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Accumu Vol.20

古を語る星ぼし③ 晴明の日食と今年の日食

「ああ,また安倍晴明か」と言わないでください。晴明に関するスポットは晴明神社(堀川一条下がる)だけではなく,嵯峨野,山科,・・・洛内洛外たくさんあります。

筆者の所属している天文普及団体「NPO花山星空ネットワーク」では京都の天文史跡をめぐる「京都千年天文学街道ツアー」という活動を始めました。晴明神社から京都御苑まで歩く「明月記コース」,地下鉄御陵駅から花山天文台へ登る「花山コース」,京大・真如堂・吉田山を散策する「京大真如堂コース」があり,そのいずれにも登場するのが安倍晴明(921~1005)です。晴明といえば古典『今昔物語』から現代の『陰陽師』によって妖術師のようなイメージが定着していますが,実は千年前の京の都で活躍した天文学者です。彼の役職「天文博士」とは星のことをよく知っている先生という呼び名ではなく,れっきとした太政官の官職名で,彼は中級国家公務員なのです。彼の勤務先は太政官・中務省・陰陽寮,所在地は千本丸太町あたりだったそうです。

紫式部や清少納言たちと同時代ですから御所のどこかで出会うこともあったでしょう。彼は84歳の長寿を全うしますが,その前半生はなぞに包まれていて,正規の記録はありません。小説家やマンガ家の活躍するフィクションの世界です。ようやく40歳で「天文得業生」としてデビューします。これは優秀な天文生に与えられる称号です。52歳で天文博士となってからは多忙な業務をこなしていたようです。彼の本来の役目は天文現象を克明に記録し,日月食・彗星・流星など変わったことがあれば直ちに内裏へ奏上することです。「天変」に敏感な朝廷にとって重要な仕事でした。陰陽寮の天文分野では十数名のメンバーで観測当番をこなしていたそうですから,それだけでも相当大変な仕事だったでしょう。さらに昼の主な仕事は各種公式行事への参加,天皇・皇族・貴族のための占いや祈祷・・・などなどです。当時としては非常に長命で,晩年は藤原道長(966~1027)の信任が厚く,80歳で従四位下,82歳で大膳太夫・左京権太夫に任じられています。そして没年まで諸行事を行うなど現役として活動しています。あの世から「頑張れ60代,70代!」と叱咤激励されそうですね。

彼の天文博士在任中に起こった天変の中で,日付が確定しており最も有名なのが寛和2年6月22日(986年7月31日)の花山帝退位事件です。ころは平安中期,戦乱もなく死刑も行われず一見平和な時代でした。他氏を排撃し朝廷の高位高官を独占した藤原氏は陰謀による仲間同士の骨肉の争いをうち広げていきます。そして「乱」にも「変」にもよらず,摂関政治を確立していった総仕上げの事件がこれなのです。その経緯はすでにアキューム10,14号にも載せましたので繰り返しません。「花山コース」では詳しくお話ししています

「京大真如堂コース」で紹介するのは彼があの世から生き返ったという話です。吉田山の東に,いわゆる観光寺院ではありませんが真如堂というお寺があります。正式には鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)といい,真如堂とは本堂の名前で比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。寺伝によると永観2年(984)に戒算上人が,比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来を東三條女院(藤原詮子。円融天皇の女御・一條天皇母)の離宮があったこの地に移して安置したのが,真如堂の始まりと言われています。応仁の乱(1467~77)の時の戦火で堂塔は消失,ご本尊は比叡山の黒谷,滋賀県穴太(あのう),京都室町勘解由小路,一 条西洞院,京極今出川下る等々と転々と移転し,ようやく元禄6年(1693)に東山天皇,将軍綱吉の力により,再び旧地にもどり再建されました。現在では紅葉の名所として有名で,本堂もさることながら三重塔がきれいです。真如堂では,晴明紋の入ったお札も配られていて,そのお札の由緒書には,次のような話が書かれています。

晴明が死んで閻魔(えんま)大王の前に引きだされた時,彼がいつも信仰している不動明王が現れて「この者は寿命が来て死んだのではない。横死(おうし)(不慮の死)であるから再び娑婆へ返してほしい。」と頼みました。閻魔大王は承知して晴明に,「これはわが秘印で,現世では横死から救い,来世では往生がかなうものである。この印はお前一人のために渡すのではないから,娑婆に持ち帰ったら,この印を施して人々を導け。」と言いました。晴明がこれを受け取るとたちまち蘇生して,懐中を見るとこの金印がありました。 晴明はこの後,八十五歳まで生き,生涯この印を人々に施し,死後に,不動明王と蘇生の印は,真如堂に納められました。

