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Accumu Vol.7-8

海外コンピュータ教育支援活動 タイ国マヒドン大学に滞在して

京都コンピュータ学院技術教育開発部長

アイオワ大学Ph.D./前金沢工業大学教授

寺下 陽一

タイ国旗
タイ国旗

1996年3月9日より4月6日までの29日間,JICA(国際協力事業団)の短期専門家派遣プログラムによりタイ国のマヒドン大学に滞在する機会を得ました。このプログラムは私が本学院に奉職する2年前より担当してきたものであり,実は今回で3度目の訪問になります。

マヒドン大学はバンコック市とその郊外の数ヵ所にキャンパスを持つ,タイでは最大級の大学で,もともと医学部を中心として発展してきました。現在でも三つの付属病院を持っており,依然として医学系が中核ですが,理学部,工学部,その他の多くの学部を持つようになり,国立の総合大学として目覚ましい発展をしつつあります。学生数は約9千人,教員数は約2千人となっています。ちなみに,学校名の「マヒドン」はタイの現国王の父君であるマヒドン公に由来します。マヒドン公は,今世紀の初期にタイでの西洋医学導入に指導的な役割を果たした方で,タイ国の「現代医学の父」と言われています。従って,このマヒドン公の紋章がマヒドン大学の校章として用いられています。

バンコックのチャオプラヤ河の河畔に威容を誇るマヒドン大学付属病院の1つシリラジ病院
バンコックのチャオプラヤ河の河畔に威容を誇る
マヒドン大学付属病院の1つシリラジ病院

私が関係しているのは,その中の「大学院部」という部局であります。そこで1993年に情報システム学科を発足する時に,カリキュラムの作成,教育用コンピュータ設備の整備計画,大学の情報システム化などに関して助言を提供し,かつ関係する教員の養成を担当するためJICA専門家として派遣されたのが最初の訪問であります。2回目の派遣は1994年であり,その時は主としてマルチメディア型CAI(コンピュータ支援用授業)技術の指導を担当しました。今回はその続きで,ディジタルビデオ関連のCAI技術の指導が中心でした。

先に,マヒドン大学はいくつかのキャンパスに分かれていると述べましたが,この大学院部はバンコック西郊,市内から約20キロ程離れたサラヤという所のキャンパスにあります。ここは比較的最近に設置されたキャンパスで,広大な土地のあちこちで新設の学部・学科や研究所の建物,学生寮,職員の宿舎などが次々と建設されているという,活気に満ちた所です。滞在中,私は毎日市内のホテルからこのサラヤ・キャンパスまで大学の車に乗せてもらって通勤していました。悪名高いバンコックの交通渋滞ですが,私の場合は逆方向になるので30分くらいの通勤時間で済みました。ちなみに,このサラヤからあと十数キロ西へ行くとナコンパトムという町があり,そこには世界最大といわれる仏塔があります。

マヒドン大学側の担当者はリンダ・ウォンサヌパットという女性の助教授(タイの大学では正教授は殆どいません)で,大学院部の情報システム専攻の学科主任をしておられる人です。私の専門家としての仕事の内容はこのリンダさんの要請に応える形で私の方で企画・実行します。毎年ほぼ同じパターンで,1,2週間のワークショップの指導が中心です。今回のワークショップは5日間で「CAIにおけるディジタル・ビデオの応用」というタイトルで行いました。到着してから最初の2週間は主としてこのワークショップの準備に費やしました。ワークショップでは参加者(マヒドン大学やその他の学校・政府機関の教職員)に実際に機械を触って実習をしてもらう必要があるため,そのためのハードやソフトのインストールとテスト,講義ノートの作成などで,いつものことながらてんてこ舞いします。

マヒドン大学の大学院部では当初に比べてコンピュータ(パソコン)設備は相当充実していますが,マルチメディア関係,特にディジタル・ビデオ用の装置はまだまだ不十分です。そこで,ビデオ・キャプチャボード2基とMOドライブ1基をJICAの予算で購入してもらうことにしました。この中,MOドライブは日本で購入し携行して行きましたが,キャプチャボードの方はメンテナンスや不良品交換の場合などを考えて,現地で購入することにしました。タイではパソコン本体はかなり便利に入手できるようになってきましたが,キャプチャボードのような特殊な機器を扱っている業者はあまりないのです。しかし前もってリンダさんの方で業者を見つけることができたので現地購入することになったわけです。

