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Accumu Vol.21

企業雑記

京都情報大学院大学 准教授 立石 聡明

1995年は大きな事件がいくつも起こった年でした。

年初早々に起こった阪神淡路大震災。その時は徳島県小松島市という私の実家のある港町で暮らしており,地震発生時は自宅の本棚を押さえておりました。もちろん震源地からは遠いため被害はなかったのですが。

また,その3月には,今なお後遺症等に苦しんでおられる方もたくさんいらっしゃるオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こりました。

実は,この年の10月1日に徳島で最初のインターネットサービスプロバイダー(以下ISP)としてサービスを開始しました。この年に徳島でサービスを開始したのは弊社だけでした。

そもそもの話の発端は1994年の年末ぐらいに,私の先輩が「インターネットって何だ?」と聞いてきたことがきっかけでした。彼は徳島市内で英会話スクールを始めるにあたり,校長としてアメリカ人の先生を招聘していました。その方はアメリカの大手新聞や雑誌に記事を書いていたジャーナリストでもあったため,すでにインターネットを利用しており,e-mailで原稿を送ったりしていたのです。その方が徳島に来るにあたり,インターネットが使いたいとおっしゃっていたため,それがいったいどういうものか知りたくて私に問い合わせてきたのでした。私自身は1985年からパソコン通信を利用していたもののインターネットは利用したことがなく,想像の世界でしかありませんでした。

そこで,友人に聞いたりあちこち調べてみると,パソコン通信同様PCにモデムを接続しアクセスポイントへ電話をかけて通信を行うのだが,画像や音声等も簡単に見たり聞いたりすることができる。パソコン通信と違って,httpプロトコルであればインターネットに接続されているホストへは,すべて接続することができる,というものでした。特に「どのホストへも接続することができる」ということが実際には信じられませんでした(パソコン通信では,各々のホストに接続申請しなければできない上に,回線も原則それぞれ別でした)。95年の後半は,このことが非常に話題になり,ホワイトハウス(当時はクリントン大統領)の猫の鳴き声をインターネット経由で聞くことができるとマスコミでも話題になりました。

また,当時は徳島県内といわず四国内に接続ポイントがないため,一番近いところで神戸か大阪へ電話をかけることになります。最近のように長距離の通話が割り引かれるような制度は殆ど無かったため(長距離専門の会社が出始めた頃でした),既にインターネットを利用している人の話では,月に6万~10万円をNTTに電話料金として支払っており,その上プロバイダー料金が月額2万円かかると言うことでした。となると年間で100万円を超える出費。さすがにそれは無理と言うことで,95年の4月当時すでにISPを行っていた,富士通系のInfoWeb,NEC系のMesh,独立系のRimNetなどに電話をかけて,徳島にはいつごろアクセスポイントを作るのか尋ねたところ,全社同じ答えで,「1年以降2年以内」でした。

それでは余りに時間がかかると言うことで引き続き調べていたところ,ISPというのは誰でもやることができる,特に既存の通信事業者である必要は無く法人格を持って第2種という電気通信事業者(後にこの制度は廃止)になればいいという事を教えてもらい,それでは,ということでその年の8月に会社を設立しました。会社といっても社員がいるわけでもなく,十分な資金があるわけでもありません。その当時の会社法では,株式会社は資本金が1000万円以上ですので,資本金が500万円しかないため「有限会社」で登記しました。今となっては新たに有限会社を設立できませんので,未だに「有限会社」のままで通しています。

会社を設立したものの右も左もわかりません。たまたま大学は商学部でしたので簡単な貸借対照表などの財務諸表はわかります。が,設立のための定款づくりや会社の基本的な書類や,価格設定などはいろいろな方々の力をお借りしてようやく形になりました。

しかし,一番困ったのが肝心なインターネットのバックボーンでした。そもそもインターネットの回線が徳島には全く来ておらず,かなりの数を当たりましたが全くと言っていいほど相手にされませんでした。10月開通目標にしていたため余り時間もありませんでしたが,当時のInfoWeb(富士通徳島)さんが9月中に回線を用意して下さることになり,結論から申し上げますと,開通したのは9月30日の夕方,明日からサービス開始という前日でした。この回線は,今となっては信じられませんが,128KBPSでした。

徳島で95年中にインターネットのサービスを開通させたのが弊社だけであったことや,非常に物珍しいものであったので,地元の新聞,雑誌やテレビ・ラジオが何度も取り上げてくれましたので,広告などしなくてもこの分野に興味のある方には知って頂くことができ,17年経過した今でも当時のことを覚えていて下さるお客様もいらっしゃいます。

さて,話は前後しますがこのサービス名,「マンダラネット」について少し説明いたします。もともと社名は「マンダラネット」ではなく「であいネット」でした。この社名は私が考えたわけではなく先に出てきた先輩(本職は住職)が勝手につけたものでした。確か7‐8年は社名として使っており,「マンダラネット」はサービス名称として使っていたのですが,ご存じのようにいわゆる「出会い系サイト」がどんどん生まれ社会的な問題となり,かつ,これを規制する法律まで誕生するような時代になりましたので,さすがに社名をサービス名称であった「マンダラネット」に変更しました。では,何故「マンダラネット」なのか,ですが。冒頭に書いたとおり95年はオウムのサリン事件の年です。あの事件がすでに3月に起こっていたためかなり悩みました。しかし,せっかく四国の徳島でサービスを開始するのだから地元に因んだ名前にしたい。といっても,有名なものと言えば「阿波踊り」と「すだち」ぐらい。「すだちネット」というのはあまりにも変。しかし,あの事件の後で「マンダラ」という言葉もどうかと…

