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Accumu Vol.11

初代学院長の思い出 ―思い出は尽きない

植原 啓之

夜桜のもとで,故長谷川繁雄氏(左)と筆者(右)。
北大路高野橋にて(1986年4月1日撮影)
夜桜のもとで,故長谷川繁雄氏(左)と筆者(右)。
北大路高野橋にて(1986年4月1日撮影)

今にして,私の過ぎ来し70余年を思い起こせば,13回忌も過ぎた,故長谷川繁雄氏(初代学院長)との係わり合いは,その大きな部分を占めております。僅かな紙面に総てを書き記すことは不可能ですが,その中でも特に思い出深い事柄を記述して,初代学院長を偲ぶ縁にしたいと思います。

初代学院長(この項以下「彼」と呼ぶ)と私は幼馴染でした。物心ついたお互い小学生の頃,彼と私はよく相撲を取った仲でした。彼は私より一つ年下で,背丈は同じ位でしたが,横幅では彼が勝っていました。相撲は何時も私が負けていました,10回に1回位は勝たしてもらった覚えがありますが,未だにその悔しさは残ります。

世の中,親の心情は昔も今も変わりません。私の少年期に母親は,彼を私の良きライバルとして,彼に負けないように身体を鍛え勉強も頑張りなさいと叱咤激励したものでした。

やがて,彼は県立の明石中学校(旧制)へ,私は私立の滝川中学校へ進学しました。彼は柔道,私は蹴球(サッカー)をしていましたが,時代は支那事変から大東亜戦争へと移り変わり,部活もなくなり,戦争が熾烈となる中で,中学三年生から学徒勤労動員によって,彼も私も軍需工場へ行く等して,彼とも当分の間,音信不通の状態となっておりました。

当時,食料難で彼の家へ岩塩(ガンエン)を貰いに行ったことがありましたが,その時は彼と会うことはできませんでした。

1945年6月に神戸の我が家はアメリカ軍の爆撃機B29による爆撃を受けて焼失し,また彼の家も被災し,安否もわからなくなりました。やがて私は親戚を頼って京都に移り住みました。

戦後間もない頃,私は立命館専門学校に在学していましたが,風の便りに彼が京都大学に在学していると聞きました。お互いに環境的な変化は戦中・戦後の日本の変動に押し流された感がありましたが,戦後の世相混乱の中にあっても,彼は芸術をこよなく愛し,自らピアノを弾き,詩を書くという青春を過ごしていたと聞き,彼の気高さに賛辞を贈ったものでした。

1950年頃,彼と再会する時が来ました。それは正に奇遇と言えるものでした。京都は丸太町寺町辺り,少年期の面影を残した二人は,一目合うなり「イヤー」と驚いて名前を呼び合って再会を喜び,お互いの身の上と近況を語り合い,話に興じました。

その時,彼は同伴していた小柄で理知的な面差しの美しい女性をフィアンセだと私に紹介しました。この女性こそが現学院長(長谷川靖子先生)でした。その時,私も女性を同伴していて彼に紹介しました。この女性が私の家内の陽子でした。お互いデイトの最中に再会するなんて,神様も粋な計らいをするものだと思います。

その時,彼に誘われて寺町二条上ルに現存するお蕎麦屋さんに入り,お蕎麦を食べた思い出があります。別れ際に靖子先生が陽子に,「これをプレゼントします,お暇に聴いてください」と,クラシック音楽のLPレコードをくださいました。そのLPレコードは,今も我が家のレコードBOXにあります。

当時から,お二人は音楽を大変に愛好され,音楽で結ばれたと言っても過言ではありません。現在も京都コンピュータ学院では,一般教養の視聴覚教育の一環として,他に類を見ない学生対象のクラシック音楽会を定期的に開催しています。学生に対する情操教育の上で,喧騒の世の中,一時の心の安らぎと明日への糧を与え,教養の一助となる最高のものだと思います。この音楽会の企画は総て現学院長の手によるもので,今日まで継続して開催されている功績は大きいと思います。