機器の現地購入は日本でのようにスムースに行かないことが前回の経験で分かっていましたので,今回は事前(日本出発前)に充分打ち合わせておき,準備期間も充分だと思っていたのですが,それでも相当面倒なことになりました。現地へ到着してすぐに見積書をとりJICAのタイ事務所の方で購入手続きを始めてもらったまではよいのですが,その業者が突然品物を納入できないと言い出しました。仕入先が品物の提供を拒否したらしいのです。そこで仕方がないので,その仕入先から直接購入することにし,見積書,請求書をあらためて出してもらったのですが,代金の支払い方法で難しいことを言い出し,JICA事務所としても経理の手続き上すぐには対応できないこともあって,大もめにもめて結局物が入ったのはワークショップが始まる直前になってしまいました。そういうわけでテスト等はあまりできず,不満足な形のままでワークショップを始めることになった次第です。

ワークショップ参加者の皆さんと。前列右から3番目が情報システム学科主任のリンダさん。その左隣が筆者でさらに左隣は金沢工大の細村教授
ワークショップ参加者の皆さんと。
前列右から3番目が情報システム学科主任のリンダさん。
その左隣が筆者でさらに左隣は金沢工大の細村教授

ワークショップは毎日6時間,講義・実習を組み合わせて5日の間ずっと私一人で担当するという,かなり厳しいスケジュールでしたが,参加者のなかの何人かが助手のような形で手伝ってくれたので,大分助かりました。これらの人達は1年前,あるいは2年前のこのワークショップの参加者で,その後いろいろな形で経験を積み,力をつけてきた人々です。また,この人達が中心となって,私が行ってきたのとほぼ同じ内容のCAIワークショップを国内の他教育機関を対象に何回も実施しているということです。この派遣プログラムの本来の目的である技術移転を極めて効果的に拡大してくれているわけで,当事者の私としては非常に嬉しい思いをしました。

ワークショップの参加者は大学院部以外の人が中心ですが,会場のセットアップ,実習設備の準備,講義ノートの印刷製本などはリンダさんの研究室(常勤の職員3名)の皆さんがやってくれました。チーフが女性で,スタッフも大半が女性であるこの研究室の皆さんの仕事ぶりはなかなか大したもので私も非常に助かりました。タイに進出した日本企業などが現地の人々の仕事ぶりについてのネガティブな批判をよく聞きますが,マヒドン大学での私の経験はそのような批判とは全然相反するものです。また,タイの多くの職場では女性の活躍が目立ちます。マヒドン大学でも女性の教職員が非常に多く,特に大学本部(これは市内にあります)に行くと7割方が女性で,非常に華やかな雰囲気です。国際交流担当の副学長も女性でした。 学生についても,サラヤ・キャンパスでは看護学部などがあるせいでしょうか,女子学生が非常に多いようでした。ただし学生の場合は,皆さん制服をきているため,日本の女子学生とは少し雰囲気が違います。どちらかと言うと女子高生のイメージです。

リンダ研究室のスタッフの皆さんと。前列左から,ワタナ君,ジップさん,タイさん
リンダ研究室のスタッフの皆さんと。
前列左から,ワタナ君,ジップさん,タイさん

さて,タイは常夏の国ですが,それでも年間を通じてある程度の季節変動はあります。その「常夏」の中にさらに「本当の夏」というのがあり,それが3,4,5月になります。学校の「夏休み」もこの時期になっています。タイは北回帰線の南にありますから年に2回太陽が真上にくる時期があります。その1回目が5月,2回目が8月になるわけです。8月頃は雨季ですから日射量も少なくなり適当に暑さは和らぐようですが,4月頃は乾期ですから,太陽は遠慮なくかっかと照りつけます。私のタイ訪問は今回で8回目になりますが,この時期にきたのは初めてで,その暑さには大分参りました。現地の人々も「暑い,暑い。」と言っているのを聞いて「やはりそうなのか」と,変な感心をしたような次第です。

常夏の国の「夏」は花と果物の季節でもあります。マヒドン大学のキャンパスを始め,いたるところで木々には赤,ピンク,黄,白と色鮮やかな花が咲き乱れていました。一方,果物は何といってもマンゴーだそうです。その食べ方もいろいろあるようで,熟す前のまだ青いのをがりがり食べたり,それを漬け物にしたようなもの,あるいは,熟したマンゴーを,蒸したもち米に乗せたデザートもありました。このデザートは珍味だそうで度々ご馳走になりましたが,私などには少々ボリュームがあり過ぎました。(少々大げさですが)町はマンゴーで溢れており,また郊外に出るとあちこちの果樹園(らしき所)でたわわに木からぶら下がっているのをよく見掛けました。一度は,たくさんもらったマンゴーをホテルに持って帰って,せっせと食べていると腹の調子を悪くしてしまいました。せっかくの美味しいマンゴーですが,私の場合接し方がうまく行かなかったようで,少し食傷気味になってしまったというのが実状です。