なぜこのサービスを思ったのかも考えるべきだと。1985年にパソコン通信を始めたその時その瞬間を今でも覚えていますが,とにかく感動しました。何故か。当時はパソコンを持っている人は100人に1人以下。学生であったこともありソフトも買えず,当時はN88ベーシックというプログラム言語で簡単なプログラムを作って遊ぶのがやっとでした。何時間パソコンに向かっていても,画面に表示される文字は自分の入力した文字だけ。それが普通の環境でしたので,それで不自由だとはそれほども思いもしませんでした。しかし,当時下宿のあった東京杉並区荻窪駅近くの本屋で,「パソコン通信」という電話帳のような(まだ,この比喩がわかる人が多いことを願います)本を買い,読みふけりました。電気通信事業法が大幅に改正されて「モデム」というものを電話回線につないでもよいことになりました。そこで指定された電話番号へ「ATコマンド」というコマンドで電話をかけ,IDとパスワードを入力すると通信が始まり,情報をやり取りすることができる。アマチュア無線の免許も人と交信できることのおもしろさから資格を取ったのですが,パソコンだとデータのやり取りができるらしい。そしてその年の冬休みに家庭教師で稼いだアルバイト代を手に秋葉原へと向かったのでした。

当時は,300BPSが主流で,やっと1200BPSが出始めた頃でした。まだ,少し高かったのですが思い切って1200BPSのAIWA製のモデムを買い,下宿に帰ってPCとシリアルケーブルで接続。(シリアルポートも今のノートパソコンにはなくなりましたが)ATコマンドでダイヤルすると,ファックスを送信するときに聞こえるあの「ピ~,ギャー」が聞こえてきて来ます。モデム同士のネゴシエーションが終わると,あらかじめASCIIネットに申し込んでもらっていたIDとパスワードを入力します。そうするとASCIIネットのメニューが現れて,番号で選択していくと自分のパソコンのモニターに,BBS(これも死語か?掲示板のことです)などに,他人が書き込んだ内容が表示されるではありませんか!今の携帯電話やスマートフォンに慣れ親しんだ方には当然のことで何がおもしろいのかわからないと思いますが,当時,自分の打った文字しか出てこない画面に他人の入力した文字が表示されることは,本当に感動ものでした。その時,これは日本中,世界中に広まると実感しました。ただ,まさか自分が通信事業をするようになるとは想像もできませんでしたが。その後,徳島に帰って通信とは関係のない職業に就いていましたが,このパソコン通信の恩恵は大きく受けていました。90年代前半は,手紙を出しても東京から徳島へは2,3日かかりました。それに比べてパソコン通信の仲間とは瞬時に電子メールが届きます。手紙だと一週間に一回往復が精一杯なのにパソコン通信だと日に何度も。それも市内通話料金と少しのパソコン通信料(電話代とほぼ同じぐらいでした)。また当時の私にとって最も便利だった事の一つは周辺機器のデバイスドライバを通信で,その瞬間に手に入れることができることでした。当時は,OSが変わったりするとプリンタドライバを手に入れるために,返信用封筒と2000円分ぐらい(ものによって異なります)の切手を入れた手紙をメーカに送り,フロッピーディスクが返送されるのを待たなければいけませんでした。

そんな状況ですから通信で瞬間的に手に入るのはまさに革命的でした。その時思ったことは,「今はかなり特殊な分野においてしか活用されていないが,やがて他のデジタル化可能な情報は通信を伝って入ってくる。都会とか田舎とか関係なくなる。逆に情報発信をしなければ,他の地域との格差がむしろ生まれるのではないか。テレビなどのマスメディアは日本をある意味で均一化していたが,パソコン通信等,「個」のメディアは逆の効果をもたらすかもしれない」ということでした。しかし,先に書いたように,アクセスポイントがないような地域では,前提条件すら整わず情報発信どころか情報の入手もできないではないかと考え,そのためにISPを始めようしたことを再度認識し,「情報発信するためにはこれらに慣れ親しむ必要がある。そして発信する際には,やはり独自性がなければいけない。そのためにサービス名称をつけるとしたら」,そう考えました。そこで出てきたのが「曼荼羅」です。京都の方は比較的なじみがあると思いますが,一般的な日本人にはなじみが薄いです。しかし,徳島は真言宗が多く,且つ「遍路」とその「接待」という文化があり,それは唐から曼荼羅などの宝物を持ち帰った空海とは非常に密接な関係があり,私も子供の頃から「御大師さん」として慣れ親しんできました。しかし,これをサービス名称にするとなると,先のオウム真理教の事件の事が気になります。

