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Accumu Vol.5

「ナチ宣伝」という神話

東京大学社会情報研究所助手 佐藤 卓己

ナチ・第3帝国・ヒトラー・ゲッベルス,そのいずれからも連想される言葉は「宣伝」である。総統ヒトラーと宣伝大臣ゲッベルスがドイツ国民を戦争に『駆り立てた』技術は神話化され,今日に至っている。だが,この「宣伝の魔力」なる神話こそ,ナチズムが創作し戦後のドイツ国民が自らの罪を忘れるために再生産してきた情報操作ではなかったか。「ナチ宣伝」は「宣伝神話」として,今なお生き続けている。

神話,未だ醒めやらず

図A:『大衆宣伝の神話―マルクスからヒトラーへのメディア史』「啓蒙の神話:印刷機に縛り付けられたプロメテウス(カール・マルクス)」(左)と「宣伝の神話:<社会主義労働者党>のプラカードで労働者をひきつけるヒトラ-」(右)
図A:『大衆宣伝の神話―マルクスからヒト
ラーへのメディア史』「啓蒙の神話:印刷
機に縛り付けられたプロメテウス(カール
・マルクス)」(左)と「宣伝の神話:<
社会主義労働者党>のプラカードで労働者
をひきつけるヒトラ-」(右)

『大衆宣伝の神話―マルクスからヒトラ-へのメディア史』という本(図A)を弘文堂から上梓してしばらく後のある日,某テレビ局から電話をちょうだいした。以下はその会話の一部。

某ディレクター「宣伝大臣ゲッベルスについての番組を企画しているのですが,大衆宣伝を研究される立場からゲッベルスとナチ宣伝についてコメントいただけますか。」

「ゲッベルスについては,現在新しい研究が次々と出ている段階ですので,今すぐコメントできる準備はありません。」

某ディレクター「では,ナチ宣伝の威力というか,画期性についてはいかがでしょうか。」

「本でも書きましたが,ナチ宣伝は先行する宗教宣伝や社会主義宣伝の模倣で,理論的・技術的にみて新しいとは思えません。その威力についても,最近の地域史研究では従来の通説を批判する成果が多く出されています。一概に効果的だったとは言えませんね。」

某ディレクター「そうですか・・。」

その声に落胆が感じられた。私の返答が明らかに彼の期待に反するものだったからであろう。果たしてその数週間後,ゲッベルスを取りあげた番組がテレビ放送された。ゲッベルスがいかに宣伝に才長け,その効果がいかに絶大であったかを強調した番組が。

この番組の例を引くまでもなく,ナチ宣伝の魔力は現代におけるメディア神話のうち最大のものの一つである。ドラマに描かれたり,マスコミで取りあげられることは極めて多い。にも拘らず,全うな研究と呼べるものは極端に少ない。それはなぜか? そして,そもそも,ナチの宣伝力は本当にそれほど強大なものだったのだろうか? こうした懐疑がようやくドイツ本国でも歴史家によって問題にされ始めている。

ゲルハルト・パウルは近著『イメージの反乱―1933年以前のナチ宣伝』(Gerhard Paul, Aufstand der Bilder; Die NS-Propaganda vor 1933, Bonn 1990)で,「1932年以前のナチ宣伝はうまく組織化されておらず,資金不足で,言われるほどには作用していない」ことを実証している。むしろ,ナチの宣伝組織の強化は選挙の勝利に遅れを取っており,ナチ党大躍進の1930年選挙結果は,党宣伝の組織強化とは無関係だったというのだ。

ここで一度我々は,今なお「魔力」だの「集団催眠術」だのと呼ばれ続けているものの正体を改めて直視するべきではなかろうか。

神話の起源=自ら最初の語り部となったナチ

図B:ニュルンベルク党大会の会場に向かうヒトラー(1933年)
図B:ニュルンベルク党大会の会場に向かう
ヒトラー(1933年)
図C:ニュルンベルク党大会で旗行進(1933年)
図C:ニュルンベルク党大会で旗行進
(1933年)

図D:ニュルンベルク党大会でのヒトラー演説(1933年)
図D:ニュルンベルク党大会での
ヒトラー演説(1933年)

まず,我々自身のナチ・イメージがナチ側から提供されたイメージに全く依拠していないかどうか考えてみよう。つまり,ナチズムを批判する側においてすら,ナチによって演出された映像,リーフェンシュタール監督のナチ党大会記録映画『意志の勝利』などに典型的なイメージを歴史的「事実」として無批判のうちに記憶しているのではあるまいか(図B・C・D)。