さらに時を経て,彼と再会します。1960年代前半のある日,私は所用あって京都に来ておりました。御池通りを京阪三条へと帰路を急いで京都市役所の前まで来た時,彼の姿を見つけたのです,彼は乗用車のトランクから荷物を取り出しているところでした。思わず声をかけ「イヤー久しぶり・・・何をしているの」と,彼は突然の出会いに驚いた様子で「今から市役所へポスターの検印を押しに行くところ」と言いました。話を聞けば,彼が主催している「電子計算機プログラミング講習会」を開催するため,受講者募集のポスターに検印を押しに来たのだとのことでした。

この頃が,京都コンピュータ学院創生期であったと,後になって分かりました。初代学院長は学院創生の頃,自らポスターを制作し,そのポスターに検印を押して,各所に掲示しておられたのです。

今でこそ,コンピュータやソフト・ハードと言えば知らない人はおりませんが,当時,電子計算機やプログラミング等を知る人は数少なかった時代です。初代学院長ご夫妻は力を合わせて講習会を企画・運営・開催され,この講習会から「京都ソフトウェア研究会」を主宰され,日本初の民間における情報処理技術教育を開始され,次いで高校卒業生のための「京都コンピュータ学院」を開校されたのです。

その時の若い初代学院長の姿を思い起こすと,この再会の時こそが,現在の京都コンピュータ学院繁栄の礎を築く創生の時代であったと,誠に感慨深いものがあります。

その後,縁あって1975年8月に私は京都コンピュータ学院に入校(就職)し,彼の許でお世話になることになりました。私が入校当時,初代学院長は「京都コンピュータ学院は情報処理技術を学ぼうと志した人達(学生)が,お金(授業料)を持ち寄ってできた学校です。何処からも援助を受けていないし,受けようとも思わない。援助を受ければ当然拘束を受けることになる」と,そして「教職員と学生達共々に力を合わせてユートピアを創ろう。それが自分の目指す学校だ。」と話されました。この言葉は,それ以後も機会ある度に話されていました。また当時は,コンピュータイノベーション時代にあわせ,入学希望者が急増し,初代学院長ご夫妻は,理想の学校づくりのため,昼夜を問わず,何時寝て,何時起きられるのか,私には計り知れないものがありました。教育内容の充実と校舎増設に奔走され,その知慮と頑健さには恐れ入ったものです。

しかし,そのように頑健であった初代学院長も,1986年7月2日早朝,闘病の末に,愛するご家族の方々に見守られて,帰らぬ人となられました。

私もその場に居た数少ない教職員の一人でした。前日,初代学院長危篤の報に接し,急拠,病院に馳せ参じ,その夜は駐車場の車中で一夜を明かしました。その時,無信心な私が手を合わせ「学院長をお助けください」と念じていたことが忘れられません。

遂に逝ってしまった。万感こみ上げるものがありました。初代学院長のその日までの偉大な足跡や多大の業績等と,私との多くの係わり合いが一時に重なり合って脳裏を駆け巡り,涙が込み上げて来たことを覚えております。

知力・体力・気力共に人並み以上に秀れていた初代学院長が,ひ弱な私より先に逝くなんて考え及ぶところでありません。その時,正に神も仏もこの世に存在しないと,悲しみと同時に憤りさえ覚えたものでした。ただ,初代学院長は,私達に大きな遺り物を残してくださいました。京都コンピュータ学院こそ,若き日に芸術を愛していた初代学院長の生涯をかけた作品であるともいえるでしょう。私は京都コンピュータ学院の職員になったことで,多くのことを学び,色々な経験をさせて頂き,また多くの人達と知り合うことができました。私が受けた恩義は身に余るものがあります。私はそれに感謝し,それに報いる使命があると考えております。


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植原 啓之
Hiroyuki Uehara
  • 京都コンピュータ学院総務部顧問
  • 学校法人 京都コンピュータ学園理事
  • (社)京都府専修学校各種学校協会理事
  • (財)京都府私学振興会監事

上記の肩書・経歴等はアキューム11号発刊当時のものです。