ここで,2つのことが私の背中を押してくれました。一つは例のアメリカ人の英会話の先生。彼が言うには,西洋の知識人はみんな「Mandala」とう言葉を知っているということ。もう一つは,知り合いの画商さんの提案でした。この画商さんは高知の方なのですがチベットの曼荼羅を日本で数多く取り扱われています。彼の話では,チベットのダライラマが亡命する際に幾多の曼荼羅を持って国を出たのだが,亡命先での資金に困り手放すことになったそうです。この曼荼羅には美術的にも非常に価値の高いものも多いため高値で売ることができました。当時の日本はまだバブルの最中であったため日本へ数多くのチベット曼荼羅が入ってきているそうですが,普通に売ってしまうとその曼荼羅の所有者が転々として所在がわからなくなります。そこで彼は,自分の取り扱った曼荼羅の写真を撮影して版権を押さえ,その分購入者には安めに売ったそうです。そうすることで,またチベットが国を興す際には,世界中に散在している曼荼羅をチベットに戻すことができると考え,その通りにされました。その画商さんに今度ISPをするのだという話をした際,彼は私に「チベットへメリットがあることをするのであれば,私の持っている曼荼羅の絵の写真を貸してあげるよ」と言ってくれたのです。当時,ISPの名称は「○○○通信」とかの堅い名前ではなく,おもしろい名前のものが多かったのですが,奇をてらったものが多いように感じていました。しかし,この提案があれば根拠のある名前になる,という自信が持てたので思い切ってこの名称にしました。この考え方は正しかったようで,17年以上経った今でもその当時利用して頂いた方には覚えて頂いておりますし,未だにこのドメイン名の付いたメールアドレスがいい,といって利用して頂いているユーザもいらっしゃいます。勿論,新興宗教と間違う方もいらっしゃいましたが,そういった誤解はほんのわずかでした。

こんな感じで,1995年10月1日。綱渡り的にサービスインしたのですが,それからが大変でした。Windows95が発売される直前ですから,その時はWindows3.1のDOS/V互換機(この表現もしなくなりました)か,AppleのMacintoshです。Windows3.1はOSにTCP/IPが搭載されていなかったので,Winsockというものを入れなければ接続できません。しかし,またこれが非常にわかりにくく,パソコンを使い始めたばかりの人に扱える代物ではありませんでした。まだその頃はAppleの機械の方がましでしたが,それでもシリアルポートに初期不良が多く,これもかなり使い込んだ人で無ければ解決できないような問題が山積していました。ISPサービスを初めてもどれほどの反応があるかわからないといったことや,そもそもパソコンの知識,ましてやインターネットの知識が殆ど無い(自分自身も含めて)人が多いと考えたので,開業当初からパソコン教室,といってもインターネットの利用方法が主な講習内容ですが,を始めました。これはそれなりに効果もありました。インターネットに関連する書籍・雑誌も殆ど無く,たまにテレビ等で特集番組が組まれて噂にはなっているがどんなものかわからない方には好評でした。しかし,接続できないというトラブルは毎日毎日何軒も発生していました。そこで,電話の対応ではすぐに終わらないと判断したお客様のところへは自宅までお邪魔し,その場で設定することにしました。200件近くの会社やご自宅へお邪魔したと思います。徳島県内はどんな山奥へでも行きましたし,香川県でも比較的近いところへは行って設定しました(現在のADSLやFTTHと根本的に接続形式が違い,アクセスポイントへ電話をする方式なので,県外は基本的にありませんでした)。それも無料で。単にお金がかかるとお客が減少するということではなく,この当時インターネットを始める人は,いわゆるアーリーアダプタですから,それなりに知識があります。「全くの素人」という方は少なかったです。なので,この方達に基本的なことを教えると,後はこの人たちが広めてくれるということが,最初のひと月ぐらいでわかってきたからです。また,お客さん宅で設定しながらお話を聞くことで,徳島の「情報化」に対する実態のようなものも見えてきました。もちろん,統計的に処理するような時間もなかったのであくまで肌感覚ですが,かなりその当時役に立ったことは覚えており,今でも「現場を持つ」ことは大切にしています(単に離れられない,とも思いますが)。

こんな感じで,ISP起業を思い立って1年が過ぎ去りました。現在では接続方法も通信速度も当時では考えられないような世界になり,遠い昔のことのように感じられますが,まだ20年も経っていないのです。今でも当時のサーバ室のラックに並ぶ受信用のモデムの点滅する明かりが目に焼き付いており,モデムが受信を開始すると,お客様の誰かが通信を始めたんだなぁと,思いながら見ていたことを思い出します。

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立石 聡明
Toshiaki Tateishi
  • 京都情報大学院大学 准教授
  • 早稲田大学商学部卒
  • 有限会社マンダラネット代表取締役
  • 社団法人日本インターネットプロバイダー協会副会長兼専務理事
  • 特定非営利活動法人地域間高速ネットワーク機構理事長
  • 株式会社インターネットインテリジェンス沖縄代表取締役
  • Eメール・ウェブ適正利用推進協議会理事

上記の肩書・経歴等はアキューム21号発刊当時のものです。