ナチ宣伝神話の最初の「語り部」は,誰あろうヒトラー自身やゲッベルスを始めとするナチ・プロパガンディスト達であった。ヒトラーは政権獲得以前に出した『我が闘争』(第1巻1925年・第2巻1927年)ですでに宣伝の威力について力説している。『我が闘争』中,最も読み応えのある部分でもある第1巻第6章「戦時宣伝」,第2巻第7章「赤色戦線との格闘」,第11章「宣伝と組織」は,宣伝神話の存在証明として引用されることも多い。権力掌握後もヒトラーは宣伝の絶対的威力を強調し続けた。しかし,それは第3帝国の実態がナチ一色に同一化されていなかったこと,つまり抵抗や不服従の存在のために,一層「宣伝の威力」が必要とされたという事実の裏返しに他ならない。第3帝国成立後,宣伝大臣に就任したゲッベルスは,繰り返し「宣伝だけが阻むべくもない威力を発揮した」と主張することで第3帝国内部での発言力を獲得し,国家官僚組織としての宣伝マシーンを作りあげたが,この宣伝啓蒙省の成りあがりエリート達が自らの地位向上のために「宣伝神話」の創造に血道をあげたことは言うまでもない。

第2,第3の語り部達

だが奇妙なことに,こうした「ナチ宣伝の自己申告」を無批判に裏書したのは,まず亡命した社会民主党・共産党の政治家達であった。彼らはナチ宣伝の絶大な威力を訴えることで,ワイマール共和国で強勢を誇ったドイツ労働運動のあまりにも呆気ない敗北の責任を心理的に軽減すること,つまり第3帝国を招来した自らの政治責任を免ずることを半ば無意識のうちに行った,と言うことができる。

ワイマール期の共産党国会議員であり,レーニンの友人でもあった宣伝家ミュンツェンベルクはナチ宣伝の威力を次のように回想している。

「ヒトラーは彼の<政治広告>(politische Reklame)を入念に計画された強力なシステムに発展させた。そのシステムはあらゆる芸術の技法とあらゆる20世紀の巨大宣伝の洗練された手法を使い,また戦争宣伝の諸経験を格別に悪用したものである。また,あらゆる現代的宣伝手段,つまり語られる言葉,巨大なデモ行進,モダンなプラカード,高速輪転機とラジオを利用し,詐術・欺瞞・まやかしと残忍な暴力をためらいなく動員して,<大衆>的大成功を収めたのである」。『武器としての宣伝』(1936年パリ)

また,実験心理学者パヴロフの弟子でもある社会民主党の宣伝家セルゲイ・チャコティンは,次のごとく総括する。

「臨終の苦しみにもがく資本主義の最後の末裔である,社会主義政党の敵ファシストは,人間的理想もなく,明確な経済プログラムももたないのに,大衆を動かし,偉大な民主主義に衝撃を与え,ときには民主主義から権力を奪い取る手段さえ見い出した」。『大衆の凌辱―全体主義政治宣伝の心理学』(1939年パリ)

ミュンツェンベルは共産党を除名・暗殺され,チャコティンは社会民主党を痛烈に批判したため,いずれの著作も戦後東西ドイツで影響力をもったわけではない。が,こうした「ナチ宣伝」神話は戦後ドイツの歴史研究にほぼ完全に引き継がれた。また宣伝威力の強調は第2次大戦中の連合国における国家的な戦時宣伝研究によっても補強された。

こうして「絶対の宣伝」というナチ自身に由来する神話は,戦後西ドイツでは特にソビエト共産主義とファシズムを同一視する全体主義論の枠で「宣伝還元論」が,東ドイツでは資本主義体制下の独占資本(その操り人形であるナチズム)による「デマゴギー論」が,「新生ドイツ民主主義」の正当化のために一層喧伝された。

免罪符としての神話

では,実際のナチ宣伝はどうであったかと言えば,パウルも指摘しているように理論でも実践でも画期的であったわけではない。ヒトラーが政権を取った1933年以後,いわゆる「第3帝国」時代の宣伝に関して言えば,そこには国家規模で予算と人材が投入されたわけであり,資源動員論の観点からもある程度の威力があって当然である。だが,この第3帝国期の宣伝さえ,ソビエト連邦という「宣伝国家」の前例と比較可能なものであり,空前と呼べるものではない(ソビエトの国家宣伝については,ペーター・ケネッツ著『宣伝国家の誕生―大衆動員のソビエト的方法』〔Peter Kenez, The Birth of the Propaganda State; Soviet Methods of Mass Mobilization, Cambridge 1985〕など参照)。まして,政権掌握以前の一野党であったナチ党「闘争時代」の宣伝にまで,「魔力」を見い出すべきかどうか,これは十分検討されねばならない問題である。

