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Accumu Vol.4

情報とは・情報化社会とは

東京大学名誉教授

京都コンピュータ学院情報システム開発研究所所長

理学博士

小亀 淳

現代は情報化社会である,と言われ始めてから久しい。しかし,情報とは一体何で,情報化とは本当はどのような状態をいうのか,何を目的とするのか,明確に説明できる人はいまだに少ない。また,理解していると思っている人々の間でも,よく話し合ってみると食い違いが出ることを経験することも希ではない。

たまたま私の手元に東京大学公開講座(1970年秋)のまとめ,『情報』(東京大学出版会刊)があるが,「情報処理」・「情報科学」・「情報化社会」といった,今日流通している言葉はすでにその中に見られる。しかし,それぞれの分野での第一線級の研究者である当時の講師諸教授の,「情報」に対する定義は極めて慎重であり,むしろ個人的見解の段階として述べられている。20年を経た今日,「情報」の概念の理解と普及について,一定の進歩は見られるものの,情報化は「高度情報化」に変貌し,理解の程度が現実の変転に追い抜かれる様相は,以前とあまり変わっていないのではなかろうか。

いわゆる情報産業に関連を持つ企業が社運をかけ,それこそ『会社の盲目的意思』で,情報(処理)機器のハードウェア・ソフトウェアの開発や普及に熱中するのは,稼業であるから当然であるとしても,世の中がそれだけに踊らされているのではつまらない。そこでこんな風に理念付けてみてはどうであろうか。

まず,情報という概念を科学的に1,2行で,できるだけ正確かつ広範囲に定義しようと思えば,次のように言えるかもしれない。『情報とは,ある場所から他の場所に伝えられる有意味のすべての信号の内容をいう』

情報はよく知識と混同されるが,この定義によれば,知識は情報の整理された蓄積であって,例えばA氏の知識がその頭に貯蔵されているままでは,B氏の情報にはならないことは明瞭であろう。情報になるためには,「伝えられる,あるいは伝わる」過程が必須なのである。たとえその過程が自然現象にたよっていても。したがって,「情報」を考えるとき,『伝達』・『通信』は切り離すことのできない概念になる。

有意味の信号とは,送り手と受け手の間であらかじめ決められた規定を共有しているということで,文字・言語・記号・暗号・図形・音響・映像など,信号の形態・伝達の手段はなんでも構わない。「規定」も極めて広く想定してよい(例えば美的感覚や,一時代のパラダイムなどを含めてよい)。

よく,「なんでもかんでも『情報』?」と考え込まれるのも,実はほとんど正しい認識なのだが,範囲が広すぎて理解しにくいのである。情報の中には,価値あるもの,下らないもの,誤ったもの,などが混在することも当然で,受け手に選択力が要求される。

情報の定義が上記のようだとすれば(送り手と受け手が必ずしも人間である必要もなくなるのであるが),人間が2人以上いれば情報が必ず生まれる。3百万年も昔の猿人アウストラロピテクスの頃,すでに情報が活用され,また情報なしには,文明開化に繋がる人類の集団生活は営めなかったであろう。いわば情報は空気のようなもので,酸素なしには生命の維持ができないように,情報なしには社会生活が成り立たない筈である。

こんなに大事なものが,20世紀も後半になって急に大きく認識され始めたことが,人々を戸惑わせる。昭和30年代の国語辞書で「情報」を引けば,『事情のしらせ』とあるに過ぎなかった(広辞苑,広辞林その他)。英語のインフォーメーションを英英辞典で調べても,同じようなものである。「報知」,「案内」,せいぜい「諜報」がそのすべてといえる。しかし,それだけでなぜいけないのか?

ここで20世紀最大の発明の一つ,コンピュータにご出馬願わねばならない。コンピュータは文字通り「計算の手順を自動的に遂行させる」ために考え出された道具であるが,『計算』より『手順の自動化』の方に着目すれば,この道具がほとんどの事務処理に応用できることは明らかである。なんとなれば,事務処理(実は情報処理なのだが)の大部分は,決まった手順の組み合わせと繰り返しから成っているからである。しかも,人間のあらゆる仕事につきまとう。コンピュータの普及が社会全般にわたるのも当然である。

自然科学の基礎研究や,その応用技術と製品開発などにコンピュータが取り込まれるのは無論のこと,情報処理・情報伝達機器がオフイスや家庭内に,手を替え品を替え,陰に陽に,入り込んで普及をとげる社会が,第一段階(フェーズⅠ)の情報化社会としよう。

注目すべきことは,人手に頼っていた仕事の手順を,コンピュータにそのまま肩代わりさせ,より速く,正確に業務を処理するだけに止まらない事実である。

一例を取り上げてみよう。人間の能力の限界の一つに,あまり多くの対象を一度に処理しきれないことがある。逐次に処理すればよい場合を除いて,例えば,株価変動の予測のように,個々に特性を持つ多くの事象(ファクター)の絡み合いをにらんで,全体としての動向を見定めるような仕事がそれである。一般に過去と現状を見て将来を予測しようとすれば,多かれ少なかれこの種の分析が必要だが,そのために使える道具がなかった時代は,『秘策的ノウハウ』・『勘を働かす』などと言われる手段で見通しを立てた。当然,誰もができることではない。

『勘』のなかには,まったく根拠のないヤマカンも多いが,必ずしもすべてが非科学的ではないであろう。ある人の記憶の中に存在する過去の知識・経験のなかから,関連のありそうな事柄が即座に,しかも予想外に多数脳裏に用意され,無自覚のうちにそれらの相互関連が検討された後,総合的な推測判断に自然到達するといった過程も十分ありうる。勘の鋭い人とは,このような脳の働かせ方に熟練している人物であろう。