常夏の国の夏は花ざかり。バンコックの北西200km,バンライの自然保護地区にて
常夏の国の夏は花ざかり。
バンコックの北西200km,バンライの自然保護地区にて

果物もともかく,タイはグルメの国です。本学院でもタイに出張された方が多いので同感の方が多いのではないかと思いますが,タイ訪問の楽しみの一つは美味しいタイ料理を頂くことです。タイ料理の辛いのには最初は参りましたが,回数を重ねると次第に慣れ,激辛の料理にも次々と挑戦をする気になってきます。日本でもそうですが,タイでも料理の味と,その値段は必ずしも比例していないようです。リンダさんの研究室のすぐ側にある大学食堂は一流の味で,特別注文するとメニューも豊富です。そして値段は驚くべき安さです。一方,高級ホテルの料理は同じようなものが3倍も4倍もするのが普通ですが,味の方は必ずしも保証できないようです。

マヒドン大学滞在中は仕事の関係もあって会食をする機会が何回かありましたが,フォーマルな場合は中華料理とすることが多いようです。中華料理は国が変わると味付けなどはその場所にうまく合わせるのだということをよく聞きますが,タイの場合もタイ風にアレンジされているようで,残念ながら私などには何か物足りない味でした。フォーマルな中華料理でよく出てくるのが子豚の丸焼きで,これがメインディッシュになります。これは日本では見られないのではないかと思います。また,私の経験では本場の中国でも見掛けませんでした(場所によって違うのかも知れません)。面白かったのは,今回の滞在中,タイで(可愛い子豚が活躍する)「ベイブ」という映画が上映されたのですが,その影響でこの丸焼きの売れ行きががくんと落ちたということです。その後,売れ行きが回復したかどうか知る由もありませんが,私などにとってもその食卓上での光景は少々強烈で,アヒルの丸焼きが丁度よい位です(子豚の丸焼きの食べ方はペキンダックとほぼ同じです)。

タイでは外食の習慣が強いのでしょうか,路上の食べ物屋台がいつも大繁盛です。したがって,バンコックの路上を歩いていると,食べ物のにおいと,せっせと食べている人々の迫力に圧倒されます。以前,同行の日本人の先生が評して「タイには食べ物が溢れている」と言っていたことがありますが,まさにその通りです。「食べ物に囲まれている」という感じもします。しかしその後よく考えてみると,一部誤解もあるように思います。タイは暑い国ですから元来,食事は風通しのよい涼しい所でとるのが原則です。したがって,日本などとは違って高級レストランから屋台の食べ物屋にいたるまで本来外から丸見えの構造になっているわけです。(クーラーのきいた屋内のレストランはまだ少数派です。)だからどうでしょう,日本でも昼食時なりに,うどん屋,ラーメン屋,カレー屋,すべて入口のドアを取り払い,食卓も椅子も路上に押し出すとバンコックに似た風景になるのではないでしょうか。

バンコックの高速道路の工事。左手の大きな看板のところが筆者の逗留していたホテル
バンコックの高速道路の工事。
左手の大きな看板のところが筆者の逗留していたホテル

タイの経済はここ数年目覚ましい勢いで伸びています。GNPがどうなのかその数字を調べたことはないのですが,町の様子からうかがえます。私が頻繁にタイを訪れ出したのは5年前からですが,訪れるたびに今までなかった所に新しい高層ビルができていたり,新しい高速道路ができていたりして驚かされます。町を走っている自動車も上等のものが増えているようです。新聞などの記事によると,タイ資本の外国進出,特に中国への投資は盛んなようです。経済成長期の日本と同じで一部ではお金がダブって新興の金持ち階級が増えているようです。私の滞在していたホテルにはカラオケ・ホールがあり,そこで夜遅くまで楽しんでいた若者達が,その後24時間営業のレストランで飲食し,私などホテルの客が朝食をとる時間になってもまだそこでねばっているという場面がよくありました。日本だとひんしゅくを買うようなドラ息子,ドラ娘の情景ですが,タイでは必ずしもそうではなく,肯定的に見られることもあるそうで,それが問題なのだとする現地通の日本人のコメントがありました。一般に,タイでは富を顕示することがある意味では社会的に重要なことのようで,それが最近の高級車の増加の原因になっているのかも知れません。また,郊外に増えている新興住宅地の住宅も日本的感覚からすると少々けばけばし過ぎる感がします。

経済成長と関係あるのかどうか分かりませんが,町の治安が以前に比べて悪くなりつつあるようです。どこかの学校の学生の武器携帯に関する新聞記事を見たことがあります。タイは,カンボジアやミャンマーなどの紛争地域と地続きですから,武器の密輸などは簡単なことなのでしょう。また,外国からの人間の流入も相当あるようです。タイと国境を接している国々(カンボジア,ラオス,ミャンマー,マレーシア)の中でマレーシアを除くと,タイの経済水準は圧倒的に高いですから,高賃金を求めてこれらの国々から人々が(多くは不法に)流入しているようです。タイでも既に労働力不足が起こっており,これらの外国人労働者はタイの経済成長のための必要な要素だとする新聞記事を読んだことがあります。タイからの労働者流入がよく問題になる日本ではちょっと想像できないことです。

