コンピュータによるコミュニケーション,あるいはコンピュータへの途方もない期待と反発という今日の状況について考えたい。当然,問題は多岐にわたる。それぞれの専門や職種によって,コンピュータの用いられ方は違うであろうし,日常生活の中で用いている人たちと,コンピュータ利用の拡大・推進を職業上の目的にしている人たちとでも感じ方は異なるはずである。キーボード・アレルギーを超えた人たちと,その手前で嫌悪感や時代遅れという自意識を強いられている人たちとでは,感じ方は月とスッポンであろう。溢れるばかりの期待を抱いていそうな人たちと,それには懐疑的だが道具として活用している人たちの間にも,認識の差,温度差があるのだが,まだそれほど表面化していない。筆者は,後者の側であって,懐疑的である。というより懸念を抱いている。われわれは,コミュニケーションの道具としてコンピュータを活用しつつも,コンピュータを万能視してはいけない。人間的な当然の分別を超えてしまった,ある種の無邪気な期待も見られるからである。当然の分別とは,歩いて行ける場所に行くのに自動車を利用すべきではないのだし,逆に適切な交通手段を利用すべき場合に歩くには及ばないということだ。だが,技術革新の時代となってからは,進んだ技術や科学の成果を使うのが自己目的となる例は常に繰り返されてきている。悲喜劇もあった。ビタミンの発見以前には,一時の流行で富裕な子弟が,無駄を省いて三大栄養のエキスだけの食事で育てられるということがあったそうだ。もちろん栄養失調になった。
かつて,テレビがたどった道はそのためにも,参考になる。わが国では,高度経済成長とともにテレビとテレビ文化が自然の流れとして家庭に入り込んでいった。テレビ文化,というより,具体的には暴力と性の溢れるテレビ番組の悪影響について,かなり前から,心配性の人たちや残存する高級文化の代弁者を任ずる人たちからの批判がある。カナダでは国内事情の投影でもあるのだが,テレビ・リテラシーという教育が試みられ,わが国でも,ほかならぬ大学でテレビの見方を教えようという無邪気な先生も現れている。
リテラシーとは,読み書き能力のことだ。文字の読み書きや文章能力は,自覚的に体系的に,いわばあれこれの無理をして教え込まなくてはならない。だから,テレビ・リテラシーの教育とは,比喩的な表現であって,じつは(個々人の適切な習慣づけからさらには多くの者が感じ方やその他で共有するにいたる)適切な慣習形成というのが真実である。というのも,テレビ視聴では,画面の意味合い,意味作用は自然に楽しみつつ習得され,〈読み取り〉能力がいわば自然に沈澱するように身につく。テレビ視聴についての教育とは,楽屋話や番組作りの裏話や,極端には「やらせ」の実態などを紹介することではなく,幼児や青少年が家庭でテレビと過ごす時間を,生活時間の配分という観点から配慮して,より充実した生活能力を育むように導くことだ。これは難しいことであろうが,必要でもある。今日,教育分野のタテマエでは,テレビ文化は排除される方向で,コンピュータ文化は導入される方向で位置づけられている。だが,コミュニケーション・メディアとしての両者がそれほど決定的に違う存在であろうか。同じ「モニター覗き込みのメディア」であるのだ。とりわけ家庭での利用となれば,類似点も多く,コミュニケーション・メディアとしてのコンピュータを考えるうえで,示唆となることが多いはずである。
かつて,テレビはマス・メディアやマス・コミュニケーションという位置づけで語られた。ほとんど,俗信とさえなっている一方性や過大な影響力など,テレビ文化をつくりあげた条件は,今日,急速に変わりつつある。テレビは,電源を入れればそれだけで利用できるのに対して,今のところ,コンピュータは多少の知識や習熟が必要である。だが,コンピュータ文化の功罪について,心配性の人たちが騒ぎ出すのも時間の問題であろう*1。
中高年層の人たちにとっては,自覚的に体系的に,いわばあれこれの無理をして習熟しなくてはならないメディアであるコンピュータも,若年層には,かつてのテレビがそうであったように,自然に楽しみつつ習得され,〈読み取り〉能力が自然に沈澱してゆくメディアであるようだ。生活時間の配分や習慣づけ,多様な経験を可能にするための配慮が,それがどれほど可能であるかはともかく,これからは教育界の任務となるはずである。テレビにくらべて,コンピュータは,幸運な航海を始めたと言うべきであろう*2。
