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Accumu Vol.10

初代学院長の思い出

京都コンピュータ学院就職進路部次長 中川 由美

初代学院長の思い出

大学の学生課の掲示板に貼り出された求人票。それが,京都コンピュータ学院,そして初代学院長長谷川繁雄先生との出会いのきっかけでした。小学生の頃から「先生」という職業に憧れ,先生になりたいという思いをずっと抱いていたこともあって,即,京都コンピュータ学院の門を叩いたのでした。

1978年春,学院の職員として入校した私は,新しく開校したばかりの出町校舎(現鴨川校)に配属されました。一緒に配属になった10名ほどの職員は私と同じ新人職員かそれに近い人たちばかりで,指示してくれる先輩はありません。開校したばかりの校舎には,コンピュータを勉強するため,全国から集まった学生たちがぞくぞくと登校してきます。何をどうしたらよいのか,分からないことばかりでしたが,とにかく,新米職員だけで試行錯誤しながら,毎日目の前の仕事を処理するのに必死でした。今では考えられないことですが,当時学院の内部的な処理は全部手作業でしたので,その作業量は膨大で,定時で帰れることはほとんどありませんでした。しかも,学院は,私がそれまで経験した中で抱いていた「学校」というものとまったく異なるものでしたので,戸惑うことも多く,こんな状況で仕事を続けていけるのだろうか,という不安ばかりがつのっていきました。

そんな時,先生が校舎へ来られ,私たちにおっしゃったのです。「新しい学校をみんなで創っていくのだ」と。先生は教育制度の矛盾や理想とする「新しい学校創り」について熱っぽく語られ,理想の学校をみんなで創っていくのだと目を輝かせながら話されたのです。その後も,先生は学校創りに対する情熱的なお話をよくされました。そういうお話を聞くうちに,できあがった中へ据えられ,指示されるとおりに仕事をするのではなく,自分たちで考え,工夫して仕事をしていくことがかえって楽しく感じられるようになりました。何より自分たちが学校を創っていくのだということに,誇りとやりがいを感じられることが素晴らしく,仕事が楽しくなっていったのです。指示してくれる先輩がいないことの不安や,それまで私が思っていた「学校」とまったく違う学院の環境への戸惑いが徐々に消え,自分たちが学院長と一緒に学校を創っていくのだということに意欲とやり甲斐を感じるようになり,忙しくはあっても充実した日々に変わっていったのです。

先生直々に校舎へ来られることは珍しくなく,いつも「やぁ,ご苦労さん,ご苦労さん」とみんなに声をかけながら入ってこられます。前ぶれもなく突然来られては,学生や校舎がどういう状況なのかをまず聞かれ,問題点を指摘し,対応策を指示されます。校舎へ来られないときには,必ず電話がありました。対外的な仕事がずいぶん忙しく,時間が無いように思われるのに,現場の状況にも常に目を行き届かせておくという感じでした。

学生の出席状況も気にかけておられることの一つでした。当時は地方から出てきて下宿している学生がずいぶん多かったのです。そのため,学生の生活状況を心配され,欠席が続いたときには,なぜ休んでいるのか,その学生の状況をきちんと把握するようにしなさいと言われました。下宿で一人病気で寝込んでいるかもしれない。そうしたら,心細いだろうから様子を見に行ってあげないといけない。何か問題を抱えているのなら,相談に来させなさい,など「一人一人の学生のことを親身になって考えるように」と教えられました。このことは,私が,今も,学校で仕事をする人間として,常に心がけていることです。

先生からは,自分が担当している仕事以外のことを聞かれることも多かったのですが,「(担当でないので)分かりません」と答えると怒られたものです。一つの仕事はそれだけが独立して存在するのではなくて,他の仕事との関わりが必ずある。自分の仕事以外のことにも常に関心を持ち,何がどういうふうに処理されているのか,どういう状況なのか,別の仕事へどういう関わりがあるのかを把握しておくこと,そして不都合な点については一緒に改善していく姿勢を持つように言われたのです。仕事の指示はたいへん具体的でしたし,同時に,その仕事がどういう意味をもっているのか,また,なぜそういうことをするのかといったことまで説明されました。どうしてもお話が長くなる(電話で1時間というのも珍しくない)ので困ることもありましたが,何も分からない私にとっては仕事をしていく上での考え方や判断という点で,たいへん勉強になりました。

新人職員からみれば,「学院長」といえば,偉い立場にあって遠い存在のように思うはずなのですが,先生は私にとって,とても身近に感じられる存在でした。それは,いつも先生と一緒に仕事をしているという実感があったからです。仕事の指示をするというよりは,仕事を通じて物の見方や考え方など,さまざまなことを教え育てていくという風な接し方を先生がされたからかもしれません。学院を卒業して職員になった人が多かったこともあってか,先生にとっては職員も教え子だったのでしょう。幼稚園以来,多くの先生にお世話になりましたが,自分自身の物の見方や価値観の形成で一番大きな影響を受けたのが前学院長だと思います。

先生は,思想・宗教などによる差別や,それまでの学校教育の中で受けた評価による差別を教育面に持ち込まないことを信念にしておられましたが,職場においても,性別による差別が一切ありませんでした。今でこそ男女雇用機会均等法なるものもでき,女性が仕事をしていく上で男性と同等の扱いをすることが当然という時代になってきていますが,当時は仕事の内容や昇給・昇格において,男女差があることは珍しくありませんでした。そんな時代に,学院では女性であることによる仕事上の差別や昇給・昇格における男女差はありませんでした。このことは,やる気のある女子職員にとって,幸運なことでした。

女性だからという逃げの姿勢をもたず,前向きに仕事に取り組んでいれば,差別無く評価されたのです。仕事をする女性に対する評価については,前学院長だけでなく,現学院長である靖子先生が,女性が仕事を続けていくことを支援してくださったことも大きかったのだと思います。男女差別の強かった時代から前学院長と共に第一線で仕事をしてこられた靖子先生を通して,前学院長が女性の可能性に目を向けられたのかもしれません。前学院長と靖子先生から,「結婚しても,子供ができても,仕事辞めたらあかんよ」と言っていただいたことは,今も忘れられません。

男女雇用機会均等法が施行,改正されても,女性の受け入れに積極的とは言えない企業がまだまだあります。機会均等を求めるのなら,男性と同じように働いてもらわないと困るということなのです。女性の仕事に対する姿勢に問題がある場合もありますが,企業は,同じ働き方を求めるだけでなく,女性が結婚しても子供ができても働ける環境を作る努力をすることも必要なのではないでしょうか。

先生のもとで仕事をした8年間,先生から受けた数々の教えは,私の職員生活の大きな支えでした。今,あらためて先生が残してくださったものの大きさを実感しています。そして,「どんな人も,不合理な差別を受けることの無い場」=京都コンピュータ学院で,仕事をしてこられたことに感謝しています。

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中川 由美
Yumi Nakagawa
  • 京都コンピュータ学院就職進路部次長

上記の肩書・経歴等はアキューム10号発刊当時のものです。