多数のファクターを扱って迅速に処理することにかけては,コンピュータに勝るものはない。問題は『秘策』や『勘』のアルゴリズムを,人間自身が解く(疑似的にでもよい)ことにあり,それさえできればあとの処理は,すばやさと忠実さだけが取り柄のような,現代ノイマン式コンピュータにも任せられる。つまり,逆に言えば,従来人力では実行不能だった情報処理のソフィスティケートなアルゴリズムが,①膨大なデータ(情報の集積)を使い,②複雑な処理法を厭わず,③超人的迅速さで,コンピュータによって遂行され,より確度の高い,したがって付加価値の高い情報加工の「産物」が,④もっともわかりやすい表示方式で,得られる時代に入ったのである。

「産物」が意外な『新知識』や『予測』の獲得に繋がるものであれば,人間は計り知れない収穫を手に入れたことになる。各分野でのこれらの積み重ねが,社会全体の進路に甚大な影響を与え,新しい社会レベルの構築に繋がるであろうことは,十分予測される。これこそ,20世紀後半を生きるわれわれ人類に与えられた,願ってもない文明飛躍へのキーファクターと認識すべきであり,目指す構築目標を『高度情報化社会』と呼ぼう,というわけである。

『秘策』や『勘』を取り上げて説明したことは,ほんの一例に過ぎない。アルゴリズムはわかっていても人力ではとても解けそうにない多くの問題が,コンピュータの高速処理性を利用して初めて解決されるようになった。実物をいちいち造って比較していては,予算と時間の間尺に合わないことが,シミュレーションという手法で,コンピュータに心ゆくまで試行させられるなど,多くの創造に繋がる仕事が支援されている。しかも,楽観は禁物だが,すばらしいことにコンピュータの進歩はまだまだ期待できそうである。そのうち『超高度情報化社会』という言葉にも,お目に懸かれるかもしれない。

無論,情報処理機としてのコンピュータだけが,情報化社会の中枢的基盤構造(インフラストラクチャー)を造るのではない。先にも述べたように,情報伝達の技術=通信は情報の命であり,通信技術の進歩による画期的情報通信網の構築も,また不可欠な要素の一つである。例えば,静止衛星や軌道衛星を含む,グローバルな地球規模での音声・映像の通信ネットワークが,いかに人民・民族・政治家を動かし,思想や国家形態にまで重大な影響を与えるものかを,われわれはすでに目(ま)のあたりに経験した。これも,情報化社会の成果,と言って言い過ぎならば,情報化社会によって加速された結果である。

情報化社会の道具だては,甚だバラエティに富んでいる。あらゆる技術革新の成果がごく短期間の後に製品に応用され,企業・家庭に入ってくる。OA機器を始め,欲しい情報を即座に正しく得られる,または与えるための,多くの組織・方策・考案・製品のすべても,道具だての一部を成す。しかし,道具だてに幻惑され,道具揃えそのものが情報化社会の目的であると誤認すべきではない。この段階はまだフェーズⅠに過ぎない。

道具だての充実は,それだけで一つの『文明の達成』であるが,目指すべきは,20世紀後半から手にした道具だてを駆使して,これらの活用なしには不可能な,新『文化の創造』にあることを強調したい。これが情報化社会の第二段階(フェーズⅡ)である。

フェーズⅠとⅡの境界は明確でなく,ⅠのなかでⅡが生まれ始め,Ⅱの段階でⅠも成長を続けると思われる。しかし,現在はなおフェーズⅠにとどまっているように,私には思える。しかも現代の世界は,「規範の喪失」・「目標の喪失」,加えて「地球規模の環境危機」のにおいがある。このままではやがて人類の「自信の喪失」にも繋がり兼ねない。あるいはこれは,20世紀の世紀末病なのであろうか。

21世紀の幕開けに向け,フェーズⅡへの胎動を,意図を持って開始すべきときが来ているのではないか。その認識に先進国の全員が目覚めるべきではないか。

文化の創造は,知的活動のなかでもっとも高いレベルの精神的成果である。そして,少数の先覚者の誕生だけでは文化は育たない。同時代の社会人の平均的知的レベルが,一定の高さを持つ必要がある。進んだ情報化社会では,ルーチン的な仕事はすべて,機械がやってくれるように,必ずなる。人々は『頭を働かせる,考える,判断する,創造する』こと,つまりは知性の活動を仕事とするほかない。少なくともそうした自覚を持ち,次世代に希望と覚悟を伝えなくてはならない。

20世紀までの文化は,地域的・民族的なものがほとんどだった。しかし,地球的規模で情報ネットワークが構築されるこれからの文化は,全人類の共存共栄・恒久平和の確立・地球環境保全のなかの繁栄/生存が織り込まれた,グローバルなものをこそ目指すべきであろう。フェーズⅡの社会構築の人類共通の目標は,特色あるローカルな文化に加え,『地球文化』とでもいうべきスーパーニューカルチャー創造に置くべきであろう。一国・一民族・一イデオロギーの世界制覇などは,幼き人類の進歩過程の初歩だったと,誰もが思う文化に到達してほしいものである。高度情報化社会100年の成果が見たい。

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小亀 淳
Jun Kokame
  • 東京大学名誉教授
  • 理学博士
  • 1947年京都大学理学部物理学科卒業
  • 京都大学科学研究所研究員,京都大学助手(化学研究所),東京大学助教授(原子核研究所),東京大学教授(同),国士舘大学教授(情報科学センター)を歴任
  • 元・京都コンピュータ学院情報システム開発研究所所長

上記の肩書・経歴等はアキューム18号発刊当時のものです。