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Accumu Vol.1

情報処理教育に求められること

京都大学工学部教授・情報処理教育センター長 長谷川 利治

情報化時代の到来がさけばれるようになって,すでにかなりの年月がたちましたが,いまだにその実体が明らかになったとは到底考えられない状況ではないでしょうか。情報化とは何かを一般的に述べることは至難のわざというべきですし,また情報化の究極的な目標に対する人々の統一的合意が得られているとも思えませんし,将来得られるようになるとも思えません。したがって,ここでは,情報化時代において,大学人として,しかも大学における一般情報処理教育にたずさわっている者としての日頃の経験を通じての見方を述べさせて頂き,これからの厳しい情報化時代に生き続けなければならない方々に,もしかすればお役に立つかもしれないと期待する次第であります。

まず,情報の性質について私どもがとっている見方のあるものを,紹介させて頂き,この観点からすると,情報化時代をどのように認識できるかを述べさせて頂きましょう。

人間のものであろうとなかろうと,すべてのものや活動,状態などは,他に対して意識して,あるいは無意識のうちに情報を発信します。しかも,発信するのが人間であっても,必ずしも意識して情報を提供しているとは限りません。すなわち,私どもは,それを意識しなくてもあらゆる種類のしかも大量の情報にとりまかれております。すなわち,情報の洪水の中で生活しております。

人間は,自己の生存目的を果たすため,得られた情報を重要な判断基準の一つとして,自己及び環境を変えて来たといえます。このことは,あきらかに人類が発生したときから,途切れる事なく続けられてきました。現在では,この情報の洪水の中で,人々は生き残って行かなければならないのです。

得られた情報に基づいて自己及び環境を変革していくとき,情報を如何に解釈し,判断し,選択して行くかという大問題があります。すなわち,情報及び情報の価値を認識することが重要となります。これらが持つ顕著な性質として,これが時間の複雑な関数であり,かつ個人に依存すること,があります。個人個人がもっている価値体系(何に,どういうものに価値を認め,あるいは価値を認めないのか,という判断基準),視野の広さ,洞察力の深さ,考え得るタイムスパン,などによって情報の価値が大きく変化します。このことは,ある得られた情報に対する判断は個人個人及びその時期あるいは時代に依存するということを意味します。ある時代には当然であったことが,僅かの時を経て受け入れ難いことになってしまうことが,しばしば起こります。

一方,私どもが活動を続けて行くために,ある情報を入手しなければならなくなることが,しばしば起こります。過去においては,このための情報入手,判断を自分白身で直接しなければならなかったり,あるいは,しようと思えば可能でありました。世の中の動きが今よりはゆっくりしておりましたし,判断しなければならない情報の量も余り多くはありませんでした。しかし,現代では,いわゆる計算機システム及び通信システムの発展により,情報入手のための努力が,過去の時代に比べて,極めて少なくて済むようになってきたといえます。けれども,この点においても,重大な問題が内在します。計算機システムを中心とする情報システムに情報を蓄積し,検索するためには,情報を変換し,処理しなければならないことに起因する問題です。すなわち,その様なシステムのなかにある情報は,すでに誰かの判断を経て,そこに蓄積されているからです。

換言すると,いわゆる情報化時代が進むにつれ,多種多様の情報を比較的簡単に入手できるようになったけれども,人々が自分自身で直接情報を人手することができ難くなってきました。すでに「1984年」は過去となっておりますが,オーウェルでなくても,他人に依って処理された情報に依存して,生活をしなければならないというのは,とても恐ろしいことであると思いましょう。また,マスメディアなどによるコミュニケーションの発達は,たとえ「1984年」の社会のように意識して情報操作されている,ことはなくとも,私どもの判断を誤らせることは十分考えられます。すでに,わが国においては,情緒的とも言える,いわゆる「情報発信源の一極集中化」によって,余り良くない状況に陥りかけているのかも知れません。なぜわが国でこの様な状況になったのかを考えるとき,「よらば大樹の陰」とか,「長いものに巻かれろ」などと思う人の多い,わが国の人々の民度の低さを現しているように思われてなりません。

幸か不幸か,私ども人類は発展を続け,現在が常に最高の速度で変化する時代であり続けております。したがって,この速度に適合するためには,どうしても最新の情報システムに頼らざるを得ないといえます。考えの対象とする時間を極めて遠い未来にとれば,少し時間的余裕ができるかもしれませんが,それにしても,昔ながらの方法で情報収集,判断をすることは,かなり勇気が必要とされることです。

以上のような問題を含んだ,いわゆる情報化社会で生活して行くために,私どもに要求されていることは,他者の主張を無視することは,とりもなおさず他者が自分の主張を無視することを許容することに外ならないことを考えれば,場合によっては妥協することを忘れてはならないことは勿論ですが,人生に対する自分自身の確固たる哲学を持つことだと信じております。このことは情報処理教育が,たんに情報処理技術,例えば,計算機プログラミングの教育のみを行ったのでは不十分であることを示しています。まことに幸いなことであると言えますが,多くの情報処理教育機関において,一見,情報処理教育と直接的な関連が認識されにくいような教科まで教えていらっしゃることは,非常に素晴らしいことだと思います。

勿論,このことはすべての分野における教育に対して成り立つことですが,計算機を中心とした情報処理システムが人間の思考体系に与える影響の大きさを考えるとき,情報処理教育においてとくに重要であるものと思います。ことに,情報処理を目的ではなく,手段として勉強する人々にとって,将来自分自身のイニシャティヴのもとで,情報処理技術者の協力を得て,目的を達成しようとする場合に必須のことであろうと思います。

「あたまと腕に情報処理技術を,心に哲学を」が情報処理教育の目的ではないかと信じております。

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長谷川 利治
Toshiharu Hasegawa
  • 1934年生まれ
  • 大阪大学大学院修了(工学博士)
  • 京都大学工学部教授,同大学院教授,同大学情報処理教育センター長,同大学大型計算機センター長などを経て,1998年から南山大学教授,2000年4月から同大学数理情報学部学部長を歴任
  • 2007年4月から京都情報大学院大学副学長
  • 現在,情報システム学会日本支部(NAIS)支部長,米国電気電子学会会員,日本オペレーションズ・リサーチ学会会員なども務める
  • 元日本オペレーションズ・リサーチ学会会長,元国際オペレーショナルリサーチ学会連盟(IFORS)副会長

上記の肩書・経歴等はアキューム17号発刊当時のものです。