映画のような町,演劇的出会いのある町。わたしは京都をこんな町と思い続けている。もっとも最初からはっきりそう思ったわけではない。1967年に日本に来た当初は日本のことは皆目わからない異邦人だった。
知っていた日本語は「さよなら」と「おでん」の二語がすべて(「おでん」は飛行機に乗り合わせた親切な老人に教わった。「日本でいちばんうまい食べ物」と彼は言った)。だから東京に着いた初めの1週間は毎日おでんを食べた。目黒駅近くのおでん屋の屋台に入り,高いスツールに座る。おかみさんの目を見て「おでん」とひとこと言う。食べ終わると勘定をすませ,またおかみさんの目をじっと見て「さよなら」と言った。 やがて世話してくれる人があり,わたしに運よく仕事の口が見つかった。東京千駄ケ谷に事務所を置く京都産業大学でロシア語とポーランド語を教えることになった。それまで例のおでん屋でほかの客たちとたどたどしい会話を交わすうち,わたしの日本語の語彙は増えていった。チクワ,ダイコン,シューマイ,ジャガイモ,イトコンニャク,ウズラノタマゴなどがさきほどの二語に加わる。どれも当面大事な単語ばかりだ。しかしわたしはもっと大事なことを知らずにいた。自分の就職先,京都産業大学は事務所が千駄ケ谷にあったため,東京にある大学とばかり思いこんでいたのだった。
「シゴトアル」とわたしはおでん屋で隣に座ったいっぱい機嫌の男に話しかけた。おかみさんには「ツクネ,アリガトウ!」と威勢よく声をかける(注文の仕方はこれしか知らなかったのだ)。
「仕事,ワーク?」と相手が聞く。
「ハイ,ダイガクシゴト。キョートサンギョーダイガク。ティーチャー。」
「コングラチュレーションズ!よかったねえ,京都はベリナイスプレースですよ。」
「ノー,ノットインキョート。」
「ノットインキョート?」
「ノー,アイミーン,イエス。トーキョーのキョートサンギョーダイガクです。」
京都産業大があるのは東京ではなく京都なのだと,やっとのみこめたのはそれから数日後だった。わたしは京都に行き,続く5年間を京都で暮らした。
京都産業大の学生は教師に対してとても礼儀正しかった。とくに教室以外で会った時などきちんとおじぎをして挨拶するのだった。(もちろん教室内だって頭を下げる。机にくっつくぐらいていねいにおじぎをして,授業中も顔を上げない。終わりのブザーが鳴ると初めてびくっと頭を起こすのがふつうだった)。
ある晩わたしは映画を見に行こうと思いたった。四条河原町の角から少し歩いたところの美松劇場で,「白夜は熱く燃え」とかなんとかセクシーなタイトルのスウェーデン映画をやっていたのだ。映画の前にまず木屋町と先斗町の間の狭い小路にある「なべ」というおでん屋に寄る。田辺さんという夫婦の店だったが,現在も夫婦でおでん屋を経営している。田辺さんはわたしがおでんのメニューに詳しいのに感心した。(わたしの日本料理の知識がおでんに限られていたのを知らないので)。腹ごしらえがすむと木屋町から四条通を歩いて美松劇場に行く。カラ梅雨の暑い夜で,「熱く燃え」るには申しぶんのない気象条件だった。
館内は混んでいた。2列目に空席をひとつ見つけたのでそこをめがけて移動する。
「スミマセン」座席の観客の膝にすねをぶつけながら通る。頭上のスクリーンには今まで見たこともないようなでかくて白い北欧の乳房が大写しになって揺れている。
その時,キューのサインでもあったかのように,2列目の観客がいっせいに立ちあがるではないか。詰襟の学生服姿の産業大生がずらりと並んでいる。
「オッス,先生!」彼らはそろっておじぎをした。
プロジェクターがわたしの顔を照らす。ふりかえると,スクリーンには後向きの女性の白い体が大きく写っていて,わたしの頭の影がその半分ばかりを覆っていた。
「オー,ソーリ。あの,ちょっとまちがえて・・・」わたしは学生たちの爪先を踏んづけながら座席の間を通って通路に出,美松劇場から外へ出た。
わたしの教え子たちときたらほんとにもう礼儀正しい学生ばかりだった。
北欧の白夜にゆらめく豊満な体の線の下での,学生たちとの出会いはたしかに劇的ではあった。しかしわたしの言う「映画のような町」はこの出会いを指しているのではない。
京都は極端にかけはなれたものが共存する町だと思う。社寺や友禅のキモノなどの伝統的な世界がある一方,思いもよらない超近代的な世界が意表をつく形で存在する。そんな時この町は劇場になる。何もかも予想可能な世界は演劇的なものからいちばん遠くにある。
わたしは京都に5年住んだあとオーストラリアに引っ越した。(オーストラリアからは東欧,西欧,アジア,アメリカなどに頻繁に旅行していた。)そして1982年,「戦場のメリークリスマス」の助監督として大島渚の下で仕事をする。映画のロケ先は主にクック諸島のひとつ,ニュージーランドから東へ空路3時間半の熱帯の島だった。
大島さんが京都出身なのはよく知られている。彼が独特な創造的観点から人間の条件をとらえるのも,この人が京都人であることと無関係ではないと思う。彼はこう話してくれたことがある。
「ぼくは根本的に,ひとつの極限状況みたいなところに人間を追いこんで,そういうところでの人間の反応を見るのが好きです。狭い空間あるいは非日常みたいなものが好きなんです。」
「非日常」という言葉は示唆に富んでいると思う。京都の町角では非日常なもの---ふだんの生活では思いもよらないものに出会うことがある。しかもそのこと自体は京都にいるかぎり不思議でも異常でもない。京都では非日常と日常はイコールなのだ。