道具と人間の関係をめぐる歴史的な知見,とりわけコミュニケーションの道具とそれへの人間の適応についての歴史的な概観を脳裏に浮かべながら論じたい。
かつての道具は,人類の歴史の中で長い時間をかけて実に畏るべき遅さで練り上げられていった。他方,近代になって道具と動力が一体化され始めると加速度的に道具の革新が進むようになった。クルマなどの運搬手段も,そのような道具である。ここでは,日常語としては用具・機械などと表現されるカテゴリーをすべて道具と呼ぼう。およそ道具は,その使用者についてあらかじめ自覚的にモデル化しておいて設計し始めるという特徴がある。古代人が想い描いたモデルは自分の姿であった。
コンピュータは道具である。ある道具が便利だから使うというのと,道具を使うために,それに合わせるように人間の生活や考え方や振る舞いをモデル化してゆくのとでは,まるで違う結果となる。さらには,ほかにも目的をかなえてくれる他の道具があるのにそれを使わせず,いわば囲い込むようになるなら,困ったことだ。技術革新の時代には,新しい道具には新しいというだけでアウラが生じてしまい,惑溺させてしまうのである。
なるほど,とりあえずの当面の目的にかなった(処理しやすい形で整序された)モデルの設定は常に必要だ。そのモデルが現実の課題を処理してゆくうえで不十分だと感じられたら,モデルは修正されてゆくはずだと技術者は答えることだろう。だが,問題は,われわれ人間の方が,そのモデルの方にすり寄って行く能力がある,適応性があるということだ。過剰適応かどうかの判断は,もちろん簡単ではない。だが,忘れてはならない問題である。
話題を,ある研究報告を読んでの議論としよう。人間の五感をコンピュータ的に再現しようという研究がある*3。そこには,例えば,従来の博物館展示の,体験の量と質を向上させるための基礎的な検討など,コンピュータ利用として参考になるものもあるのだが,グループ・ウエアのための研究となると,かなりナイーヴな期待がありそうである。人間の五感を擬似的に再現して,参加者の満足感や作業の成果を高めようという努力は結構である。また,人間コミュニケーションを擬似的に再現するために,モデルの単純化が必要だというのもわかる。ところが,コミュニケーションの研究は,これほど人間にとって重要であるのに,いまだに,基本的立脚点において,確立したパラダイムがないのである*4。人の精神の正常と異常と,あるいは近頃話題の具体例だと,夫婦関係での暴力の裏にある単純なようで判読しがたい謎,いずれをとってみても,通信工学のモデルでのコミュニケーション概念では,歯が立たない。大学などでのコミュニケーション論の授業も,通信機モデルで疑問をいだかない先生もおれば,宗教的な神秘的経験などをモデルにしているような先生もいる始末である。日常生活の,ありふれていてそれでいて微妙な問題の発生,例えば,世代のギャップでは片づかない問題などをも視野に入れたモデルでなく,人間を単純化したモデルによって進化させられ,人間の営みの深層にまで関わろうとするコンピュータ機器やソフトは,無邪気が生み出す脅威であり野蛮である。
テレビは,当該産業の発達と技術革新による供給と,豊かになってゆく家庭の需要にこたえて,制限されたチャネルを使用する企業体からの発信として,コミュニケーション・(マス)メディアとなった。テレビの一方的メッセージが問題とされるが,テレビという受信装置そのものが,そのように環境設定したのではない。キャスターたちが時に見せる,視聴者を不安そうにのぞき込もうとする顔からもわかるように,コミュニケーションの不足は,発信者の側にも感じられている。コンピュータ通信網は,いまのところ,それなりの相互性が成り立っている。だが,テレビと同じで,コンピュータ装置そのものが,それを保証しているわけではないのである。
