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Accumu Vol.11

大学崩壊の時代―学校経営の視点から

コロンビア大学ティーチャーズカレッジ(教育大学院) 長谷川 亘

大学崩壊時代の新設大学

私大・短大の定員割れの推移

文部科学省の学校基本調査によると,2001年春には,日本全国の私立四年制大学の三割以上が定員割れになり,約半数の大学が単年度収支で赤字経営となった。定員割れ短大は六割に達し,大学・短大全体で見れば,全国の四割の教育機関が定員割れを起こしている。そして,大学・短大への進学者数は,短大の急速な凋落が原因で,全体で前年度を下回り12年ぶりに減少に転じた。一方で専門学校(専修学校)への進学率が前年を上回って過去最高となり,高卒女子の二割が専門学校へ進学した。高校生の間では,「平均値(偏差値50)以下の大学へ行くよりも専門学校のほうが良い」という見方もあり,大学・短大・専門学校を含む高等教育に対する国民の考え方は,急激に変化しつつある。

ところが一方で,今に至ってもなお,地方に大学が乱立されている。新設大学の中には,全くの新規の設置や,短大・専門学校から認可変更されたものがあるが,それらのなかには,財界人や政治家による地元活性化や利益誘導,そして「短大だと学生が集まらないから四年制に『格上げ』」などという教育理念不在のものも散見される。そういったところでは,学生を集めての地域活性化とか,自分の属する組織を存続させようという思惑と,制度上の「大学」さえ創れば何とかなるだろうといった他力本願的な姿勢しか見えてこない。日本の未来のために何を教えるべきかという教育的ビジョンは二の次である。

今,問題視すべきは,そのような「大学」に,国税や地方税が浪費されているという事実である。破綻銀行に対する公的資金導入は,銀行に働く人々だけではなく,預金者・国民を保護するが,大学への国庫補助は,大学に働く人々や周辺利益を享受する人々だけを保護するに過ぎない。在学生を保護する可能性もあるが,一般的な大学に対する国庫助成が,どれほど学生に恩恵をもたらしているかは甚だ疑問である。学力低下,就職難,どれを取っても学生に直接的な恩恵がもたらされている証拠は見えて来ない。

制度・行政・見失われる学校文化

お上,即ち省庁によって権威を与えられることを名誉と考え,その権威が社会的信頼すなわち実利に結びつくと考える日本では,制度上の基準さえ満たせば権威と実利を獲得できると盲信されている。この「官」についての日本的観念と,日本の「大学」という曖昧な概念が,次に列挙する大学制度の問題点とあいまって,戦後教育の失敗の重要なベースを構成している。

第一に,現行の学校教育法は,大学の教授会に重要な意思決定権を与え過ぎており,学長,理事長にはあまり権限がない。教授会の持つ権限は人事権にまで至るほどであるが,その一方で,当然付随すべき「責任」は問われないようになっている。また,政府が国庫助成の代償として,大学をコントロール下に置く。そこで,政府のコントロール下に入っていれば,護送船団方式で守られると考え,大学組織は惰眠する。日本の大学の大半は,海外から見ると常識外の,マネジメント不在で自主独立性のない無責任な組織である。

第二に,現行の大学組織は,明治時代の大学概念に基づいた設置基準と行政指導にしたがって縦割りに構成されるので,組織内外での横の連携を得難い。組織行動学・情報学からみても,IT化が進む今,19世紀的な縦割り組織が時代遅れなのは明らかである。現代的組織経営の見地からすれば,大学こそネットワーク型組織にすべきところであるが,旧来からの日本的大学概念と制度がそれを阻害している。

そして第三に,大学設置基準はハイテク設備のみならず不動産など資産としてのローテク設備を求める。これにより,一定規模を満たして大学を設置するには地方と都会で資産配分に多大な差が生ずる。都心の伝統ある専門学校や短大,特に財政的規模の小さい教育機関が大学認可を得るためには,土地の廉価な郊外に移転せざるを得ない。すると,それまで周囲の街とともに醸成されてきたその学校独自の文化は失われ,学校が文化的に空洞化する。