大島さんの「極限」という言葉もまた京都の一面をついている。こじんまりとまとまった中にまったくかけはなれた,両極ともいえるものが隣合い,混在して京都の文化を形成しているからだ。
大島監督の作品の中でもとくに「戦メリ」,「愛のコリーダ」,「儀式」,「絞首刑」などを見るといっそうよく理解できると思う。本質的に異なった経歴,気質,パーソナリティをもつ人物が多く登場し,相互にじかにかかわり,影響し合う。しかもそれぞれが自然に行動する中でドラマが現れてくる。(大島さんはいわゆる「みがかれた」新劇タイプの演技を嫌う。)極端にちがうもののぶつかり合いは,自然なごく日常的な行動でさえ,ふつうではない演劇的なものをはらんでいる。大島さんは京大在学中から演劇活動を始めているが,京都という町の本質がそもそも演劇的なものを内在しているとわたしは考える。不思議な,ドラマチックな町だ。
京都は日本のほかの町と比べられないような気がする。京都というとわたしは自分の知っている外国の町を考えてしまう。ミラノ,ボストン,レニングラード。このどれもが首都でなく(レニングラードだけはかつて首都だったが)首都とは別の独自の文化が生きているところだ。ミラノはファッションの中心,ボストンは歴史があり,レニングラードはソ連の中でいちばん開かれた美しい都市だ。京都はこの3都市のどれにもなりうる素質をそなえているとわたしはひそかに考えている。
1982年,わたしはオーストラリアの横井庄一さんみたいに「はずかしながら」日本に舞いもどった。東京に5年住んだあと京都に引っ越したのが1987年だった。
東京はまぎれもなくトレンディな都会だ。息つくひまもなく新しい流行が現れては消える。とくに男女の服装のファッションに思うのだが,たしかに東京のめまぐるしい流行にはある程度のオリジナリティを感じる。しかし東京のオリジナルな文化は果たして永続性があるかなあと思うことも多い。一方京都文化はあまり動きがなく,ともすると沈滞していると見える分野も多い。しかし京都のハートは(「芯」と「こころ」の両方の意味を含め)けっして損なわれず,いつも何かを生み出す源泉となっていると思う。たとえば映画だが,現在東京で作られる映画はどうしようもない駄作ばかり,海外の水準に達するものは皆無という絶望的状況だ。世界の映画祭に自信をもって出せるものはおそらくないと思う。そのうち日本の映画ルネッサンスが起こる,それは京都が中心になるかも知れない。そうなるのを願っているし,わたしもその一翼を担えたらどんなにいいかと思う。
「戦メリ」の経験からわたしはたくさんのことを学んだ。大島さんから得たものも大きい。多数の関係者やスタッフからなる大きなチームをどのようにまとめ,監督独自の芸術性をどんなふうに作品に投入するかを知った。また,6週間ほどの撮影期間に出演者たちがどんなふうに作品中の人物を演じ,役に一貫性をもたせていくかをじかに見ることができた。わたしは舞台の演出は何度も手がけているが,映画と演劇ではまったくちがうこともよくわかった。演劇は1時間なり2時間なりの枠の中で,観客を目の前にして最高の演技力を発揮できるかどうかが問われる。
「戦メリ」での大島渚のすばらしさはなんといっても4人の主演俳優の使い方にあった。4人は演技のスタイルもパーソナリティも非常にかけはなれた人たちだ。デビッド・ボウイは因習打破のロックスター,坂本龍一は知的でシャイな作曲家・ミュージシャン,トム・コンティはち密な演技派。コメディアン・トリックスターのたけチャンは木曜,いや金曜(フライデー)事件で一躍社会運動家になったが,またカレーの店のオーナーでもある。
このような多様な個性をひとつの作品にまとめた「戦メリ」はわたしの言う真の「京都風」映画なのだ。伝統的に京都の美意識とライフスタイルは日本各地,世界各地から入ってきたさまざまな要素が混然一体となって形作られている。「みやこ」として栄えていたころの京都はまばゆいばかりの華やかな町だったろうと想像する。中国や朝鮮からの文物が流れこみ,鎖国前はヨーロッパのルネッサンスの思想文化にも開かれた都市だったはずだ。「みやこ」の最盛期は世界の都市のうちでもっとも人口が多かったという。
もちろん今の京都をふたたび「みやこ」にもどすわけにはいかない。しかし日本の国際都市といったら京都をおいてほかにないとわたしはほとんど確信している。外国人の数は東京に及ばないが,京都の外国人は東京みたいに流動していないのはたしかだ。京都在住外国人は町の文化に深く根をおろして生活している。最近の繁栄になんとなく引きよせられて東京に来る外国人は通り過ぎて行く者が多い。
わたしが家族と京都に住んで1年たつ。わたしも「かけはなれた」存在のささやかな部分として京都の隣人たちの間に溶けこんでいるのかなと思う。
(訳 堤淑子)
作家,劇作家・演出家。1944年生まれ。ロサンゼルスに育つ。ハーバード大学大学院を21歳で卒業後,留学先のワルシャワで演劇活動に開眼。京都で5年間,数多くの演劇人との交際を経て,76年にオーストラリアに帰化。演劇活動に打ちこむ。1982年映画『戦場のメリークリスマス』の助監督をつとめたあと,再来日。以後日本在住を続け,テレビのニュース・コメンテーターやFM放送のDJとしても活躍。84年ストリンドベリ,86年サム・シェパードの作品の演出を手がける。
著書『ウラシマ・タロウの死』『ヤマシタ将軍の宝』『トラップドアが開閉する音』等