コンピュータ・ソフトにはどこかしらゲーム感覚がある。コンピュータ操作の習熟度が,競争主義社会での個人の技能や適応能力の指標となっている面もある*5。もちろん,現実の競争社会では愉快なゲームどころではない。先の研究から例を引くと,膨大な図書情報や資料・史料のアーカイブ(研究のために,故意に残されたままの状態にしてある未整理文書など)を特定の検索ソフトに習熟し探ってゆくのと,ゲームの世界を楽しむためにゲーム・ソフトに習熟してゆくのとは同じでない。ゲームのソフトには,おそらく習熟することそれ自体に快感を刺激するような仕掛けがあるに違いない。乏しい経験ながら,そのように断言できる。資料検索のソフトはと言えば,今のところ,さほど快感を刺激したりするような構成にはなっていない。われわれが,そのような欲求を抱いて利用しないからである。人間が求める情報の質には,さまざまな局面・次元・深度があるけれども,コンピュータを用いての情報摂取では,文字化され映像化され音像化されデジタル化される範囲で満足している。人間のコミュニケーションの多面的で,まさに五感の存在ゆえの豊穣な内実をそこに求めていないからである。時には原始的な探索方法を好み,それで成果をあげている人たちの方も多いわけである。ところが,もし検索ソフトの類にそのような五感への快感刺激の仕掛けが備わったとすれば,(楽しいかも知れないし,それがもし教育ソフトであるなら,ある意味で歓迎すべき仕掛けでもあろうが)手段と目的の倒錯にほかならないだろう。麻薬入りの食べ物と変わらない。だが,われわれはそれに適応するかも知れないのである*6。
かつて,中井正一はコミュニケーション・メディアの重層的存在を「委員会の論理」で説いた*7。そこでも例としてあげられているように,生産現場での利用と実践にはごまかしの利かないところがある。今の日本で,もっとも機能的でかなりの人間的闊達さがあるのは,モノを生産する場,製造業の分野であろうと,企業人が誇らしく語るのを聞くことがある。もちろん相対的にではあろうが。では,機能を失った儀礼的行動がもっとも残存している場所といえば,例えば銀行や大学や政党などであろうか。
経営学の進歩なのであろうが,職制という制度的な関係を離れたインフォーマルな場の利用が経営的にも慣習的にも様々なかたちで確立しつつある。だが,人間の諸力が分散的に用いられるこのようなインフォーマルな場ほど,邪気の支配を受けやすい。そのようなインフォーマルな場にあらわれる余力は,じつは従業員のそれぞれの潜在的な目的や充足のために振り向けられるべきであるのに,そうした余力までも吸い取ろうとするイニシャティヴ,仕切り,牛耳りが生じる。かくして,コンピュータ機器の場合も,道具としてよりも儀礼的装置としてその四囲に部下たちを張り付かせてはいないだろうか。
道具は複数あってよい,というより,許される限り複数で多重的であるべきだ。メディアとなるべき道具にも,それは言えるだろう。しかもコミュニケーションには,道具以前のメディアがあり,その全貌はいまだに言い尽くせない。
表情を押し殺した制度的会話だと,身体表現も乏しくなる。日本文化の身振りが乏しいといわれるのは,半ばは間違いである。われわれは互いに抱きつかなくても友愛の情を確かめられる。控えめなのだ。だが,紺色の制服を着た企業兵士たちや,その予備軍の教室内にいる若者たちの身体表現が乏しいのは別の理由からである。対話の場では対等でなければ,議論は論理を生み出さない。対話的関係,人間関係の究極の姿は,五感の存在どうしの対面である*8。思考は,反省と精密化を必要とするし,客体化され,誰もが論理の次元でのみ参与できるし,する必要がある。文字の力である。モニター上でのメモと,紙のメモ帳などへの記入には,微妙に思考の色合いの差を感じる人もいる。手指の動きが余剰感覚となって煩わしいという。個人の慣れや習慣,さらには文化的な慣習の問題であって,好みに従ってよいのである。さて,旧来の文字表現と印刷物は,モニター画面上の表示に取って代わられるのだろうか。筆者の好みでは,ただの情報ならともかく,文学作品などは審美的な外観のメディアで味わいたい。
五感の存在であるわれわれは,発話の場合はもちろん,書字の場合でも,よい聞き手を必要とする。日記にはそれを読む別の自己がある。印刷術の発明以来の書き手たちも,相手を想定しないでは書けなかった。そうした相手とは,そのジャンルにおける慣習が培った存在であり,まさにvirtualな存在として脳裏にあった。今のところ,コンピュータ通信が培った慣習には,良くも悪くも落書きgraffitiというジャンルの名前がふさわしいようである。コンピュータ利用の多くは,Emailのようだが,まさにその感が強い。トイレの落書きには,ここなら許されるという匿名の馴れ合いがある。だれかの落書きに後から加筆する者たちもいる。次第に見事な壁面の汚れが生じる。あの場所は確かにgroup ware/人々の容器である。ふと,いにしえのみごとな慣習,連歌を想起した。匿名ではなく一堂に会してではあるが,あれもまた,座という連れ合う営みであった。道具や装置があれば,それだけで「よいもの」が成り立ちはしないのである。