教育には,制度によって統制される物質的な条件のみならず,制度では制御し難い観念的なもの(文化)も重要である。国や街に,歴史に培われた独特の文化があるように,学校には歴史の積み重ねの結果である文化がある。それは,「規定どおりの箱を作り,組織構造を決定して,所定の経歴の先生を集めたら,即大学」という発想で創出できるものではない。たとえば,京都大学が市内百万遍界隈から遠く離れ,どこか海辺や山中に移転して敷地面積が拡大しても,それは,学校文化を含めた意味での京大ではなくなる。

歴史と実績のある教育機関が,築きあげてきた「文化」を無視して大学認可取得にこだわるのは,教育の本質論から言って問題があるのだが,学校経営の現実から見れば,現制度は学校の文化的側面より設備要件を重視せざるを得ないようになっている。この日本の「大学」制度とそれに付随する幻想が教育機関の都会離れを促してきた。そして結果,学齢人口の減少より速いスピードで,地方に移転した大学に行く学生は減少し,多くの大学が経営難に陥り,そこに国税や地方税が浪費されている。

歪んだ大学サバイバルと教育の既得権益

冒頭に述べたように現在全国の短期大学・四年制大学の実に四割が定員割れを起こしているが,定員割れ私大の大半は,地方にある歴史の浅い小規模の私立文系で,学生の就職率が極めて低く,マーケット即ち需要者に見捨てられた大学である。それら定員割れ大学に対して,以前は学部ごとにみて定員を割った場合に打ち切られていた国庫助成金が,大学全体で定員割れを起こすまで継続されることになった。そのような「空洞大学」に,破綻銀行への公的資金導入と同様の単なる延命措置に過ぎない過度の保護が与えられている。

男女の区別・差別が少なくなってきた現代,特に短大と女子大の人気下落が著しい。一般的な日本の短大や女子大は,日本的女性差別の社会現象であったという説もある。しかし,それら短大や女子大が,女性学に礎を置く欧米の女子大とは異なる建学理念において,日本独自の思想で女子教育に特化し,歴史的になんらかの結果を残してきたことには疑いは無い。それは,それぞれの教育哲学に基づくものであるから,外野が意見を言うべきではない。ところが,それら女子大や短大が「生き残り」のために,人気下落の定員割れ対策として男子学生を受け入れ共学化するとなると,その学校の教育哲学は根底から覆り,学校が空洞化してしまう可能性がある。

定員割れや財政難になっている新設大学には,教育の根拠たる思想哲学がないところが多い。たとえば,英文学と女子教育で一時代を築いたある短大の理事会で,「郊外に移転し規模を拡大して,男女共学の四年制大学になり,司法改革に対応して法学を教えれば生き残れるのではないか」という議論がなされていた。同窓会の議論においても,母校を残したいと思う老人の郷愁と,母校の教育が社会的に必要かつ有意義か否かという議論が混同されていた。そこには,その学校組織が得意としてきた教育内容を時代に適応させようという発想も,培われてきた学校文化を維持発展させる気概も無い。時代の流れに迎合して,「大学」という「お上のお墨付き」をもらえば経営が成り立つと思い込んでいる。女子短大が,場所を移転し名称を変更して,共学四年制「大学」となり,教える内容も変わり,来る学生も変わるとなると,かつてその学校を特徴づけていた独自の学校文化は霧散して,異なる場所に新しい箱が建つ結果しか残らない。解決されるのは,その大学に働く人々の職場維持という労働問題だけである。他にも多くの新設学部・学科のニュースが聞かれるが,廃止された学部・学科の教員のリストラの話はまず聞かない。看板を替えただけで中身が同じ大学や学部が多いことは容易に想像できる。そんなことがここ10年間の日本の教育界で常識化している。無論,そういう大学でも,学校法人であるから免税措置がなされ,国庫補助が期待されるのである。

