒をも見ようとする人でした。父はやるべきことをする人で,誰も父に尋ねる必要はありませんでした。ひとつ悲しいことは,父のしてきたことに対して,彼が十分感謝されてきたとは私には思えないのです。
思い出すということは,ある意味不思議なものです。どれだけ一生懸命思い出そうとしても,思い出せないものがたくさんあるかと思えば,ふと甘い丸パンを見た瞬間,8歳の私が父と共に祖母の家にいたりするのですから。
The public things are easy to recall when remembering my father, Kush, as most people knew him. He always had a camera at hand, and shot more rolls of film than anyone I know. He always wore his fishing vest when he taught photography, and he was never without a roll of duct tape. But it’s the private things that are the ones that give true meaning to his public persona. Did you know that he made wonderful waffles from scratch? And if you got home late and missed dinner, dad would make the best-toasted cheese sandwiches and tomato soup.
Best of all, dad always had some handmade chocolates tucked away for a special occasion, or that unexpected guest, or when you just wanted something sweet. When I think of the wonderful taste of those delicious chocolates, I would remember where he got them. They were from a small shop in Canton, Ohio, my father’s hometown. This store has been making confections since he was a child. I can’t even recall the last time I was in Ohio, but I can remember going to Ben Heggies candy shop with my father as if it were yesterday.
Those trips to Ohio, when I was very young, were to go to my grandmother’s house. There in that old house, so very long ago, is where my most endearing memories of my father took place. When we visited, it would be for a holiday or family event, so the house would be full of out-of-town guests. My father would get up very early, before anyone, slip out quietly and go down to the corner bakery. He would bring back bags of warm sticky buns. To this day, they are my favorite. In this small seemingly insignificant event, it sums up my father’s life. He was a “doer” and he always tried to “take care”, whether it was a student, who needed a home cooked meal, or a sink full of dirty dishes. My father did “stuff”. No one ever had to ask him, and sadly, I don’t think he was thanked enough. Memories are funny, there are so many things I can’t recall, no matter how hard I try, but every time I even see a sticky bun, I am eight years old in my grandmothers house with my dad.
父は,私の知り得る限りの人々の中で最も寛容であり,他人のために自らを捧げた人でした。彼は家族に,子どもに,学生に,大学に,国にそして世界的な国際社会に,自分の生涯を捧げました。
父は,家族の一員として,父と同じく孤児であった兄のゴードンを,常にいたわることにより,家族に自らを捧げました。
父は,父親として,彼の十人の子ども達が何不自由なく暮らせるよう,三つの仕事を掛け持ち,その上さらに,釣り,キャンプ,ボート,旅行をする時間さえ作り,子どもに自らを捧げました。
父は,核爆弾実験の写真撮影に携わった唯一の写真家として,米国軍隊に加入し奉仕しました。核爆発時の突風は,その後数週間,彼を盲目にしたほどでしたが,それでも彼は,国に自らを捧げました。
父は,国連代表として,1980年,写真分類法を教授するべく中国の北京に派遣されました。当時共産主義国であった中国が,いつか世界貿易に参加できる日が来ることを願いつつ,国際社会に自らを捧げました。
父は,大学の教授として,彼の心と精神と知識を学生達に伝授し,必要とあらば,何時間もの課外授業を惜しみなく施し,学生そして大学に自らを捧げました。
父は,彼の時間,エネルギー,知識を惜しみなく世界に捧げました。そんな中,父が求める唯一の贅沢は釣りでした。
水の入った瓶は,空っぽになれば,満たされなければなりません。同じように,私の父は,釣りをしながら自然と同化し,その一部になることによって,生命力と魂を満たしていました。
父は,真の教育者でした。その日の空腹を満たすために他人に魚を施すのではなく,その人が二度と空腹を覚えることのないように魚の釣り方を教える,そんな人でした。
常に無私で寛容な心で私を見守り続けてくれた父に。
ありがとう。
My father was the most generous giving man I have ever known. He gave to his family, children, students, university, country, and to the Worldwide International Community.
He gave to his family by always caring for his older brother Gordon who was orphaned with my father.
He gave to his ten children by working three jobs so that we would want for nothing. He still found time to give to his children by fishing, camping, boating and traveling.
He gave to his country by being in the U.S. military, and for being the only photographer to get the picture of the atomic bomb test. The blast left him blind for weeks.