コンピュータ機器が,巨大な情報管理体と落書き愛好者のためのメディアとなるのか,それとも個を新たな社会的な存在として実感させる道具となるのか,予言はできないけれども,コミュニケーション・メディアのひとつとして,あくまでもひとつとして存分に機能を発揮して欲しいものである。
*1 バリー・サンダース『本が死ぬところ暴力が生まれる』新曜社:読み書き能力がどのような文化や社会的性格を育んできたかについては,あらためて,認識されるべきであろう。
*2 すでに翻訳もされているように(キンバリー・ヤング『インターネット中毒』毎日新聞社),インターネット中毒という現象も出ているので,アメリカにくらべて遅れているといわれる教育現場への導入にも拍車がかかるであろう。
*3 慶応大学SFC研究所 http://www.vcom.or.jp 創造的ディジタルメディアの基礎と応用に関する研究・1997年度報告書
*4 池村六郎『コミュニケーション…メッセージの解読とメディアの経験』阿吽社・1998/木村洋二『視線と「私」』弘文堂・1995
*5 社会的な階層化の危惧として,朝日新聞,98/10/20,「アメリカと世界・2・電子商取引・貧困層と地球的摩擦も」
*6 Virtual Reality/仮想現実とは何だろう。新たな言葉が用いられるようになり,人々の情動に訴えると,しばらくはその言葉への思い込みが整理されず,乱用されがちである。この言葉の作用,つまりは記号がもたらす意識の変化について考えることにしよう。仮想現実とは,物理的にも生物的にも現実ではないが,あたかも現実であるかのように,われわれが反応するような情報群がある場合や,そんな体験内容のことである。もう少し定義を付け加えれば,技術的な手段が介在している。さらには,個人的な偶然によってそのように感じ取られた場合は除外し,同じ条件であれば,たいていの者がそのような反応をする場合である。さて,この仮想という訳語であるが,仮想敵国という表現もあるので疑似現実とか疑似体験や「もどき」とでも言い直した方がよいようなのだが,もはや無理であろうか。
社長もどきという表現にあたるのが,a virtual presidentである。日本語としての用例からすれば,お能の翁に対して,三番叟での演じ方が「もどき」であったが,真似て分かりやすくなり,可笑しみが現れる。また,やがては本物に対して,模倣しつつそれに張り合っている存在をさすようにもにもなった。秘書を女房もどきにする,という例である。さて,もどきは,現物に対して記号的存在として機能するが,決して取って代わろうとしない/できない存在でもある。SF的には,人間もどきという存在もある。They Liveという映画だと,地球人の脳波に作用を及ぼして,外見をわからなくしている。Alienたちは地球人に取って代わろうとしているのだが,実際に取って代わってしまえば,かれらが地球人となるのであって,もどきではなくなる。もどきは,現物に対して「分離と結合」の二重の契機によって存在し,機能しているわけである。
記号体験は疑似体験とされている。だが,それは現物による体験に対しての疑似であって,体験そのものが疑似的なのではない。かつて,疑似環境という言葉や概念が流行したことがあったが,pseudo-environment/疑似環境という原語からもわかるように,pseudo=偽りの,それを指していた。骨相学や血液型人格判定のような疑似科学は,疑似であり偽である。疑似環境とは,すぐれたジャーナリスト,(国際連盟の提唱者,ウィルソンのブレーンであった)W・リップマンの警告で,マス・メディアなどによって感じ取られた意味世界の虚像性を指摘し,それに踊らされる現実を反省させるための概念であった。情報が構成する意味世界が独り歩きしてしまい,ことの重大性にくらべて,情報が指し示す現物に有効にフィードバックできない事態に個人や集団が陥っているなら問題である。メディアの道具には,適切な慣習の形成が欠かせないのである。
*7 長田弘編「中井正一評論集」(岩波文庫)
*8 マルティン・ブーバー,植田訳「我と汝・対話」(岩波文庫)