赤字経営の新設私立大学に対する国庫補助は,政治家の利益誘導による悪名高い公共事業の場合とその本質は変わらない。土木関係の公共事業による道路やトンネルのように無駄が目に見え難いから,誰も何も言えないのである。建物があって設備も良く,そこでまがりなりにも授業らしきことが行われていると大学に見えるが,学生がそこで本質的に何を学んでいるかは見えてこない。また,教授の研究にしても,実際,何が行われているかはその教授以外にはよくわからない。国の補助金がつく研究でも,補助金の使途は厳重にチェックされるが,研究結果を評価する方法は殆どないのが実情である。大学人には外界が見え難く,外部から大学内部は見え難い。

一体,いかほどの税金が,大学教育・研究という美名の下に浪費されているのか,国民は真面目に検証すべきである。もし,戦後50年にわたる大学への国庫補助が,学問研究や教育に,真に効果的に活用されてきたのならば,現在の大学崩壊・学力低下は起こり得ただろうか。

「税金の無駄遣いのそしりを免れ得ない公共事業」のような大学保護策をするくらいならば,国は,その資源を都会の伝統ある短大や専門学校にまわし,その場所で高層ビル化して設備を拡充させ,最低基準を満たして大学認可を与えるほうが,社会的にはよほど良い結果を生む。伝統ある学校がその街の文化と共に与してきた教育は,社会的貢献度からみて,実は最も重要で保護しなくてはならない,社会の共有財産であり,近隣の街の住民やその学校の卒業生など,大多数の人々の「既得権益」である。大学の地方移転や,専門学校や短大が郊外に出て大学認可を得ることは,その地方だけで見れば新しい権益になると予測されたのだろうが,結局,定員割れが相次ぎ,国税や地方税の浪費の温床となってしまった。これが国全体としては多大な損害であるという事実を踏まえて,文部科学省の旧来の指導方法や大学設置基準等の,欧米からみると特異な規制は根本的に見直されるべきであろう。

大学概念の再検討を

ここで今,再検討せねばならないのは,排他的で極めて曖昧な「大学」という日本的概念である。日本の「大学」には,国立の大規模で高度な総合大学・研究大学から,地方の小規模私立単科大学まで大きな差異があるが,その両者の差異に比べると,小規模私立大学と大学外高等教育機関である専門学校との差異のほうがずっと小さい。実際,いわゆるエリート大学を除いた大衆教育のレベルでは,「大学」という言葉は,不動産を主とするローテク設備の有無に基づく制度上の分類という以外にあまり意味をなさない。したがって,専門学校や短大を対位概念として「大学」を概念化すると空論に陥りやすい。

中世欧米におけるユニバーシティ(大学)とは,大学自治の概念が示すように,王権や教会から権力的にも経済的にも独立した自律(立)団体である「教員と学生の組合」を意味した。日本では明治期に,政府に統制され経済的に保障された官立の官僚養成機関としての近代「大学」が成立した。当時,早慶のような私立学校は,政府の統制から離れ自治独立しながら自由な教育哲学で欧米型近代ユニバーシティを目指したが,まさにそれ故に,大学の名を冠することは許されず「専門学校」と命名されたのであった。専門学校は,明治期に,国が近代大学を創出するときに派生的に生まれた日本独特の高等教育制度で,国家統制から最も遠いという意味では,唯一,日本にユニバーシティを成立せしめ得た民主的制度であると言える。しかし,今も日本では,国家統制の緩やかな専門学校は「大学」より下に見られるので,学校経営者たちは不動産設備投資を増やして大学認可取得を目指す。「大学は国のお墨付きをもらい管理監督され,かつ保護されるもの」であり,そして,それが社会的「信頼」につながるという思い込みは,専門学校という格下の差別対象をもって強化され,かくして教育の本質が見失われていく。