He gave to the international community as a United Nations representative in 1980 to Beijing, China. He taught the country of China how to photograph catalogues so they could make the switch from Communism to world wide trade.
He gave his heart and soul and knowledge to his university and students, always going the extra mile to help someone in need.
My father gave of his time, energy and knowledge to the world. The only luxury he ever sought was time for fishing.
Like a bottle of water, once it is emptied it has to be refilled. My father refilled his vitality and soul by becoming one with nature while fishing.
My father was an educator. He didn't give a fish to a person so they could eat for a day. He taught them how to fish so they would never be hungry again.
Thank you Dad, for your unselfish giving generosity in my life.
父は私を父のあだ名と同様に「ボビー」と呼んでおりましたので,私は彼の名前の継承者でもあります。私はこのことを心から誇りにそして名誉に感じています。また,私の二番目の息子の名前「ブレーク」は父のミドルネームでもあります。
父,ロバート・B・クッシュナーは,子ども達をいたわり愛する人でした。10人中6番目の私は,10人という決して少なくはない子どもと母を養うために,寝る間を惜しんで働き,その父の姿に,絶え間ない努力と人生に対する熱烈な愛情を感じ,そんな父を私は心から敬服しておりました。
父はなかなか気難しい人でありました。しかし彼の斬新で明敏な態度で人生と向き合う姿勢と,超人的な正確さで人々の内なる魂とその意向を洞察する力が,十分それを補っておりました。「行為は言葉よりも雄弁」という言葉は,いつも私達の家中に響き渡っており,そこに住む私達全員の生きる指針でもありました。
最近,毎日父のことを考えます。父は,私の愛するものすべての中に存在しています。父は,私の陶芸に対する熱意を誰よりも応援し,それが私の新たな創作意欲に繋がりました。彼の写真学に対する思い入れと挑戦が偉大な業績に結びついたのと同じように,私にもいろんな分野に挑戦するよう励まし続けたのです。
私の陶芸道具のほとんどは,父が作ってくれたか,あるいは佳子夫人との旅行先で私の為に購入してくれたものです。ですから私の陶芸作品の一つひとつの中に彼は生きており,それらを眺めるたびに,彼の愛情と惜しみない援助を思い出すのです。
お父さん,あなたはあなたが出会ったすべての人々に恵みを授けてきました。私は現在のそして未来の自分とその作品に誇りを感じます。なぜなら,あなたが私の中に,そして私の創作した作品すべての中に存在しているからです。多くの作品を私はあなたに捧げる気持ちで創作していますが,不思議と私はあなたが,既にそのことを知っているような気がしてならないのです。これからも私の作品をお見守りください。
私の愛する素敵なお父さん,安らかにお眠りください。
I am Roberta, or as my father would refer to me as, Bobby as I was his namesake. For this I am very proud and honored. So honored my second son holds Blake as his middle name.
Robert Blake Kushner was a father who cared and loved his children. Being the sixth of ten children, I always admired his constant drive and his fervent love for life, as he had to work so hard to feed and care for so many of us. In being rough around the edges he by far made up for it in his innovative and astute perspective of life and his uncanny and pin point accuracy of peoples inner souls and intentions. The clicheエ"his actions spoke louder than words" resonated throughout our household and became a way by which all of us lived.
I think of my father daily. He is ever present in all that I love. His encouragement of my love for pottery keeps my ideas fresh and encourages me to always push the envelope as he did with his love and accomplishments in photography.
Most all of my pottery tools are made by my dad or he purchased them for me in his travels with Yoshiko. I am constantly reminded of his love and support of my pottery endeavors with every piece I produce.
Dad you have blessed all that you have touched. Feel proud of all that I am and will become as you live on in me and in all that I create. Something tells me that you know this and will enjoy these creations, many of which I dedicate and credit to you.