また,これはタイの対外政策と関係あるのでしょうが,ミャンマーの山岳地帯からの人口流入(カレン族やモン族などの少数民族)については,当局の不法入国取り締まりなどはあまり厳しくやっていないようです。ミャンマーも含め,その他の国々との国境地帯で何が起こっているのか,私など非常に興味があるのですが,新聞などのマスコミもよく分かっていないようです。おそらくこれらの地域は軍の管轄下にありマスコミも入ることができないのでしょう。国境関連の記事はいつも憶測的な書き方で,ミステリーじみたものが多かったように記憶しています。「微笑みの国」の無気味な一面です。

花婿スオングさんと花嫁ナタナンさん
花婿スオングさんと花嫁ナタナンさん

最後に,今回のタイ訪問では結婚披露宴に招待されるという幸運にめぐまれましたので,それを紹介したいと思います。花婿はリンダさんのグループのスオングさんという若い教員です。彼は私の第1回,第2回のワークショップにも参加しており,コンピュータにも強く頭の切れる青年で,今回も私が日本を発つ前の準備段階でハードウェア購入に関して現地の情報をいろいろ調べてくれたりしていました。しかし私が現地に到着してみると別のことで忙しく,ワークショップの手伝いはあまりできない様子でしたので,私としてはいささか残念に思っていた次第です。聞いてみると結婚式の準備で大忙しということなのです。

頂いた招待状は中国語とタイ語で書かれてありました。そして,式場はバンコックの中心街にある「海南会館」となっていました。私はそれまで知らなかったのですが彼は中国系のタイ人だったわけです。(タイの大学などでは中国系の人が非常に多いようです。)披露宴の開始は6時30分ということなので,遅れないようにと少し早めに研究室の皆さんと会場に駆けつけたのですが,やはり交通渋滞で有名なバンコックのこと,なかなか時間通りには招待客が到着せず,実際に始まったのは1時間後の7時30分頃でした。客の数は300人ぐらいでしょうか,とにかく大宴会です。

正確に事情は分からなかったのですが,宴会は花婿側の家族が主体になっているようで,招待客も花婿側の関係者が中心のようでした。ステージに近い主賓席らしきテーブルには如何にも「華僑」といった風情の年配の紳士淑女が座っており,なかなか豪華な雰囲気です。宴の進行は中国語(北京語)とタイ語で行われました。ステージでは,前半はプロの歌手らしき人が数人で歌っていましたが,中頃に新郎新婦や新郎のご両親の挨拶があり,後半は客席から次々と上がってきてカラオケ大会の様相を呈してきました。ついには私の方にも指名がかかってきたのですが,如何せん歌詞がなければ駄目なので挨拶だけで勘弁してもらいました。全体的に日本の披露宴に較べると気楽な雰囲気で,テーブル単位で話がはずみ,また始終出入りがあってざわざわした感じです。他方,新郎新婦は大変です。早くから会場の入口に立って招待客に挨拶をし,宴たけなわになるとステージに出て挨拶をし,その後フロアを回って挨拶をし,終わりに近くなるとまた出口に立って挨拶をと,この間たっぷり3時間,立ちづめ歩きづめで,飲食もなし(自分達の席はありません)という,大変な重労働です。実はその前に結婚式その関連行事が朝からずっと続いていたそうで,そっちの方も大変だったようです。しかし私達にとっては楽しい一時でした。スオングさんご夫婦,どうか末永く幸福に!

終わりに,この出張にあたり多々ご配慮くださった学院長を始め,関係者の皆さんに御礼を申し上げます。

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寺下 陽一
Yoichi Terashita
  • 京都大学理学部宇宙物理学科卒業
  • 米国アイオワ大学大学院に留学,Ph.D.取得
  • アイオワ大学講師,ペンシルバニア州立大学講師を経て,帰国後,KCG創立グループの一員として日本初の情報処理技術教育カリキュラムを作成
  • その後,金沢工業大学に赴任,同大学情報処理工学科の創設に携わり,主任教授,同大学情報処理サービスセンター長を務める
  • 金沢工業大学名誉教授
  • 永らく私立大学情報系教育の振興に貢献
  • 元社団法人私立大学情報教育協会理事
  • JICA(旧国際協力事業団)専門家(情報工学)としてタイ国に3回派遣される
  • 1995年4月本学院に再就任
  • 京都コンピュータ学院洛北校校長,京都コンピュータ学院国際業務部長を経て,2004年4月の京都情報大学院大学の開学に伴い,京都情報大学院大学応用情報技術研究科ウェブビジネス技術専攻主任に就任
  • 現在,京都情報大学院大学副学長

上記の肩書・経歴等はアキューム15号発刊当時のものです。