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Accumu Vol.12

歴史を揺るがした星ぼし

作花 一志

読者諸氏の中には2001年11月19日未明のしし座流星雨に歓声を挙げた方も多いだろう。星空は汚れた大気の底で暮らしている私たちに今なお感激を与えてくれるが,古来長期間にわたって,人々に勇気と恐怖をもたらしてきた。歴史上の記録や伝承より星ぼしの振舞いをPCで再現してみると,そこから新しい古代史観が生まれるかもしれない。

ヒミコの日食

白昼の太陽が突然消えてしまう日食は現代ならツアーを組んで海外へ赴き,一瞬光が漏れるダイアモンドリングとピンクのコロナに歓声を挙げる天体ショーだが,古代人にとっては驚きと恐れの天象であったにちがいない。

247年3月24日の夕,西に沈み行く太陽が欠け始め,細い弧になった状態で没するという日食が見られた。これを眺めた人々は「この世は終わり,もう明日の夜明けはない!」と底知れぬ恐怖に襲われたのではないだろうか。ころは邪馬台国の女王ヒミコの晩年のことで,ヒミコの死を暗示しているともいわれている。卑弥呼とは「魏志倭人伝」の作者の当てた字で,わが国では日巫女であろう。この小文ではどちらの漢字も使わずヒミコと記すことにする。

この日食記録が「魏志倭人伝」にあるのではない,いやどんな書物にもない。東京天文台(現国立天文台)の名誉教授斉藤国治氏の天文計算の結果でわかったことなのだ。この日食は西アジアから朝鮮半島沖までは皆既で見られる。わが国では東へ行くほど貧弱になり,上記のような壮絶な光景は九州では見られるが,近畿では半分くらいしか欠けない。

邪馬台国がどこにあったか,ヒミコは誰かということについての調査研究は,300年前の新井白石に始まり,さまざまな説が立てられている。近畿・北九州はもちろん,はるかジャワまでの無数の候補地があるそうだ。所詮「魏志倭人伝」の短い文章の解釈だけで推察するにはネタ切れで,もう新説は難しいようだ。しかし天文計算という新たな手段を使えば九州に有利となる。

この日食は長く人々の記憶に残ったに違いない。それが語り部に伝承され,別の形で再現されてはいないだろうか?いや,ある,日本神話の中に。「古事記」「日本書紀」がともに記す高天原のハイライト,いうまでもなくアマテラスの天の岩屋戸事件だ。日の女神が隠れるというのだから日食を連想するのは容易である。彼女は弟スサノオの数々の暴挙に怒って天の岩屋戸に籠もってしまい,この世は真っ暗になる。困り果てた神々は協議し,例のとんでもないショーを開いて彼女を引き出し,スサノオを追放する。世界に再び光がさした後,彼女は争いも機織もせず専ら命令を下すだけの神として振舞うところは「復活・昇天」を彷彿させる。

これらをつなぎ合わせると,多少の無理は承知の上で「ヒミコ晩年の日食はアマテラスの岩屋戸隠れ伝承を生んだ。彼女は九州にあった邪馬台国の女王で太陽神に仕える巫女であったが,死後は太陽神として崇められるようになった。」ことが想像できるのではないか。

以上は横尾氏の説(2001)に尾鰭をつけたものである。当日のシンポジウムで反論を期待したい。

安倍晴明の見た天変

千年前の天文博士,安倍晴明の業績を辿ってみよう。「天文博士」とは星のことをよく知っている先生という呼び名ではなく,れっきとした太政官の官職名で,彼は中級国家公務員なのである。その役目は天文現象を克明に記録し,日月食・彗星・流星など天変を見つけたら直ちに極秘に内裏へ奏上することであった。高校の古文の教科書にも載っている「大鏡」の記載によると,彼は寛和2年6月22日(986年7月31日)の花山天皇退位の時にある天変を見たという。帝は藤原道兼(道長の兄)から一緒に出家しましょうと誘われ,だまされて退位・出家してしまうのだが,御所から山科の花山寺に行く途中,晴明の家の前を通った時に「天変ありつる・・・」という晴明の声を聞いたと記されている。実際その夜から翌朝にかけて