現在,小泉政権下で行われつつある「トップ30大学を重点的に育成」し,他は見捨てるという大学改革の方針は,学問の自由を侵す憲法違反と見ることもできる。しかし,選別方法の問題点がクリアされれば,税金浪費組織を解体し,少なくとも国家的に有益な分野だけを育成する効果はあろう。一方で国立大学行政法人化が進んでいるが,国家予算の大学補助金の上限が定められるという。その下で,国公立大学が現在の財政規模を維持しようとするならば,授業料を倍にするか学生数を倍にするしかない。国公立の授業料が倍になれば裕福な者しか大学に行けなくなり,国公立の学生定員が増えても,私大マーケットが国公立へ流れる。いずれにしても,私立大学への強烈な打撃は避けられず,トップクラス以外の一般的な大学は,経験のない過当競争に陥る。政策面から見ても,制度面から見ても,そして,社会現象という視点から見ても,大学の淘汰は今後数年で予想以上に急速に進む。ここで,大学とは何か,如何にあるべきかを国民が再検討し,税金の無駄遣いシステムを解消して,大学淘汰の速度をさらに上げれば,日本再生ももっと早くなるだろう。

高等教育に自由競争原理を

大学崩壊が叫ばれる今,教育改革を実現するためには,曖昧な現行制度を改め,教育機関を徹底民営化させて中世ユニバーシティのごとく自律(立)させ,教育の成果で自由競争をさせるべきである。とりわけ「大学」には大綱化をさらに進め,専修学校制度と同等の自由度を与えるとともに,安易な補助金給付を廃止して経済的自立のもとに競争させ,需要者即ちマーケットによる淘汰を進めるべきである。工業化時代はすでに終焉し,統制による画一主義教育も不要となった。教育機関の均質な設備的条件よりも,実質的な教育成果にこそ着目すべきである。

そこで,すこし極端な意見だが,ここまで大学崩壊が進み,淘汰の時代が来ているのだから,政府は各種高等教育機関に対し統制と保護において国庫助成を与えるのではなく,将来性を予測して全くの資本主義的発想で,「投資」するシステムを創ればどうかと思う。ユニークなアイデア,明確なビジョンと,そしてそれを実現するに足る能力という三条件を備えたベンチャー企業に対する支援システムと同様のポリシーで,教育の実質を優先し,設備等に関しても設置基準に達するだけの資金援助を,国庫「投資」や民間からの投資で賄えるようにすれば,一般の大学も多少は好転するかもしれない。大学が潤沢な「投資」を得るために,教育の成果において自由競争を行えば,結果として,教育の質的向上も,それを包摂するIT化も促進できよう。また,アメリカのように,株式会社による大学設置も認めればよい。様々な問題点はあるとしても,優良大学の株式を店頭公開・上場するのも一方策である。あらゆる自由化が進みナレッジキャピタリズムが台頭する今,社会はそれを容認する筈だ。教育の自由化と投資システム,そしてマーケットによる選別を通じて,真の,大学改革が実現し得ると思う。それくらいの強力なカンフル剤を打たなくては,日本の「大学崩壊」と「学力低下」はどうしようもないところまで来ている。


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長谷川 亘
Wataru Hasegawa
  • 京都コンピュータ学院白河校出身
  • 早稲田大学文学士,(米国)コロンビア大学文学修士(M.A.)・教育学修士(M.Ed.)
  • 京都コンピュータ学院校友会会長
  • 京都情報大学院大学教授
  • 京都コンピュータ学院・ 京都情報大学院大学 統括理事長
  • (中国)天津科技大学客員教授
  • 一般社団法人全国地域情報産業団体連合会(ANIA)会長
  • 一般社団法人京都府情報産業協会会長
  • 情報システム学会日本支部(NAIS)理事
  • 韓国国土海洋部傘下公企業 済州国際自由都市開発センター政策諮問委員
  • 専門は教育行政・大学経営,テクノロジー援用教育

上記の肩書・経歴等はアキューム22・23号発刊当時のものです。