このいきさつが【閻魔大王蘇生金印傳(えんまだいおうそせいきんいんでん)】に書かれています。

天文博士としての彼の諸業績は「明月記コース」で紹介しています。そのうちの最大の業績は皆既日食の記録でしょう。

『日本紀略六』に天延3年7月1日(975年8月10日)「空が墨のように暗くなり,多数の星が見え,鳥が乱れ飛んだ。」という内容の記録があります。明らかに皆既日食です。朝廷ではこのために大赦を行いました。白昼太陽が隠れるということはそれほどまでに忌々しき大事件だったのです。この日の日食皆既帯は中国・近畿・中部・関東まで広い範囲にわたり,西は中国,東はハワイまで伸びています。京都では6時52分に始まり,7時55分~58分の間皆既が見られたはずです。わが国最初の日食の記録は推古36年(628)のもので,その後も大日食は何度か観測されていますが,皆既日食の記録はこれが初めてです。天文博士に任じられて間もない54歳の晴明は実際に観測して,報告書を書いたのでしょう。その後,現在まで京都で見えた皆既日食は1742年と1852年の2回のみです。

ところで2009年の皆既日食は悪天候で見られませんでしたが,2012年5月21日には中国南部~日本列島~北太平洋~アメリカ西部という広い範囲にわたって金環食が見られます。金環食とは太陽が月に隠されて金の環が残る日食で,真っ暗にはなりません。

地球の軌道はほぼ円で,太陽―地球の距離,太陽の見かけの大きさは変わりません。ところが月の軌道はやや扁平なので月までの距離,月の見かけの大きさは約5%変動し,その距離の違いにより皆既食,金環食2種類の日食が起こります。

日食の起こる地点は西から東へ移動するので,香港では欠けたままの太陽が昇って早朝のうちに金環食が起こり7時過ぎには終わります。一方,アリゾナのフェニックスでは欠けたままの日の入りとなり,その日付は前日の20日です。地図において黄色線と青色線に挟まれた地域では金環食が,それ以外の地でも部分食が見られます。日本では南九州から関東まで太平洋沿岸は好条件ですが,朝7時半ころですから,東に海が望めるところ,志摩半島,駿河湾,房総半島などがオススメ地でしょう。

日食進行状況(札幌では部分食)
鹿児島 京都 東京 札幌
食の始め 6時12.8分 6時17.7分 6時19.0分 6時33.1分
金環食始め 7時20.1分 7時30.0分 7時32.0分  
食の最大 7時22.2分 7時30.6分 7時34.5分 7時49.8分
金環食終り 7時24.3分 7時31.2分 7時37.0分  
食の終り 8時42.4分 8時55.3分 9時02.6分 9時17.6分
最大食分 0.954 0.940 0.969 0.840

各地の日食進行状態は左表の通りで東京・横浜・静岡などでは金環食時間が5分も続きます。比叡山頂からは琵琶湖を眼下に黒い日輪が眺められるでしょう。

京都では6時半ころから8時半ころまで東山の上空で太陽が欠けていく様子が眺められるはずです。

京都で見られた金環食はこれまで3回で,今回は282年ぶりです。前回わが国で見られた金環食は1987年でしたが,金色の環が見えたのは沖縄だけでした。また関東東北では19世紀にも起こっていますが,近畿では1730年以来であり,名古屋岐阜では1080年以来の珍事です。その時の金環食は東北・北海道以外の各地で見られ,また金環食時間も6~8分でわが国史上最大規模でした。日食は毎年地球上のどこかで起こっていますが,ある特定地点に限るとずいぶん珍しい現象です。読者の皆様の中には昭和30年代に大きく欠けた太陽をご覧になった方もいらっしゃるでしょう。筆者には子供のころ,うす暗くなった校庭で見たような朧な記憶があります。これは1958年4月19日の金環食で種子島・屋久島でよく見えたそうです。この日の太陽を逃すと29年間も大日食は見られませんから,晴明さんに晴天を祈願しましょう。

京都で見られた金環食(1世紀~21世紀)
日付 金環開始 食分 継続時間
653年11月26日 08:05:57 0.918 1分56秒
1080年12月14日 12:19:37 0.923 8分29秒
1730年07年15日 14:50:48 0.947 3分43秒
2012年05月21日 07:29:46 0.938 1分37秒
2041年10月25日 09:05:16 0.940 2分58秒
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作花 一志
Kazuyuki Sakka
  • 京都情報大学院大学教授
  • 京都大学大学院理学研究科宇宙物理学専攻博士課程修了(宇宙物理学専攻)
  • 京都大学理学博士
    専門分野は古典文学,統計解析学。
  • 元京都大学理学部・総合人間学部講師,元京都コンピュータ学院鴨川校校長,元天文教育普及研究会編集委員長。

上記の肩書・経歴等はアキューム24号発刊当時のものです。