ドイツ人歴史家を含め当時の証言は,ナチ宣伝の魔力や情報操作の巧妙さを強調することで「ヒトラーに投票した人間ひとりひとり」の政治的責任を軽減しようとしていないかどうか,冷静に吟味する必要がありそうである。ナチ体制に対して大衆的な抵抗を行うこともできず,連合軍による占領まで「ナチに騙され続けた」ドイツ国民の言いわけの弁として「絶対の宣伝」は絶大な威力を発揮するはずである。卑近な話にたとえれば,豊田商事や霊感商法など詐欺事件の際「被害者」は宣伝の魔力や言葉巧みな手口を訴えるわけだが,実際には大半の「騙された弱者」もまた欲望をもち,どこかに不合理があると感じつつもあえて知ろうとせずに話に乗ったはずである。非人間的なものとして「魔力」を糾弾する声には何がしか責任逃れの色合いがある。

「ナチを選んだ者」が語る「ナチ宣伝の魔力」を鵜呑みにできないのは,これと同じことである。

「敗戦」の正当化手段としての宣伝

実は,このような心理的な合理化過程は,すでに第1次大戦におけるドイツ帝国の敗北とドイツ革命の勃発を説明する手段としてもち出されている。特に最高司令部で戦争を指導したルーデンドルフ将軍の『戦争回想録』(1919年)は有名である。それによれば,戦場では敵軍をドイツ領に入れなかったドイツ軍の敗北は連合国,とりわけイギリスのノースクリフ卿による戦争宣伝が引き起こした「道徳的崩壊」によるものであり,また開戦時には熱狂的に愛国主義に合流したドイツ労働者が革命を起こしたのはボルシェビキ宣伝によって騙されたものであった。この「宣伝神話」が軍部の敗戦責任の言いわけのみならず,苛酷なヴェルサイユ条約で傷ついたドイツ・ナショナリズムを心理的に防御する機能を果たしたことは言うまでもない。この結果,第1次大戦後のドイツでは宣伝技術や大衆心理の研究と称する書物が一種のブームとなったが,その潮流の中にヒトラー『我が闘争』も生まれたのだった。

ヒトラーが範としたもの

図E:旗を掲げて行進する社会民主党防衛隊(1932年)

しかもこうした宣伝神話は必ずしもドイツ製ではなかった。フランス人ルボン『群衆の時代』(1895年)やイギリス人マクドゥーガル『集団心理』(1920年)の大衆論がドイツで多くの亜流「大衆心理学」として結実する。実際,『我が闘争』の宣伝論はルボンやマクドゥーガルの著作に原形を見い出すことができる。ヒトラーの「宣伝神話」の跳梁跋扈を許さぬためにも,こうした初期大衆社会論は速やかに復刊するべきであろう(いずれも絶版になっているが翻訳はある)。

『我が闘争』においてヒトラーは,大衆宣伝の模範として,ウィーン市長でキリスト教社会党指導者カール・ルェーガーの反ユダヤ主義運動,第1次大戦での連合国の「残虐宣伝」(Greuelpropaganda),マルクス主義の大衆組織宣伝を挙げている。

中村幹雄著『ナチ党の思想と行動』など近年のナチズム研究で特に強調されているように,ナチ党の正式名称「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」の「労働者」は決して飾りではない。「市民」社会への疎外感をもってマルクス主義政党に組織された労働者層を「国民」に統合することを目標とした国民政党こそがナチ党であった。「1919年にはすでに,新しい運動は最高目標として,差し当たり大衆の国民化を実現せねばならぬことが我々には自明であった」と回想するヒトラーは,「それ故この若い運動がその支持者を汲み出さねばならぬ貯水池は第一にわが労働者の大衆である」と『我が闘争』で宣言している。それ故ナチ党は獲得対象を同じくするマルクス主義運動から赤旗の色や演説集会での掛け声などを模倣し,社会主義の伝統にならって「街頭の征服による世論の攻略」,つまりデモの組織化やポスター宣伝を強化していったのだった。この「街頭公共性の争奪戦」は活字的教養の世界から排除された労働者の争奪戦を意味した(図E)。

図F:社会民主党の国会選挙ポスター(1928年)
図F:社会民主党の国会選挙ポスター
(1928年)
図G:ナチ党の国会選挙ポスター(1930年)
図G:ナチ党の国会選挙ポスター
(1930年)
図H:共産党の国会選挙ポスター(1930年)
図H:共産党の国会選挙ポスター
(1930年)

そうした観点からみると,ナチ・ポスターが外面的に社会民主党・共産党の2大左翼政党のポスターに似ているのは偶然ではなく,宣伝も組織も左翼政党のものが模範として採用された(図F・G・H)。ナチの選挙宣伝の最大ターゲットは労働者層であり,1932年以後のナチ党「国民政党」化以後「社会主義」色は後退するものの,従来ナチ党支持層と見なされてきたサラリーマン・農民・女性などがナチ選挙戦の中心ターゲットとされたことはなかった,とパウルは分析している。