To my wonderful loving Father,
Peace to you,
I will Love you always,
"Bobby"
その日,父は空軍の親友と共にケンタッキー州にあるカンバーランド湖に釣りに行くところでした。その途中,彼は私を誘うためにルイビルにある私の家に立ち寄り,結局私もその釣り旅行に同行することになりました。湖に到着した次の日,木がまばらに生える入り江の奥深い所で,私達は早朝から釣りを始めました。春の雨で水面は上昇しており,天候は霧,湖一面をもやが覆っていました。釣り糸を垂らしてしばらくそこに座っていると,ふと奇妙な音が聞こえ始めました。不思議に思い,辺りを見回すうちに,私はだんだん怖くなってきました。恐怖と共に,まだ幼かった私の想像は膨らみ,「何なの,この音は。もしかして,海の竜!」それは,大きくオレンジ色で真っ直ぐ私達に向かって来ます。私は恐怖に震えていました。実際,その怪物はカヌーの底を何度も叩き,カヌーの横壁を体当たりで押し続けています。
しかし父は,それが怖いものではないということを知っていました。また,父は私にとっての怪物が何物であり,何をしているかをも知っていました。後に彼は,「それは鯉だ。」と説明してくれました。3フィート(約1メートル)はあるであろう鯉は全部で三匹,雄鯉が雌鯉の産卵を手伝っている最中だったのです。
今思えば,あれほど大きく鮮やかなオレンジ色の魚を,私は後にも先にも見たことがありません。父の言葉が私に安堵をもたらし,恐怖は過ぎ去りすべてが元通りになりました。
これが,父が私にくれた最高の思い出となりました。
Dad was going fishing with his Air Force buddies at Lake Cumberland in Kentucky. On his way, he stopped by to see me in Louisville. He invited me to join him for a few days of fishing and so I went with him. We were fishing early one morning, at the very back of a cove among some trees. The lake water was high due to the spring rains. The weather was misty and a fog was on the water. While we sat there fishing I heard an odd noise. As I looked around to see what it could be, I started to get scared. What was going on? There it was, a sea dragon. It was huge and orange and was coming straight toward us. I was terrified. The monster actually banged and pushed against the side of the canoe.
Dad knew there was nothing to be afraid of. Dad also knew what my monster was, and what it was doing. He explained that it was just Carp. There were three of them, each about three feet long, and they were spawning (when the male helps to push the eggs from the females).
I had never seen fish that big, or that color. All my fears were gone; Dad had made me feel safe, and that every thing would be all right once again. That is what Dad did best.
Geraldine Marie Kauffman #5 child
10人いる父の子どものうち最年少である私の記憶にあるのは,毎年夏休みにニューヨーク州のお祭りに家族で行ったり,サウザンド島に皆を連れて行ってくれた,そんな父です。父は私をよく「ちっちゃな釣り友達」と呼んでいましたから,私が成長し,釣り以外のことに興味を持ち始めた時の,父の寂し気な後ろ姿は今でも脳裏に焼き付いています。父は「おまえはお洒落しすぎだ!」と,よく私をからかったものですが,ソフトボール,チアリーダー,生徒会役員そして学業など,釣り以外のことに没頭している私でさえも,父は誇りに思っていてくれました。冬の寒い朝などは,学校に出かける前の私に,よくたんぱく質入り栄養満点ホットココアやオートミールなどを作ってくれたものです。休みの日にはミキサーを使ってライムゼリーチーズケーキを作っていました。私を部費の比較的高いスキークラブに入部させ,また高校生活最後の春休みにマイアトルビーチに行かせてくれたことは,今でも感謝しています。また,私の高校卒業祝パーティには,庭の木にスピーカーを取り付け,自宅前の道路一面にダンスフロアを設置して,その横に大きな焚き火をたいてくれました。またロチェスター工科大学の交換プログラムを通じて私を大学に入学させ,同時に学費と車を与え,また結婚式には潔く私を今の夫に委ね,その後一緒に「Daddy,s Little Girl (パパの小さな女)」を踊ってくれた,そんな父を私は心から誇りに思います。
父を考える時,釣り用ベスト,壁にかかった釣竿,ダクトテープ,冷蔵庫に入った巻きフィルム,そして「焦点をあわせるから指を立てて。」という写真を撮る時のお決まりの掛け声が,頭に浮かびます。また実用的なところでは,ミートローフとポットローストの作り方,水泳,釣り,キャンプ,カヌー,ソフトボール,そしてテニス,これらすべてを私は父から学びました。また,ミッション型自動車の運転の仕方,護身術の奥義も教えてくれました。成長する過程で,情報をできるだけ多く蓄えておくこと,実践すること,節約すること,自立すること,責任を持つこと,一生懸命することを,私達は彼の生き様そのものから学びました。父は多様性を包括し,教育を重んじました。早起きで,愛国者であり,危機を生き抜いた人であり,また多くの意味でアウトサイダーでした。写真家,そして教授であっただけでなく,時に何でも屋さんであり,狩人であり,漁師でもあり,人生を謳歌する人でした。父は,「クッシュ」もしくは「ボブおじさん」の名称で親しまれ,言葉数は少なくとも,いつもいたわりの心があふれていました。私達の家では住処を求める者の為にいつも玄関扉を開け,常に一人分余分に部屋と食事が用意されていました。これら父から学んだ教訓を,私は万人を受け入れるために一生を通じて心がけるつもりです。父は,行動は言葉よりも雄弁だということを身を持って私達に教えた人でした。
今日は父の好きだった感謝祭。今,今までのいつよりも,痛切に父がいないことが寂しく感じられます。正直に言うと,私はまだ彼を失う準備ができていませんでした。以前は私達が父を必要とした時,父はいつもそこにいました。しかし今,私達の父,天からの贈り物はもはやこの世にはいません。父が彼の孫の成長を見つつ,その孫達に父の多彩な才能を伝えることができたらどんなによかったでしょう。しかし今となっては,父がたとえひとときでも,孫にとっての「おじいちゃん」として私達と共に生き,また,最後の数ヶ月間,そばで彼の看病をし,最期を看取ることができたことに感謝するしかありません。そして最後に,父が人生の中で関わったこんなにも多くの人達に,愛され敬服されていたことに彼が気付いていたことを,切に願います。
