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Accumu Vol.5

卒業生紹介 学院スピリッツ

堀正憲氏

本年は,学院創立30周年にあたる。この間,実に様々な人達が学院で学び,巣立っていった。そんな多彩な顔ぶれの中から,今回は,ほとんどの卒業生の先輩である堀正憲氏を紹介しよう。堀氏は,1972年に本学院を卒業。現在,日本システム技術株式会社大阪本部営業部の営業部長である。

30周年でもあり,今回は是非,卒業生を支える学院スピリッツのルーツを探りたい。そこで,大先輩である堀氏に,色々お話をお聞きしたい。堀氏は,そんな本誌の願いを快く聞き入れてくださり,お忙しい合間をぬって,京都駅前校舎へ駆けつけてくださった。

堀氏が,本学院に入学したのは,1970年である。高校卒業をひかえ,進路を模索していた堀氏は,ある時,京都工芸繊維大学にいっていた先輩からきれいな文字が書かれている紙を見せられた。何ときれいな字やろう。四角い枡の中にぴったり納まってしまうような整然とした文字,それを見た堀氏は,とても感動したそうである。「これいったい何?」堀氏は,それに見とれながら先輩に聞いた。「コンピュータで打ち出した文字や」。こんなきれいな文字が書けるコンピュータっていうのはどんな秘密をもってるんだろう? コンピュータっていうのは,ひょっとしたらおもしろいんかな? その日から堀氏の頭の中は,コンピュータでいっぱいになった。堀氏が,京都コンピュータ学院の門をたたいたのは,こんなことがきっかけになったのだそうである。

「コンピュータの勉強は,最高におもしろかったですね。毎日が,新しいことばかりで,え,なんで? え,え,・・? と思うことの連続でした。もう感動の連続」と堀氏は言う。

今では,コンピュータのない世界をイメージする方が難しい程であるが,当時は,全く逆である。一般では,コンピュータを応用した世の中など想像もつかない時代だ。実習機器に毎日触れられる環境なとあるはずもない。「みんなは今幸せやと思うんですよ。触れる機械がたくさんあるから。僕らの時は,いつでも触れるマシンなんてなかったんですから。だから,ほとんど理論だけ。フローチャートを書いて,プログラムを書いて,というところまででした。日常,自分の作ったプログラムを実機にかけて,試すことなんてなかったですよ。自分で作ったプログラムは,とにかく貯めておくんです。そうすると,1年に2回ほど,TOSBAC40とかHITAC10とかが学院に運ばれてくる時期がありましたから,その時に,貯めておいたものを全部,集中して,それらにかけるんです。その時は,それこそ三日三晩一睡もせす,それだけをやりましたね。当時は,マシンがくるなんていうと,マシンてどんなもんかと,もう目の色が変わってて,マシンがくる前には,マニュアルを読みあさりました。だからマシンがきた時には,みんなすぐ使えましたよ。もうみんな,泊まり込みで,寝ないで,フルに活用してました」と当時の実習について,堀氏は振り返る。

堀氏の話を聞いていると,当時の様子が生き生きと伝わってくる。学院はまるで,体育系クラブの合宿のようなものだったのではないだろうか? そう,堀氏に問いかけると「そう,正しく,そんな感じですよ。学生間で,すごい団結力があって,先生とも活発にコミュニケーションしてました。学院全体が,クラブのような同好会のような合宿のような感じでね。いろんな土地の出身者がいて,いろんな年齢の人がいて,会社の人もたくさん来てました。みんなでよく遊びましたよ。鞍馬に遊びに行ったり,朝まで音楽聴いたり,早朝ボーリングしたり,ほとんど家に帰らすに,友達の下宿に泊まってました。みんなそれぞれポリシーをもっていて,夢をもっていて,こんな環境が,ものすごく自分自身の視野を広げましたね。いろんなことを考えて,夢と現実とを区別して,自分の可能性を決まりきったところで見切ってしまう,なんてことは,全くなかったですよ。何もかもひっくるめて,グローバルに,どれもこれも可能性として考えてました。そして,自分は何ができるんやろ?自分に一番合ったものは何やろ? ということがいつも頭にありましたね。学院での2年間は自分自身を試す,調べる,そんな2年間として位置づけてました。今のように就職のための手段という意識など全くなかったですよ」。このように語る堀氏は,学院というところを「人生の上での一つのクッションのようなところだった」と言う。

クッション。今こんなところがあるだろうか。全ての場所は,次の場所への手段となり,やること成すこと全部がシェイプアップされ,どの場所でも無駄なことは,いっさいしない。それか正解だ,という世の中では,そんな場所など皆無だろう。あったとしたって,誰も見向きもしないのではないだろうか。堀氏が学生だった頃,専門学校は,今のように進学先の一つとして社会からしっかりと認知されていることも,卒業後の行き先がはっきりと示されていることもなかった。ある意味で不安な,曖昧な場所だったはずである。そんな中で,学院は,きっと,不安定で,行く先不明なようでいて,すごく何かを期待させる,妙な,不思議な,羊水の中のような空間だったのだろう。堀氏の話はそんなイメージをわかせる。

こういった中で,堀氏のたくましいスピリッツは培われた。自分で枠組みをこしらえていく,居場所とか,意義とかをしつらえていくスピリッツだ。こんなスピリッツの持ち主は,自身の今現在が,どこにつなかっているか不明であっても絶対動じない。あらかじめ用意された枠組みに上手に納まることばかりを考え,行動し,いったん納まりきれないとなると,行き場がないとか,真っ暗闇だとか言って,もうだめだ,なんて思ってしまうことなど絶対ない。

学院を卒業する前,前学院長から「どや,(学院に)残らへんか」と言われた堀氏は,「僕はここで教えてもらったことが,社会でどれだけ通用するか,自らで確かめたい」そう言って,社会に出た。「課長試験を受けた時,新しい分野を開拓しないといかん,何か新しいものを見つけないといかん,という内容の論文を書いたんですよ。そしたら,会社から『お前,何か新しいこと見つけろ。部下5人わたすから,それで自分で部署作ってやってみろ』とこう言われましてね」。堀氏は,コンピュータの本来的活用を目指し,コンピュータ制御を扱う部門を作り,軌道に乗せてしまった。自分で発見して,自分でその意義をアピールして,自分で具現化する。例のスピリッツが本領を発揮したのだ。

今,堀氏の下には卒業生がたくさん働いている。時代か変わるにつれ,卒業生も変わってきた。堀氏の時と比べると「考え,行動,経験,いろんな面においてバラエティーがなくなってきている」という。今,そんな後輩達を育てようと懸命に指導しているのだそうだ。堀氏は言う。「靖子先生は,学校での教育担当。僕は,社会での,実地での教育担当」。堀氏は,体得した学院の心髄を社会という場で,後輩に伝授しようというのである。堀氏は,言わば,学院の師範なのだ。

「学生は,金太郎飴化してきていますね。もっと自分の個性を表に出せるように育ってきてほしい。人間の幅を広げ,大胆さを身につけてほしい。勉強せなあかんと思った時は,めいっぱい勉強し,遊ぶ時は,めいっぱい遊んでほしい。中途半端は最低。なんでも,とことんやってください」。堀氏から後輩へのアドバイスである。

堀さんの世代を一言で表現するとしたら?

最後にこんな質問をしてみた。即応答があった。

「野武士ですよ。『七人の侍』っていう映画があったでしょ。まさにあんな感じ」。

学院生よ,校友よ,野武士たれ。