①木星がてんびん座α星へ異常接近

②月がすばるの前面を通過

という天象が起こっている。①が見えたのは22時頃までで,②が起こったのは23時から1時ころの間のはずだ。「大鏡」の記述から晴明が叫んだ時刻を推測してみよう。帝は「有明の月のいみじう明りければ・・・月の顔にむら雲のかかりて」から出発したと書かれている。旧暦22日だからほぼ下弦の月,月の出は真夜中0時前,帝の夜行は多分1時か2時ころとなる。したがって問題の時刻はそれ以降になってしまうが,ベテラン観測家の彼がそんな遅くなってから初めて気づいたとは思えない。むしろ予め知っていたのに,それを内裏に奏上せず,このクーデターの黒幕である藤原兼家(道兼・道長の父)に密告したのではないだろうか?

その他にも彼が見たはずの天変に皆既日食(975年),ハレー彗星の到来(989年),しし座大流星雨(967年,1002年)などがある。皆既日食の時は「祟り」を恐れて恩赦が行われ,ハレー彗星の時には改元が行われたそうだ。

平安中期は戦いも死刑もなく一見平和な時代だが,それだけに迷信と陰謀が渦巻く世であった。豊富な天文知識を活用して藤原氏に利用されたり,また利用したりして長寿を全うした彼は,一般人からはマジシャンと映ったことだろう。

シンポジウムでは平安京造営のときの方位測定法や第一級天文資料である藤原定家(小倉百人一首の編者)の記した「明月記」についても語られる予定である。

古代中国王朝の始まりに惑星聚合

中国古代王朝

惑星とは文字通り「惑える星」で離散集合が著しい。BC3000からAD3000までの間,水星・金星・火星・木星・土星が天空上で20度以内に収まる日を検出したところ,実際に眺められる5惑星会合は36回起こっていることがわかった。この珍事は古代史の中に記録されてはいないだろうか?と調べてみたところ古代中国王朝の始まりと関係ありそうだ。中国では西欧のような宗教的ドグマがなく天文古記録は非常に多い。

1. 五星聚井(BC205年5月末)

漢の高祖劉邦が秦の都に攻め入る時,天命を受けたしるしとして,5惑星が井宿(ふたご座かに座あたり)に集合したと「漢書」に記載されている。ところが漢元年(BC206年)に火星だけはみずがめ・うお座にある。そこで数値の誤写だとか後世の捏造だとかいわれてきたが, BC300年から300年間,5惑星が25度以内に収まる日を詳しく捜してみると,翌年5月に実際に起こっていることがわかった。後世の誤写か?,漢書の編者自身の改竄か?,それとも漢元年は一年ズレているのか?。

2. 周将殷伐(BC1059年5月末)

「五星聚井」より854年前,同じ月日の同じ時刻に同じ方向で五惑星集合が起こっていた。 これは6000年間で三番目にコンパクトな惑星会合である。時は殷末,酒池肉林などで悪名高い暴君,紂(ちゅう)王の世であり,密かに反旗を翻す準備をしていた文王は,というよりその参謀である太公望は,この夕の天象を見て「天命下る」と解釈し殷周革命(BC1046年頃)を正当化するための手段に利用したと考えられよう。この天象の記録は「史記」にはないが,唐の時代の占星書「大唐開元占経巻十九」に記載されている。

3. 夏禹商湯(BC1953年2月末,BC1576年12月末)

BC1953年2月末早朝,木火土金水のみずがめ座への集合は,6000年間で最もコンパクトな五惑星の集いである。ほとんどの民族はまだ先史時代で,記録はなくても微かな伝承として残ってはいないだろうか?中国では殷の前の夏の時代である。夏王朝の存在は確かめられていないが,その初代禹(う)は黄河の治水の指導者で,伝説の聖帝 尭,舜の次に天子に推戴されたという。出典は明らかでないが,「禹の時代に五星が連なり輝いた」という伝承を1800年後,漢の時代になって記載したという話があるそうだ。これを偽記事と決めつけるような夢のない話はやめよう。その夏は十七代桀(けつ)王のとき商(=殷)の湯(とう)に滅ぼされるが,これは最初の王朝交代戦であった。この事件はBC1600年の頃といわれるが,紀元前16世紀17世紀には五惑星会合は起こっていない。四惑星会合はいくつかあるが,BC1576年12月末に,いて座に水星・火星・木星・土星が集合したものがもっともふさわしいようだ。