As the youngest of his ten children, I remember my Dad taking the family to the New York State Fair, and camping in the Thousand Islands every summer. He used to call me his “little fishing buddy” and I know he was sad when I grew up and found interest in ‘other things’. He used to tease me about primping too much but I believe he was proud of my other interests; softball, cheerleading, student council, and school. He’d make hot cocoa protein drinks and oatmeal or cream of wheat on cold winter mornings before school. He used to make lime jello cheesecake with the blender for the holidays. I am thankful for my Dad letting me join the ski club, and for allowing me to go to Myrtle Beach on Spring break during my senior year of high school. I remember my Dad putting speakers in a tree, laying a dance floor on the driveway, and making a bonfire for my high school graduation party. I am thankful for my Dad providing me with a car in college and tuition through the R.I.T exchange program. I was proud to have him give me to my husband and dance to “Daddy’s Little Girl” at my wedding.
Special things I remember about my Father are his fishing vest, fishing rods on the wall, duct tape, rolls of film in the refrigerator, and posing for photos “Hold up your finger so I can focus”. Practical things I learned from my Father were to make meatloaf and pot roast, to swim, fish, camp, and paddle a canoe, to play softball and tennis. He also taught me to drive a stick-shift and the secret to defending myself against a man. Through raising me, my Father taught me many things by example; to be resourceful, practical, frugal, independent, responsible, and to always pitch-in. He embraced diversity. He valued education. He was an early-bird, a Patriot, a survivor, and in many ways an outsider. In addition to being a photographer and a professor, he was a jack-of-all-trades, a hunter and a fisherman, a big flirt. My Dad was best known as “Kush” and “Uncle Bob”. He often lacked for the words, but I knew he always cared. We had an open door for anyone needing a home, there was always room or food for one more. That is what I’ll keep with me, to include everyone and that actions speak louder than words.
Today is Thanksgiving, I believe it was my Dad’s favorite time of year. I miss my Dad now more than ever. I was not ready to let him go. Before I always knew he was there when I needed him and now that gift is gone. I hoped he could see his grandchildren grow up and share his many talents with them. I am thankful he got to live with us as “Grandpa”, if only for a little while. I was thankful to be with him and care for him in the last months of his life, and to be with him when he died. I trust he knows he is loved and admired by many he touched throughout his life.
Professor Kushner is a Master Photographic Technologist, a Photographic Artist and a World Renown Photographic Teacher. His life in the photographic field covers most major fields; his strength is the ability to see and control light to create form.
His Technology was developed by study and working under Master Craftsman; as a Technical Field Representative. His Artistry and Observation are from nature and as an outdoors-man. In his early years he trapped for animals, bunted and fished. Keen observation and quick reaction was a key to success. He was carried these activities through his entire career.
Professor Kushner, his name remains on the list of World Photographic Experts with the United Nations / ITC, Geneva, Switzerland. His Missions to China were to establish Commercial and Photographic Illustration / Advertising Studios; and to train the Staff.
His Talent was recognized by the Director of the School of Photographic Arts & Sciences, Rochester Institute of Technology. Upon retirement, he was awarded Professor Emeritus.