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Accumu Vol.9

上野季夫先生と輻射輸達論の五十年

向井 苑生

写真1 論文執筆中の上野先生(京都コンピュータ学院情報科学研究所にて)
写真1 論文執筆中の上野先生
(京都コンピュータ学院情報科学研究所にて)

上野先生にご指導いただいて30年が経ちました。初めて先生にお会いしたのは,京都大学理学部宇宙物理学教室に配属された3回生の春でした。宇宙物理学教室は当時の古めかしい京大北部構内の中でも,ひときわ古色蒼然とした建物でした。それでも,希望に燃える二十歳には由緒ありげな建物と映り,傍らに経つチューリップツリー(?)の見事な枝ぶりと相まって,一枚の絵葉書のように見えたものです。向かいの厩舎から漂ってくる馬糞の臭いさえ香しく懐かしい気がしました。私は早い時期から,「京大の宇宙物理に進んで上野先生に師事したい」と願っておりました。実は,高校時代に教えを受けた京都コンピュータ学院の長谷川繁雄・靖子両院長のお薦めもあり,「自分の将来は宇宙物理学にある」と固く決意していたわけです。上野先生は第一講座教授として,また輻射輸達論の世界的権威として,既に華々しい経歴と業績をお持ちでした。その雲上人のような方が,ガイダンスの後,うっかり者の私に「君君バッグを忘れていってはいけませんよ」と優雅な物腰で,ズタ袋のような私のカバンを手渡して下さった時には恐縮するやら嬉しいやら…「よーし勉強するぞ」と舞い上がったのですが…30年経った今,初志貫徹とは行かず,宇宙を観る代わり宇宙から地球を観る地球リモートセンシング屋になってしまいました。まさに上野スクールの末席を汚す私が,先生の膨大な業績をきちんと紹介する事などできるはずもありません。思いつくまま上野先生の50年を辿ってみたいと思います。

第二次大戦が終った翌年の1946年,上野少佐は7年余の軍務を終えて,京都大学宇宙物理学教室へ戻られました。一年生のつもりで天体物理学の勉強に取り組まれたという事です。当時,星の大気モデルの研究において懸案となっていた「opacity table」を作成し,国際的に注目を集めました。

1950年代の半ばに,先生のライフワークとなる輻射輸達論の基礎となる確率論的手法に関する研究を始められました。1957年にはフランスに留学され,わずか2年の間に10編もの論文を発表し,「輻射輸達問題の確率論的解析」の第一人者として“世界の上野”となりました。この間,シャッツマン(Schatzman)やペッケアー(Pecker)といったフランスを代表する天体物理学者との交友を深められました。上野先生のご立派さは研究者としての優秀さはいうまでもありませんが,何よりも,その誠実で高潔なお人柄にあると思います。ご友人・知人方の上野先生に対する信頼は絶大です。そのお蔭で,後年私がパリの天体物理研究所に短期留学させていただいた時,ペッケアー教授が里親になって下さり,ていねいなご指導をして下さいました。上野,ペッケアー両教授に改めてお礼申し上げます。

写真2 上野先生を囲んで(右から3人目が上野先生,左隣が筆者)
写真2 上野先生を囲んで
(右から3人目が上野先生,左隣が筆者)

1960年には,アメリカの応用数学者ベルマン(Richard Bellman)に招かれ,ランド・コーポレーションで共同研究が始まります。“Bellman, Kalaba and S.Ueno”の共著論文が多数生まれました。主として「不変埋蔵法等の数値解析アルゴリズムの開発と応用」に関するものです。他分野の研究者との交流を通じ,フィルタリングや系同定等,対象分野を大きく広げられた時期でもあります。

1971年に京都大学を退官され,南カリフォルニア大学教授として3年間過ごされた後,金沢工業大学に移られました。金沢で過ごされた13年間は,地球環境問題が世界の注目を集め出した時期でもありました。金沢工業大学情報科学研究所所長として,精力的に人工衛星データを用いた地球環境問題に取り組み,グループ作りにも尽力されました。上野先生が創設されたこのグループから,現在宇宙開発事業団で活躍する「衛星データの大気補正」サイエンスチームが生まれました。時代の先を読む先生の眼の確かさに敬服します。