「視覚人間の時代」と「宣伝の時代」

パウルの著作のタイトル『イメージの反乱(ここでいうイメージとは原義どおり「映像・図像」を意味する)』というわかりにくいタイトルは次のような含意で使われている。「ナチズムは映像によって人々の脳裏に定着し,映像によってそのイデオロギーを感情的に結び付けた。・・・ナチズムは反革命的イメージの運動であった。つまり民主主義の貧弱な言葉と理性的対話に対する情緒刺激的映像と神秘的ユートピア的表象の反乱であった。宣伝という近代的なジャーナリズムの武器を使った『近代のプロジェクト』に対する反乱であった。」

図I ヒトラーの演説する姿(1925年)オペラ歌手の身振りを想起させる
図I ヒトラーの演説する姿(1925年)
オペラ歌手の身振りを想起させる

ナチの演説会は「共同体のイメージ」を共有することが主眼で内容は二次的であり,内容も絵画的に構成された。それは「政治のスペクタクル化」と呼ばれるが,演説時のヒトラーのジェスチャー(図I)は視覚を意識して美的に構成されたものであった(この美的規準は舞台演劇時代のもので,同じ視覚的表現でも今日のテレビ時代のものとは異なる)。しかし,演説会はすでにシンパシーをもつ少数を熱狂させても,ナチが獲得すべき労働者に影響を与えることができない内向きの宣伝であった。外向きの宣伝として威力を発揮したのは,労働運動が独占してきた街頭の公共圏,つまり政治コミュニケーション形成の場としての街頭での宣伝であった。旗を掲げた行進とポスターにナチズムが力を入れた理由はそこにあった。思考によらざる視覚による宣伝である。それは,財産と結び付いた「教養」という社会的壁を打ち破るコミュニケーションであり,そのスタイルにおいて,明らかにそれは解放的・大衆的,つまり非教養主義的であった。そう考えると,ナチ宣伝の方法はむしろ反体制運動に伝統的なものであり反動的なものではない。それでもナチ宣伝が今日の我々を惑わせるとすれば,それはナチ宣伝が「非人間的」だからではなく,その宣伝神話の受容があまりに「人間的」であるからである。ナチズムは我々の歴史意識を,その宣伝の虚偽性の故にではなく,宣伝神話の切実性の故に当惑させるのである。

終わりに―神話を越えて

今日,「ヤラセ」の問題がマスコミで騒がれている。「ヤラセ」とは広義にはブーアスティンが『幻影の時代(原題The Image)』で論じている「疑似イベント」である。テレビ時代の「疑似イベント」とナチ宣伝について,ブーアスティンは次のように述べている。宣伝はヒトラー『我が闘争』の定義では,「故意に歪めた情報」であり,その効果は感情的な訴えに依存する。つまり宣伝は「魅力ある嘘」であるが,疑似イベントは「あいまいな真実」である。疑似イベントが増えるのは情報への欲求を満たすためであるが,宣伝は興奮したいという感性を満たしてくれる。宣伝は事実を意見で置き換えるのに,疑似イベントは合成的事実である。この合成的事実は,人々が自ら判断を下す「事実」の基礎を提供することによって,人々を間接的に動かす。しかるに,宣伝は,人々の為に明白な判断を下すことによって,人々を直接的に動かす。宣伝の目的は真実を実際以上に単純で理解しやすいものとして信じ込ませることにある。しかし疑似イベントは単純な事実を実際以上に微妙で曖昧なものにすることで人々を引き付ける。つまり,宣伝は経験を極度に単純化し,疑似イベントは経験を極端に複雑化する。

ナチ宣伝も確かに一面「疑似イベント」でもあるが,現在から見るとむしろ素朴なものだ。「ヤラセ」はラジオや映画の時代,つまりナチ時代では当然のことであり,記録映画でさえ技術的に「ヤラセ」なくしてあり得なかった時代である。逆に言えば,映画館の中の非日常世界と現実の生活世界にはっきりとした境目があった時代なのである。「ヤラセ」が問題になる現在は,エレクトロニクス技術とコンピュータ制御によって神話的世界と現実世界の区別がより一層曖昧になった「仮想現実(ヴァーチャルリアリティ)」時代に達している。いやしくも「表現」たるものが,「ヤラセ」なしにあり得るという発想自体,メディア技術の神話に支配されているのかもしれない。

我々をとりまくメディア環境はそうしたところまで到達している。もはや,ナチ宣伝神話にとらわれている時ではない。もはやこの神話を実話として語りついではならない。ナチ宣伝は歴史研究の俎上に載せねばならない。