惑星会合は王朝交代の兆しというのは出来すぎた話で,筆者はこんな相関を主張して占星術を述べるつもりはもちろんない。むしろ漢初の五星聚井を漢の正統性の根拠とするため, 逆に夏殷周漢の始まりをすべて惑星の大集合が起こった時期に設定したと考えた方が自然だろう。

ベツレヘムの星

さてヨーロッパで歴史的・伝承的に有名な大きな明るい星の出現伝承と言えば,イエスの誕生の時現われたという「ベツレヘムの星」がまず挙げられよう。2000年間さまざまな説が提唱され,文字通りスーパースターである。これらについて諸々の説が横浜こども科学館の出雲さんのページに詳しくまとめられている。

この星についての記録は新約聖書のマタイ福音書のみで,その真実性については異議もある。当時の大文明国のローマ帝国にも漢帝国にもこの記録は伝わっていないのだから。しかしとにかくマタイ福音書第2章の記述通り考えてみよう。

キーになるのは,東方の博士たちがエルサレムに来て「私達は,東の方でその方の星を見たので,拝みにまいりました。」という件である。「東方」とはユダヤから見て東方となるとバビロンを指すと考えられる。バビロンは大いなる都といわれ,古くからオリエント文化の中心地であり,占星術に長けた博士もいたはずだ。東方の博士はこの星をかつてバビロンで見てユダヤに着いてから再び見たというのだから,同じ現象が2度あって

一回目はバビロンで西天(ユダヤの方向)に見た。

二回目はユダヤに着いてから見た。この日がイエスの誕生日。

と推論できる。「ベツレヘムの星」の候補としては彗星,新星,超新星等々多数考えられているが上記の条件を満たすとなると惑星の会合と考えるのが最も適切であろう。この条件に合うペアを,乳飲み子のイエスを殺そうとしたヘロデ王(BC4年またはBC1年没)の在位末期で探すことにしよう。

「ベツレヘムの星」の候補となる惑星会合

BC7年からBC1年までの間,一度以内の惑星会合は多数あり,同じ惑星同士の会合は6回ある。しかしバビロンからユダヤまで旅日数を考えると,そのうちの5回は間隔が開きすぎで,残るものはBC2年6月と8月の水星火星会合だけである(A)。 また,会合する惑星が1回目と2回目で異なるが,上記期間の中でコンパクトな集合の1番目と2番目はともにBC2年に起こっている(B)。A案B案どちらでも,2回目はBC2年8月26日の早朝,火星・水星・木星が一度以内に集合し,さらに金星も近くに見えたという会合となる。ただし薄明の東空なので非常に見づらいが。

またBC7年に木星・土星がうお座で三回連続して会合を起こしているが,この三連会合は400年前ケプラーが計算の上で発見したものだ。その二回目または三回目の重なり合った木土がベツレヘムの星とすると,クリスマスは9月14日または12月19日となる。3連会合は希な現象で,1800年から2300年の間にわずか四回のみ,1821年,1940年,1981年この次は2279年まで起こらない。

はて,東方の博士たちはどの現象を見たのだろうか?


京都コンピュータ学院の創立40周年記念行事の一環として,一般市民対象にシンポジウム「歴史を揺るがした星ぼし」を6月21日(土)に開きます。専門知識は不要ですから,読者諸氏の積極的なご参加を期待します。

参考資料

「史記」ちくま学芸文庫

「漢書」ちくま学芸文庫

「聖書」日本聖書刊行会

「古事記」岩波文庫

斎藤国冶「古天文学」恒星社厚生閣 1989

作花一志・中西久崇「天文学入門」オーム社 2001

横尾武夫「天文教育」No7 2001

作花一志「天文教育」No8 2002

作花一志 http://www.kcg.ac.jp/kcg/sakka/

出雲晶子 http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/christmas.html

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作花 一志
Kazuyuki Sakka
  • 京都情報大学院大学教授
  • 京都大学大学院理学研究科宇宙物理学専攻博士課程修了(宇宙物理学専攻)
  • 京都大学理学博士
    専門分野は古典文学,統計解析学。
  • 元京都大学理学部・総合人間学部講師,元京都コンピュータ学院鴨川校校長,元天文教育普及研究会編集委員長。

上記の肩書・経歴等はアキューム24号発刊当時のものです。