金沢工業大学を退官された後,京都コンピュータ学院情報科学研究所所長として京都に戻られました。今春,地球大気における輻射輸達問題の集大成として「Terrestrial Radiative Transfer」を長年の共同研究者である王(Wang)さんやハリエット夏山さんと共著出版されました。写真1は著書執筆中の上野先生です。

以上のように上野先生は,50有余年の長きにわたって,第一線で研究活動を続けられております。その間,国際的な共同研究や学会活動に大きな足跡を残されました。その一つであるニューヨークアカデミーのメンバー就任祝賀会が1996年11月29日京都コンピュータ学院京都駅前校で開催されました。写真2・3はその時のスナップです。先生の薫陶を受けた元学生達の顔が見えます。上野先生は優れた教育者でもありました。英語もフランス語も堪能な先生が「君,一番美しい言葉は何か知っているかい? それは数学だよ。数式は何処の国でも通じるんだよ」と言ってニヤリとされた事がありました。堪能な数式を使って,国籍を問わず多くの研究者を育てられたわけです。

写真3 祝賀会の会場にて
写真3 祝賀会の会場にて

友人に恵まれ,才能に恵まれ,その上端正な容姿を授かり,上野先生程幸せな方はいらっしゃらないと常々羨ましく思っております。何より一番羨ましいのは,最高の奥様に恵まれていることです。結婚当初の上野御夫妻の写真を見せていただいた事があります。セピア色のモノトーンに映る絶世の美男美女。日本人離れした彫りの深い顔立ちにスラリとした長身。まさに,銀幕のヒーロー・ヒロインでした。その一枚の写真を,大事そうにパースに納められる姿に,先生の奥様への温かい想いが伝わり心打たれたものです。先生があれほど研究に没頭できたのは,ひとえに奥様の献身と包容力のたまものだと思われます。お子様が未だ小さい頃,夜泣きをされると,奥様は「主人が勉強に集中できないといけない」と背中に負われて,底冷えする冬の洛北を歩かれたとか…(当時は松ヶ崎辺りにお住まいだったとの事です)。大学院一年生の夏,先生が渡米されるのを京都駅でお見送りしたことがあります。列車のドアが閉まる間際,「お父様,ハンカチを持っていらっしゃる? 切符は? きちんと食事なさって。」と声をかけられる奥様は母性そのものでした。「私もあんな奥さんが欲しいな」と思ったものです。先生のご専門の輻射輸達論とは,星の大気の中で光(輻射)の強さや方向がどのように変えられるかを調べる事だといえます。輻射場は光が大気粒子にぶつかってパッと散らばる「散乱輻射」と,じっとエネルギーを蓄えて熱として出す「熱輻射」から構成されます。上野先生は「散乱輻射」の権威です。奥様がまさに「熱輻射」場としてじっと先生を支えてこられたからこそ「上野の輻射輸達論」が完成したと言えます。先生の数々の論文は,奥様との合作に他なりません。

私の人生で,最も大きな幸運は上野先生に出会えた事だと思っております。振り返りますと,この30年間いつも遥か前を行く先生の後ろ姿を追いかけながら歩いてきたような気がします。先生にはこれからも変わらず,後に続く者達の羅針盤として,颯爽と前を歩いて行っていただきたいと願っております。

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向井 苑生
Sonoyo Mukai
  • 1968年京都大学理学部宇宙物理学科卒業
  • 京都大学理学博士
  • パリ天文物理研究所客員教員,ルール大学(ドイツ)客員研究員,金沢工業大学教授などを歴任し,現在近畿大学教授
  • 地球科学技術フォーラム委員

上記の肩書・経歴等はアキューム9号発刊当時のものです。